徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

母の誕生日

今日は母の誕生日だ。めでたい日である。

間もなく数年後には十干十二支が一巡しようとしている母。元気である。親の不調を子供がどれだけ気にするか知っているのだろう。元気じゃなくても元気なふりをしてくれている。誰も知らないところで生まれて消えた星は最初からなかったことになるように、気が付かなければ起こっていないのと同じなのだ。

しかしいよいよ、両親が健康でいてくれることが嬉しい。元気に働いてそれなりに疲れている話を聞くと安心をする。多少のデコボコは大いにあるらしいが、子供には感情的にもならずに淡々としているものだから、本当はどの程度しんどいのか計り知れない。風邪を引いたら喚き、怪我をしたら震え、不満を抱けば言葉で殴りつけるしかできない僕のような浅く小さい人間にはできない芸当である。立派だなぁと思う。

親となり、伯父となり、伯母となり。そうして育つ何かが必ずある。SMAPが歌った「らいおんハート」には、

いつかもし子供が生まれたら 世界で二番目にスキだと話そう

という歌詞があり、配偶者への尽きない愛情を間接的かつ強烈に伝えているが、この手の愛情と次の世代への愛情は根本から違う。別ジャンルの一番同士と考えたほうがいいだろう。惚れた腫れたの愛情は構って構われての関係になることが多い。お互いをお互いに心配し合う。気に掛け合う。添い遂げる愛情。でも、子供たちへの愛情は気をかけさせないことを良しとした愛情である。子どもたちの行く道を整備し、その道に没頭させることで自らも満足する。見守る愛情だ。

両親をみていると、自分が親にならない限りはああいう心持ちにはなれないんだろうなと思う。僕の生きる道を整えてくれて、親に振り回されることもなく、親にとらわれることもない人生としてくれて、本当に感謝をしている。そうなりたいとも思う。

あらためて、誕生日おめでとう。めでたい日であった。

異動になりました。

異動になりました。部署は変わらず、課が変わる程度の異動ですが、やはり不安8割と期待2割が鳴門海峡のごとく渦巻いております。

改めてだが、ごく微細な異動である。北見市芳町から北見市大町に引っ越す程度の異動だと思ってくれていい。誰もわからないだろうが。ミニマムな異動だとしても、異動は異動である。見知らぬ人、見知らぬ業務とこんにちはをする。

我が社は3月が異動の時期なので、同期含め先輩から何から何まで、嬉し恥ずかし悲し情けなしの大席替え大会が行われていくわけである。露骨な異動が盛りだくさんで、ゾクゾクとヒヤヒヤが止まらない。昇進、就任、昇格、栄転、栄進以外の横並びの異動は大抵が歯を食いしばらざるを得ないものだらけで、誰が得をしているやらわからないシャッフルが横行している。

僕も晴れてその片棒の片棒の片棒を担いだのだが、やはり不安だ。予習のしようのないテストを受ける不安に近い。抜きうちテストである。素養が試されているようで恐怖でしかない。そしてその恐怖が社内に跋扈している事実。喧々囂々。

同じ境遇の方と本日お話しする機会をいただいたのだが、僕らは強気な言葉と弱気な言葉を発作のように呟き続けた。さながら躁と鬱がシャトルランをしているがごとく、思いの丈を訥々と唱えた。手を替え品を替え、我が身を悲観しながら相手を励まし、自分を励ましながら相手の身を憂う。傷つけ合いながら傷を舐め合うネコ科の何某のようであった。

不安なのだ。

鼓舞しきる力もなければ、いじめ抜く覚悟もない。待ち受ける前途に漠然とした不安を抱き、抽象的な打開策にすがる。なんで弱い人間だろうか。僕なんかはほんの少し動く程度のそれだが、大陸が動くレベルの異動を迫られる人の覚悟たるや、想像を絶する。そこまで行くと腹をくくれるのかもしれないな。

