徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

三島由紀夫とであった

本屋の息子に産まれたくせに申し訳ない程度の読書しかしてこなかった。世の中の読書かの方々であればもっとこの境遇を生かして博識高い人間になれていたのだろうが、僕は出来なかった。山のような本に囲まれながら必死にゲームをしていた。本に手を伸ばしたと思えば攻略本だった。

大学生になって実家を離れてもたいして本は読まなかった…というか、読書量は増えることはなく読んだり読まなかったり、ぼんやりした読書体制を敷いていた。

そういうわけで、この間三島由紀夫と初めて出会った。潮騒を読んだ。


潮騒 (新潮文庫)

潮騒 (新潮文庫)


人里離れた離島での恋物語を耽美な筆致で描いた作品だという。言うが易し。読んでみて、文章の上手いことに驚いた。冗長な表現もほぼなく、必要な心情と情報を過不足なく伝える言葉たち。そして何よりエロい。どことなくなんとなくエロい。こういう恋がしたい。したかった。不器用が恋にほころぶ瞬間がこんなに美しいとは。美しく描くとは。なんでしょう、感服だった。

逆説的にこれまでの読書に乏しい日々を嘆いた。恵まれた環境にいながらなんという体たらく。A5ランクの牛肉しか取れない牧場主の息子が牛肉嫌いだった…みたいな話である。万死に値する。

僕はこれから読書をしようと心に決めた。名作、名作家に浸ってみようと思った。悲しいかな、近所の図書館の品揃えはひどい。しかし、手に届く範囲でいい。娯楽として言葉の流れに身を任せてみようと思う。

どうしても、三島由紀夫の日本語は美しかった。

僕は多分小沢健二のお話を一生できない

幾つかこのブログにも小沢健二についての記事がある。一時期貪り食うように2つのアルバムを聴いていたので、その頃に書いた。

 

LIFE

LIFE

 

 

 

刹那

刹那

 

 

この度19年ぶりに活動を本格再開させるらしい。ライブは時たまそこかしこでやっていたようなので、新曲という形を取っての活動が19年ぶりと言うことでいいのだと思う。

小沢健二が売れだした時期に人生をスタートさせ、ニューヨークへと去っていたときに小学生に上がるくらいだった僕は、今一生懸命に小沢健二の音楽を聴くし、歌詞を読むんだけれど、理解しきれていないんだろうなと感じている。どことなくフェミニンで苦しそうなハイトーンがなんとも言えずに魅力的で、公園通りや教会通りを歩きながら銀河の彼方に思いを馳せてさよならを告げる歌詞が蜃気楼の如き儚さを思わせて素敵である。

魅力を感じるのと理解をするのは違う。これはいい!と良さに気がつくのは容易いが、何がいいのかを理解していく過程は茨の道だ。もっと言ってしまえば、同時代を生きてリアルタイムで体験してみないことには、歌が生まれた文脈がわからない。それでも書籍を読み漁り、周辺知識を埋め立てまくることで相当まともな理解ができるようになるのだろう。「理論武装をする」と言うは容易いが至難の業である。

 

小沢健二復活に際して各所各方面で待ち焦がれていた声が上がっている。小沢健二の歌に共感し、救われ、数年に一回無性に聞きたくなってアルバムを聴き直しているような、オザケンラバーがカラフルな声を上げている。平易な言葉の組み合わせなのにどういう解釈にだってできてしまう歌を聴き、我が身に自然と重ねては、勇気と感傷をもらったリアルタイムオザケンラバーたち。雪がつもるように、少しずつ少しずつ小沢健二の曲と出会い、少しずつ少しずつ小沢健二を理解し、ずっしりと蓄えられた雪の壁の如き知識と理解。後追いのゆとり連中には近づき得ない遥かな思いがそこにはあるのだと感じている。羨ましくて仕方がない。

だから僕は多分小沢健二の話を一生できない。何を話しても浅はかでしかなくなってしまうから。いつまでたっても何がいいのか伝えられないまま、ゆっくり聴き続けることとする。

異動と筋肉痛の類似性について

異動先へ初出勤である。この先何年か生きることとなるであろう職場に入り込んでいく。同じ会社、同じ部なのだが、異なるタイプの課である。同じサッカー部内でもフォワードかディフェンスかくらいに違う。