君なら大丈夫。あなたなら大丈夫。彼なら、彼女なら、誰なら。何を根拠としているかわからない限定的な「大丈夫」。競馬が当たるよりも難しい力学が働いている気がしてならないが、言わざるを得ない。自分も大丈夫と信じたいから。君にあなたに彼に彼女に幸を祈りながら、自分に幸が訪れることを願ってやまないから。どこまでも淺ましい人間。でもそれが人間。情けないかな、自分可愛さに皆に愛想を振りまく日々である。それはそれかと思いながら、一からの関係と一からの愛想をファブする。

3月から頑張る。つまりは、そういうことである。

君、感じはいいけど感じ以外良くないよね。

およそ1ヶ月前にこの言葉をありがたく頂戴した後、僕は中身を育てるのではなく、感じがいいとはどういうことかを考えた。得意を伸ばそうと思った。その結果出てきた幾つかのメソッドをここに書き記したい。

感じは見た目ではない。声を大にして言いたい点だ。僕の全てを否定した彼女が唯一認めた点、感じの良さ。感じの良さが見た目であるならば僕は絶世の美少年でなければならないが、そんなことは全くない。中学生の頃に勢い余って坊主にしたら女の子が2週間ちょっと近寄らなくなってしまう程度の顔面偏差値である。それでも、感じだけはいいと言われる。父と母より賜った顔では勝負が決まらないのだ。夢のある話だ。

じゃあなんだろうかと。

感じは目元と口角と声のハリにより生まれる。半分くらい確信がある。感じの良さを相手に思わせるために必要な時間は実に少ない。おそらく挨拶した時の一瞬で勝負が決まる。金正男の命が2秒とかからずに異国の地で散っていったが、あの手口よりもずっと短時間で相手を仕留めなければならない。ほぼほぼ一発芸だ。

そこで感じを高めるために相手の聴覚と視覚を鷲掴みにする。まず破顔である。目尻を下げる。口角を上げる。唇が切れるほどに笑う。いきなり大爆笑フェイスができないシャイピーポーは、目をキリッとさせるだけでいい。虚ろな目だけはしない。眠いのか覇気がないのかしらんが手前の都合なんて知らないのでさっさとキリッとする。そして声を出す。ハリのある声をどう出すか。ダンディボイスのあなたはそのままで十分魅力的だが、僕のようなゲロボイスを持って生まれた人間はそのままだと感じの良さを与えられない。だから、歌うのだ。歌うように喋るのだ。眉間の辺りからこんにちはの声が出てると考える。額からおはようございますが飛び出していると信じる。すると勝手に声にハリが生まれる。普段より高い声が発射され、相手の耳に突き刺さる。感じいいビームである。破顔ないしはキリッ顔が目から、感じいいビームが耳から五感を切り裂き、相手に少しだけ爪痕を残す。あれ?あの人感じいいんじゃない?と思わせる。勘違いされては困るが、一朝一夕では感じいい評定に太鼓判は押されない。感じいいんじゃない?と思われるか否かは一瞬だ。しかしあの人は感じいい!まではしばらくかかる。毎日毎日挨拶だけでも相手の五感を掴んでいく。雨だれのごとく心を穿ち続ける。それがいつしかか相手の芯に届くのだ。

生来感じいい奴なんていない。感じは作るものだ。顔ではない。雰囲気作りだ。やりすぎたらうざったい噂が立つはずなので、そうしたら一時停止すればいい。感じの世界では普通の人は感じ悪いとなんら変わらない。感じいい人だけが特待クラスに振り分けられ、その他は大差がなくなる。スタートダッシュでその後のやりやすさが決まってくると思っていいだろう

さて、中身ってどうすればいいのですか。

ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?

真剣に考えてみよう。

仕事終わり。僕は疲れて家のドアを開けている。日がな一日働き、帰宅ラッシュに巻き込まれながら帰ってきた。汗ばんだ身体を空腹が満たしている。足はどんより重く、面倒くさいに塗れた状態だ。ドアを開けたら女性がいる。妻か。彼女か。複雑な関係か。関係性は置いておくとして、目の前には出来上がったご飯と温まったお風呂。スタンバイ完了である。

そこで女性は訊いてくる。

「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」

女性からすると、「あ・た・し?」と自ら開示している辺り、相当「あ・た・し」をチョイスしてほしい気持ちが垣間見える。「蕎麦にする?うどんにする?それとも…ラー・メ・ン?」と上目遣いで言われた日には、ラーメンを食べさせてやりたい、いや、ラーメンが食べたいと思うだろう。同じ論理である。

女性は「あ・た・し」推しだとしても、こちとら働いて帰ってきているわけだから一考の余地がある。「あ・た・し」の魅力は言わずもがなであるが、空腹ものっぴきならない。温かいご飯があるならご飯がいいんじゃないかな。そんなふうに思う。まずは苦しいスーツを脱いで、部屋着に着替えて、さっさと飯を食いたい。飯を食ってからその後のことは考えよう。着替えて座ってご飯を食べる。するとどうだろう。ただでさえ面倒くさいに塗れていたはずなのに、面倒くさいがどんどんと自分を支配してく。面倒くさいに溺れる。風呂…いっかな、もういいや、風呂。明日の朝入ればいいし。風呂はもういいや。テレビをぼんやり見る。ウトウトして、いかんいかんと寝に行こうと思う。「あ・た・し」と布団に入る。ゴロゴロする。「あ・た・し」タイムが静かに幕を上げる。

なんとなくわからないでもない流れではないだろうか。得てして風呂は優先順位レースで下位に押しやられる。何故か。それは「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」には生命が抗いようのないトリックが隠されているためである。

大層なことではない。「ご飯」と「あ・た・し」は生理的欲求であり、「お風呂」は生理的欲求ではない。この差がベルリンの壁の如く前者と後者を隔てている。帰宅時、僕たちはとても脆い。意志の力が最も低下している時間帯であるため、生理的欲求に打ち勝つのが難しい。その上一つの生理的欲求が満たされると立て続けに生理的欲求が湧いてくるので、すぐ眠くなったりしだす。結果、風呂にも入らないで不潔ナイトを過ごしてしまうのだ。

ほんの少しの意思でいい。ほんの少し、「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」の瞬間に、「お風呂」と答える意思を持てば、その後の行動が至極楽になる。生理的欲求に身を任せても全く問題なくなる。給食時間に嫌いなものを最後まで残した挙句、食べるまで昼休みをお預けされた経験を持つ人は多いだろうが、あれも全て嫌いなものや面倒なものを先延ばしにする悪しき習慣が引き起こす業だ。気合い入れてスパッと済ませてしまえば、幸せかつ充実したその後が開けている。

でも、でも、でも。わかっていてもできないのが人間の可愛いところでもある。さあ、今宵僕はこれからシャワーを浴びるのだろうか。全く持って自信がない。

社会のルールを知らずに生きる怖さ

似たようなことを以前にも書いたかもしれないが再掲する。

野球を見て面白いと思うのはなぜだろうか。それはボールが遠くに飛ぶからとか速い球を投げるからとか横っ飛びとかしながら捕球するからではない。野球のルールをわかっているからだ。ピッチャーがマウンドから球を投げる。目掛けるのはおよそ18メートル先にて構えるキャッチャー。傍らには敵チームのバッター。バッターに向かって広いグラウンドが広がっており、ピッチャーとキャッチャーを除いた7人の野手が守備をしている。バッターは野手に取られないところにボールを打ち返せばいい。ただ、ホームベースの延長線上にあるラインを外側に逸れた所にボールが飛ぶとファールとなってしまう…

なんだ、書きながらややこしいルールに辟易としているのだが、さすが国民的スポーツということで誰もがある程度野球のルールを知っている。だから、野球は面白いと言われる。サッカーもそうだ。手を使わないという基本的なことから、オフサイドの意味、ファイルの意味、各々の選手の役割。それぞれが社会通念かのごとく知られている。対してワールドカップで大活躍する以前のラグビーなどはルールがとにかく知られていなかったから視聴率も上がらなかったし、マイナーなスポーツとされていた。