一年半、昨日までの職場で働いていた。10年選手が何人もいる中で、たった1年半である。何を覚えた気になってんだと思われても仕方ない短期間だ。例えばもし後1年半いたとする。石の上にも3年。当たり前だが、日々の仕事はパターン化されていく。経験がそうさせる。

さて、筋肉の話だが。

同じ部位の筋肉をいじめ抜くと、そこの部位だけ肥大化していくのはなんとなくお分かりいただけるかと思う。水泳選手の肩幅とか、競輪選手の太ももとかを見ると、驚異の肥大を遂げている。

毎日毎日同じ部位に同じ負荷だけをかけていても、一定のところで筋肉の成長は止まる。強くしなやかな筋肉を作るためには、昨日より今日、今日より明日と負荷を強めていかなければならない。

筋トレではそれができるが、仕事だと難しい。

日々の負荷は大抵変わらないもので、ある程度まで行くと後は作業になっていく。引き出しが増えていけども、ある一定の数でそれも止まる。何しろ同じ仕事しかしていないのだ。同じ筋肉だけを淡々と維持しているのと同義。

そこで、異動である。別の部位の筋肉を鍛える。

めちゃくちゃ強い太ももとかめちゃくちゃ強い上腕ではなく、バランスを鍛えていく。3年程の期間で異動し、テンポよく別の筋肉を鍛え続け、バランスのいい体を作り上げる。


だいたい異動前は尻込む。それは同じ筋肉をある程度の負荷でポイポイ鍛えている方が楽だからだ。無意識にそいつを把握してしまっている。本当の蛇の道はきっと大転職人生にある。未知を突き詰め、全身筋肉痛になりながら全身を鍛え続ける。なんとバランスのいい仕事ボディが出来上がることだろう。

まずは皆様の名前を覚えて顔を把握するところから始めようと思います。

鼻をほじらないことが何よりの健康法ではないだろうか

僕は鼻をほじるのが好きだった。鼻くそ(以下、例のそれ)はホコリを吸い込むたびに溜まる。鼻の粘膜を塞ぐ例のそれを取り除いたときの清涼感と爽快感はフリスクスーパーハードを大量摂取した感覚に酷似している。やみつきになる。

そういうわけで幼い頃から鼻をほじりたがった。人目をはばからなかった頃も合ったし、自我が芽生えて人目をはばかる様になってからも誰もいない廊下をとかを歩きながら鼻をほじった。そして生まれ変わった鼻腔にて最初に吸い込む息の清々しさに心を震わせた。世の中にこんなに美味い空気があるのか!遠足の写真かなんかで決定的瞬間を激写され、全校規模で極めてプライベートな鼻ほじりタイムを晒し上げられたことも合った。誰よりも親が悲しんだ。

時を同じくして、僕は毎年2回3回と風邪を引いては学校を休む子だった。休むほどでもない体調不良は非常に多かった。身体は大きかったが、強い子ではなかったと思う。

その原因が鼻をほじる行為によるものではなかったろうかと、今本気で思っている。

鼻の穴。即ち粘膜である。喉にウイルスが付着したら風邪をひく。これは自明だ。だが喉の奥に直接何かが触れることはまずない。口呼吸とかをして、飛沫状の菌が喉にやってくる。しかし、鼻の穴は触れられる粘膜である。泥だらけの手、菌だらけの手。これらで鼻をほじってみろ。毒の侵入を快く許しているようなもんである。素手でなくとも、ティッシュを一枚噛ませていても大して差はない。風邪待ったなし。

僕は大人になり、ある程度鼻をほじるタイミングをコントロールできるようになった。相変わらず鼻をほじった直後の清涼感・開通感は大好きであるが、TPOはもちろん衛生状態も加味して鼻ほじタイムを設けるようになった。それからと言うもの、劇的に風邪を引く回数が減ったように思う。粘膜が守られている。そんな感じがする。

ホントはこんな恥ずかし告白をブログなんていうパブリックスペースでしたくはなかった。が、衝動は止められない。思い立ったら書かざるをえない。

穴があったら入りたい。

母の誕生日

今日は母の誕生日だ。めでたい日である。

間もなく数年後には十干十二支が一巡しようとしている母。元気である。親の不調を子供がどれだけ気にするか知っているのだろう。元気じゃなくても元気なふりをしてくれている。誰も知らないところで生まれて消えた星は最初からなかったことになるように、気が付かなければ起こっていないのと同じなのだ。