ルールがないとめちゃくちゃになるし、ルールを知らないと面白くもなんともない。僕達は無意識にルールを知っているものに目を配り、それ以外のものは見えてる気でいて目を向けていない。

さて、そこでである。社会の真ん中で、片隅で、一生懸命だったりのんべんだらりとだったり生きている。でも、大抵の人は社会のルールをよく知らない。これがどれほど恐ろしい事実か。

社会のルール即ち法律だ。商売のルールは商法だし、刑罰のルールは刑法。散歩するにも道路交通法が目を利かせている。文学部のあんぽんたん学生だったから他にどういった法律があるやらわからないのだが、僕らの一挙手一投足は法律というルールに沿った形でしか動かせないことはなんとなくわかっている。ただ、その内容を知っている人は多くない。士業の法律屋さんくらいなものだ。

つまるところ、大半の人々は社会のルールを知らないまま社会人として社会で生きている。野球のルールを知らないままプレーするのと何ら変わらない日々を送っているのだ。

野球を楽しむにあたってルールブックの隅々まで把握している必要はない。アウトラインだけ把握しているだけでも十分に楽しめる。僕だって対してルールに詳しくないが面白く観戦できている。でも、こと法律に関しては七割方の人がからっきしわからないままだろう。だからルールに詳しい審判的役割の弁護士さんや税理士さんたちが重宝がられる。彼らにとっては当たり前のようなことを僕らは「今の何!?」「今のどういう意味!?」「ここにボール落ちたんだけどどうすればいいの!?」といちいち審判に聞きながらプレーせざるを得ない。それも多額のお金を払いながら。

もちろん世の中適材適所であり、これから法律のエキスパートになろうとは思わないし思ってもきっとなれない。手に職がないなりに商売をしながら生きていくのがきっとこれからの僕の人生だ。判断に困る場合などは専門家に判断を仰ぐべきだろう。しかし、観戦するに最低限知っておくべきルールがあるように、生きるのに最低限知っておくべきルールもあると思う。何をすれば得点できるのか。何が反則なのか。少なくともそのあたりの基本的な情報はルールブックを見ずとも、審判に確認せずとも判断が下せるようにならなければならない。そうありたい。なにしろ無知は恐ろしい。ルールの上でルールを知らないまま生きて、知らずうちに反則を犯して退場を宣告されることだってあろう。搾取の対象にだってなり得る。

日本語しかしゃべれないし、プログラムを書けるわけでもない。よくあるサラリーマンを生きている。これからの世の中を渡っていくには、いささか不安な心許ない武器しか持ち合わせてはいない。学ぶべきところは多いが、まずはルールからかなぁと考えているところである。

花粉症が致死性であったら日本はとっくに壊滅している

振り向けばマスク。正面にもマスク。点鼻薬、点眼薬、飲むマスク。四方八方を花粉症患者で包囲されつつある今日このごろ。芽吹きの春が彼ら彼女らにとってはキル待ったなしのシーズンらしい。

僕は北海道でのうのうと生きていた頃から花粉には全く持って鈍感である。白樺という飛散力破壊力ともに抜群の花粉を持った樹木が生い茂る大地においても、春秋ともに鼻にも目にも訴えかけられなかった。その傾向は本州進出してからも続いており、未だにスギ花粉を身体で感じたことはない。春は綺麗だなぁな季節である。決死の覚悟で飛び込む季節ではない。

実感として、周囲の人の3人に2人は花粉症だ。「花粉症辛い」が一昔前の「月9面白い」みたいなある種の共通言語となっており、なんか花粉症じゃない人間は若干の村八分にあっている気になる。こういう状態だから、花粉症が鼻水涙かゆみで済んでよかったと心から思うのである。もし仮に花粉症がインフルと同値の厳しさを強いるアレルギー反応だったとすると、春になると日本経済はストップする。スギ花粉を吸い込んだ後、5日ほどの潜伏期間をおいて発熱と節々の痛みが始まる。高熱にうなされ、病院に駆け込み、インフルですか…?と診断を仰ぐも、いえこれは花粉症ですと一蹴される。アレルギーの薬出しときますねーと言われるもまだ春も始まったばかりであり、これから2ヶ月は高熱にうなされる日々が続く。絶望的だ。考えただけでゾクゾクする。

インフル程度ならまだいいかもしれない。これが天然痘よろしく途轍もない致死力を誇る殺人花粉だったりなんかしたらとっくに人間は滅びている。少なくともスギのメッカである日本は壊滅している。春先を告げる梅の花はレクイエムである。発症したら最後、過度の鼻水による脱水症状をはじめとする多臓器不全によりしに至らしめる病、花粉症。誰も外出しないし、プラズマクラスターはフル稼働だし、杉を駆逐しにかかる非花粉症人間がゴーストバスターズかのように崇め奉られる。

なんというか、うまくできた世界である。死なない程度に苦しみながら皆生きている。本当に死に至るような諸々を間一髪で躱しながらうまく生きている。

僕はいつまで花粉の脅威から逃れ続けられるだろうか。今年か。来年か。

さして料理が好きではない一人暮らし男性会社員がおくる、お弁当の作り方と継続する方法。また、そのメリット。

一昨年の年末から会社にお弁当を持っていっている。

はや丸一年以上お弁当生活である。男女問わず、お弁当を作りたい・会社に持っていきたいと思っている人は多い。僕の周りにですら何人もいる。しかし尻込みしたり、続かなかったり、実際に弁当にガッツリ身をうずめている人はそう多くはないように見受けられる。寒い日が続きますが、ここらで一つ、お弁当作りのコツなんかを書き記したいと思う。

最大のポイント

結論から話す。毎日弁当を作るためには、

  • お弁当にまつわる選択肢をいかに減らすか
  • お弁当づくりに割く時間をいかに減らすか

が非常に大切である。お弁当作りをする際の行程が限りなく一本道かつ短距離であることが重要なのだ。当たり前のようだが、弁当作りの出だしからこだわりを出してしまう人がきっと多い。そして挫折していく。

一年もお弁当を作っていると、さぞ料理が好きなのだろうとか、マメなんだろうとか、色々言われるがしかし、僕はものすごく人並みな勤勉しか持ち合わせてはいない。そんな奴がどうして一年も作り続けられたかといえば、それはクオリティの低さからとはいえ選択肢と調理工程が極端に少なかったからに違いないと考えている。

選択肢を減らすとは

それはお弁当を作る時の分岐点を少なくするということである。お弁当箱どれにしよう…とか、何入れよう…とか、炒めようか煮ようか茹でようかとか。そうしたあらゆる分岐点を一切排除する。最低限、箱・具材・調理方法の3点をビシッと決めるのだ。3点を決定すると平面が定まるように、幾つかの分岐点のうち3点を一本道にすることによってお弁当作りを作業化できる。味付けなんか適当にすればいい。なんとなくお分かりいただけたかと思うが、僕の弁当作りはひどく無骨だ。おしゃれな彩りとかとはかけ離れている。そういうのが目指したい人は何処ぞの洒落たブログにハウツーが書いてあると思うのでそちらを参考にしてもらいたし。タイトルにあるようにあくまで「料理は大して好きじゃないしそこまで興味関心がない人間が弁当作りを続ける」シチュエーションに絞って話をしていく。

我が家の弁当の作り方

ケーススタディとして、実際に僕がどんな感じで弁当を作っているかを紹介したい。

弁当作りの分岐点を排除するための三点だが、僕の場合は箱→二段弁当、具材→鶏胸、玉ねぎ、人参、キャベツor白菜、調理方法→炒めると定めている。ここに関して迷うことは一切ない。箱の詳細や買い出し先は後述する。

まず最初にレンジに冷凍しておいた鶏胸を入れる。2分間温めて解凍する。その間に玉ねぎとキャベツor白菜を切る。その日の気分で好きな形に切る。人参は小分け冷凍してあるので、解凍が終わった鶏胸と野菜諸々をごま油ないしはオリーブオイルで一気に火にかける。その間、冷凍のご飯を解凍。炒めている間に適当に鶏ガラの素とかコンソメとかで味を調える。炒め終わりと解凍終わり次第、二段弁当にそれぞれ詰めて完成である。その間5分ちょっとである。全く負担にならない。

所要時間を減らすとは

お気づきの方は多いだろうが僕の弁当作りにおいて重要な要素として小分け冷凍がある。

小分け冷凍のメリットは、長期保存調理工程の短縮だ。

これは弁当作りにおける分岐点の削減と言うより、弁当作りの工程の削減に大きく寄与している。迷路を歩くのもしんどいが、一本道だとしても万里の長城は歩きたくない。なにしろこちとらマメな人間じゃないのだ。

所要時間の削減のためには食材の調理工程を減らすことが重要であるのはおわかりいただけるだろう。

「切る→炒める」これは2工程である。「皮をむく→切る→炒める」は3工程。ちょっと手間だ。「解凍→炒める」は2工程だが、「解凍→切る→炒める」は3工程。チリツモとはこのことで、工程が増えれば増えるほどじわじわと面倒くさいが膨らみ、次第に作らなくなっていく。もっと良くないのが、「切る→傷んでるかもしれない…→食材の状況を確かめる→使うか迷う→不安だから諦めて新しい食材を切り直す→炒める」とかいうパターンである。こんなことやっていたら時間がいくらあっても足りない。

小分け冷凍は解凍後即調理に結びつけられる上に、新鮮なまま調理できるので鮮度に気を取られる必要性がない。理想の保存方法である。

何よりも準備が大事

弁当作りにおいて、分岐点を減らして作業化するのは、食材を絞って買い込み、弁当箱を決めれば簡単に済む話だ。だが問題は調理工程の短縮化である。どうしても下準備が必要になってくる。振り落とされる人が多いとすればここだろう。

手前ごとで恐縮だが、僕が弁当の買い出しに行く際には、胸肉にして2キロ、玉ねぎ6玉、人参4本、キャベツか白菜安い方一玉を一気に買う。そして帰宅後、鶏肉と人参はすぐ小分け冷凍をすることにしている。玉ねぎは長期保存できるのでそのまま。キャベツや白菜は洗った後新聞紙に包み、ビニール袋に入れて冷蔵庫で保存だ。面倒くさい精神に打ち勝つのは生半可なことではないが、未来の自分への投資であると考え、歯を食いしばって切り刻んで凍らせる。気合一発である。ここで横着をして弁当作るときに切ればいいや…なんて甘い考えを抱くと、いざ調理の折にほとほと面倒くさくなって途端に続かなくなる。逆に、ここを乗り越えると弁当作りは続いていく事が多い。

弁当作りのメリット

では果たして弁当作りしてどうなのと。当日の朝は5分ちょっとで調理できるとはいえ、準備に自分をすり減らしてまで弁当作るメリットあるのと。そこのところを書き記したい。

コスト

おそらく皆さんにとって一番興味があるのがコスト面だろう。ざっくばらんに計算してみたい。

40年近くのサラリーマン昼食代推移をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュース

上のページをみると、2015年現在、サラリーマンがランチに要する平均金額が587円だという。これと比べてみる。

我が弁当軍のスタメンをおさらいする。

お米・鶏胸肉・玉ねぎ・人参・キャベツor白菜・たまに卵

以上である。子細にコストを計算していきたい。

お米

日本人たるもの米を食わずしてどうする。主食である。

いつも近所の西友で買っている。5キロにしておよそ1500円のブレンド米。5キロとは何合なのだろうか。

米1袋は何合 - クックパッド料理の基本

クックパッド師匠が言うには、33合に相当するようだ。3合炊で4食分とする我が食生活を鑑みると5キロで44食分。便宜上すべて弁当に使用したとすると、一食あたり34円。えらい安い。

鶏胸肉

ギリギリ近所と言える辺りに業務スーパーがある。そこでは鶏胸肉が2キロで890円で売っている。2キロと言うと胸肉の塊がおよそ7つ入っている。1塊につきおよそ2食分としているので、14食分である。すると1食63円

玉ねぎ・人参・葉物野菜・卵

愛用の八百屋がある。

八百関商店

様々な野菜が衝撃の安さで手に入る。

玉ねぎは大きな玉5つで160円。人参は大4本で100円。キャベツや白菜は1玉およそ160円。卵は10個で170円。極めつけはバナナで大きな房8本入りで100円なのだが、弁当には入らず。もちろん時価なので値段は不安定なのだが。

ざざっと計算すると、野菜・卵類の一食分は多く見積もっても60円

集計

するとどうだろう。お米が34円、鶏胸肉が63円、野菜等々が60円。合計すると一食あたり157円。劇的な安さではなかろうか。確かにすべての食材を弁当に使っているわけではないのでもう少し単価は上がるだろうが、それでも200円ほどのものだ。200円でどれだけの量を食べられるかというと、

 この弁当箱いっぱいに食べられる。相当な量である。

覚えておられるだろうか、サラリーマンの平均ランチ金額。587円だったはずだ。すると強気に見積もって一食につき400円、弱気な勘定でも350円は間違いなく浮いていく。弁当箱代は初期投資だ。減価償却されて行くものである。計算になんて入れない。一日350円浮いたとして、週5日労働で1750円のコストカット月にすると7000円のコストカット。食材がある勢いで夜ご飯も自炊したりなんかすると輪をかけて節約になっていく。そう。小分けにしていると晩御飯も家で食べる気になる。切る作業が少なく、疲れていても調理が負担になりにくいためだ。相乗効果。

脅威のコストパフォーマンスをおわかりいただけただろうか。

コスト削減のコツ

スーパーマーケットを利用しないことである。餅は餅屋。野菜は八百屋。肉は肉屋。原則、専門店が一番コスパがよくなるようになっているようである。スーパーは「物+色々揃う」という価値で勝負しているが、八百屋は「野菜」で勝負している。小品種に特化し、「便利」とかの付加価値が少ない分、野菜の品質・価格にすべてのインフラをつぎ込めている感じがある。一度八百屋で野菜を買うと、もうスーパーでは買えなくなってしまうだろう。

しかし僕はまだ肉屋に入る敷居の高さに負けて肉のみ業務スーパーである。まだまだコスト削減の可能性が残っているのだ。

ウケ

副産物なのだが、周囲のウケが非常にいい。特に女性が多い職場に努めている男性は同僚からの評価が非常に高くなるので是非オススメしたい。「よく作ってくるね。」「マメだね。」この言葉がどれだけ僕を頑張らせてくれたか。金銭面と自己肯定の両面で支えられてこその弁当ライフだったりする。

 

可愛くもなんともない、食べるための弁当作り

手の込んだキャラ弁を子供に持たせたいママたち。その真逆を行く、「食べる」に特化した弁当を末永くかつ素早く作るにはどうしたらいいか。どれだけお財布に優しいのか。だらだらと書いた。美意識が僕なんかの数百乗はあるであろう方たちには参考にならないことが多かったかもしれない。

だが、もし気合い入れて弁当作ろうと試みるも、継続が出来ずに断念していた人がこの記事を見て、省エネたらふく弁当作成にチャレンジしてみようと思ってくれたのなら。こんな形の弁当もあるんだと、弁当の選択肢に気がついてくれたのなら、全く持って本望である。

電車で隣になった人がいつも英語の勉強をしてくれていたのなら

隣の芝は青いではないけれど、電車で密着した人の読んでいる本や新聞は何故だかとても面白そうに映る。スマホいじっててもそこまで魅力的には思えないのだが、紙媒体で勉強とかされていると興味がそそられて仕方がない。

早急に必要な学力はない。商売をやっていく上でそれとなく数字が見られたり世の中を渡るバランス感覚を養ったりといった勉強は必要だろうが、TOEIC何点!とか、フィナンシャルプランナー何級!とかっていう具体性のともなった勉強を突きつけられてはいない。この間まではのっぴきならない勉強があったのだが、喉元を過ぎてしまった。なんとか捻出していた勉強時間がふわっと浮いた今、学ぶ時間をつくれることはわかっている。やるかやらないかは自分のさじ加減1つ。

弁当作りが続いているように、苦にならない範囲で1日30分ほどの時間を何かに充てるのはおそらく苦にならない性格だ。問題は内容である。英語〜なんていう程よく雲をつかむような勉学じゃきっと続かない。本当に実になるものか、本当に知的好奇心がくすぐられるものでなければならない。

二の足三の足を踏んでいるうちに時は経つ。YouTubeをぼんやり見ているうちに夜が更ける。空っぽの時間ばかりが生産されていく。そんなんであれば電車で近くの人が延々と英語でも学んでくれたらいいと思う。絶妙に興味をそそられる他人の勉強に引き摺られながら学んでしまいたい。

他力本願とは、このことでしょうか。

壁を一枚隔てた向こう側には未洗浄食器がある

次に立ち上がったときは奴らを片付けなければならない。その事実はココロの中に黒い点として存在し、立ち上がることを拒ませている。

僕は今パソコンに向かっているわけだけれども、こうしているとパソコン以外の世界なんてあるんだかないんだかわからない。例えば今大雪山のどこかで木が一本雪の重みに耐えきれずに倒れたところで、誰も倒れた事実を確認していないわけだから倒れたとはいえないのではないだろうか。この手の不毛な水掛け論に中学生の頃熱を上げた。ありがちな生暖かい哲学青春を過ごした。つまりなにが言いたいかというと、壁の向こうの世界なんてあるかないかわからないのだ。そう、食器だってあるんだかないんだかわからない。我思う故に我あり。虚構だらけの世の中である。

でも僕は確かにさっき鍋を食べた。鍋を食べたって思う自分は確かだ。ものを食べたらゴミか洗い物が出るのが僕が生きる世界の摂理である。経験的に知ってしまっている。だからこの壁の向こうには高確率で食器が汚れたままでおいてあることとなる。たまったもんじゃない。目視すら存在を確実にしないとデカルトは唱えたのに、目視もしていない食器が壁の向こう側という超遠距離にほぼ確実に存在するという。

自分の思考以外のすべてを疑ったデカルトは洗い物をどうしていたのだろう。洗い物すらも嘘だと言っただろうか。そんなものは虚構にすぎないですって虚勢を貼り続けたのだろうか。よくわからない論理の刃を振りかざして快刀乱麻するデカルトの隣でお手伝いさんとかがイソイソと食器を洗ったりしていたのだろうか。ダメダメじゃないか。頭でっかちの極地…そう、頭デカルトではないか。

まぁいいや、洗います。立ち上がります。

真剣に書こうとすると頭の悪さが露呈しだす問題

よーし、書くぞ!と思う話題が幾つかあるのだが、筆をとると書きたいことがそこら中に散らばってしまって全く体系的に書けない問題がここ最近急浮上している。A4のコピー用紙とかにまとめればきっとそこそこ論旨はまとまっていくと思うのだが、ダダダーっと書くと本当にとっ散らかって笑うしかないような文章が出来上がる。優秀なやつはこういうのもババッと仕上げるんだろうなとか思いながら、我が能力の乏しさを憂う。

なんかこう、考えに筋みたいなものをすぐ通せるような訓練をしたいものである。とっ散らかるのは3次元的に思うところがボンボンと膨らんでいってしまっているからで、一本筋が通りさえすればそれは2次元の線の上での話になり、理路整然と結論まで辿り着くに違いない。筋力と書いて「すじりょく」と読ませるその力を養えば、モヤモヤ悶々として霞がかかった頭の中を十全に皆様に伝えられるはずなのだ。

何かいい本とかないだろうか。クリティカルシンキング!みたいなそれだ。読書無精でも日々の糧になるのであれば頑張って読みたいと思う。

とにかくこの毎日書きたいみたいなスタンスに思考能力が追いついていないのは間違いないので、限られた脳みそをうまく使って生きたいと思いを新たにしている所存である。