しかしいよいよ、両親が健康でいてくれることが嬉しい。元気に働いてそれなりに疲れている話を聞くと安心をする。多少のデコボコは大いにあるらしいが、子供には感情的にもならずに淡々としているものだから、本当はどの程度しんどいのか計り知れない。風邪を引いたら喚き、怪我をしたら震え、不満を抱けば言葉で殴りつけるしかできない僕のような浅く小さい人間にはできない芸当である。立派だなぁと思う。

親となり、伯父となり、伯母となり。そうして育つ何かが必ずある。SMAPが歌った「らいおんハート」には、

いつかもし子供が生まれたら 世界で二番目にスキだと話そう

という歌詞があり、配偶者への尽きない愛情を間接的かつ強烈に伝えているが、この手の愛情と次の世代への愛情は根本から違う。別ジャンルの一番同士と考えたほうがいいだろう。惚れた腫れたの愛情は構って構われての関係になることが多い。お互いをお互いに心配し合う。気に掛け合う。添い遂げる愛情。でも、子供たちへの愛情は気をかけさせないことを良しとした愛情である。子どもたちの行く道を整備し、その道に没頭させることで自らも満足する。見守る愛情だ。

両親をみていると、自分が親にならない限りはああいう心持ちにはなれないんだろうなと思う。僕の生きる道を整えてくれて、親に振り回されることもなく、親にとらわれることもない人生としてくれて、本当に感謝をしている。そうなりたいとも思う。

あらためて、誕生日おめでとう。めでたい日であった。

異動になりました。

異動になりました。部署は変わらず、課が変わる程度の異動ですが、やはり不安8割と期待2割が鳴門海峡のごとく渦巻いております。

改めてだが、ごく微細な異動である。北見市芳町から北見市大町に引っ越す程度の異動だと思ってくれていい。誰もわからないだろうが。ミニマムな異動だとしても、異動は異動である。見知らぬ人、見知らぬ業務とこんにちはをする。

我が社は3月が異動の時期なので、同期含め先輩から何から何まで、嬉し恥ずかし悲し情けなしの大席替え大会が行われていくわけである。露骨な異動が盛りだくさんで、ゾクゾクとヒヤヒヤが止まらない。昇進、就任、昇格、栄転、栄進以外の横並びの異動は大抵が歯を食いしばらざるを得ないものだらけで、誰が得をしているやらわからないシャッフルが横行している。

僕も晴れてその片棒の片棒の片棒を担いだのだが、やはり不安だ。予習のしようのないテストを受ける不安に近い。抜きうちテストである。素養が試されているようで恐怖でしかない。そしてその恐怖が社内に跋扈している事実。喧々囂々。

同じ境遇の方と本日お話しする機会をいただいたのだが、僕らは強気な言葉と弱気な言葉を発作のように呟き続けた。さながら躁と鬱がシャトルランをしているがごとく、思いの丈を訥々と唱えた。手を替え品を替え、我が身を悲観しながら相手を励まし、自分を励ましながら相手の身を憂う。傷つけ合いながら傷を舐め合うネコ科の何某のようであった。

不安なのだ。

鼓舞しきる力もなければ、いじめ抜く覚悟もない。待ち受ける前途に漠然とした不安を抱き、抽象的な打開策にすがる。なんで弱い人間だろうか。僕なんかはほんの少し動く程度のそれだが、大陸が動くレベルの異動を迫られる人の覚悟たるや、想像を絶する。そこまで行くと腹をくくれるのかもしれないな。

君なら大丈夫。あなたなら大丈夫。彼なら、彼女なら、誰なら。何を根拠としているかわからない限定的な「大丈夫」。競馬が当たるよりも難しい力学が働いている気がしてならないが、言わざるを得ない。自分も大丈夫と信じたいから。君にあなたに彼に彼女に幸を祈りながら、自分に幸が訪れることを願ってやまないから。どこまでも淺ましい人間。でもそれが人間。情けないかな、自分可愛さに皆に愛想を振りまく日々である。それはそれかと思いながら、一からの関係と一からの愛想をファブする。

3月から頑張る。つまりは、そういうことである。

君、感じはいいけど感じ以外良くないよね。

およそ1ヶ月前にこの言葉をありがたく頂戴した後、僕は中身を育てるのではなく、感じがいいとはどういうことかを考えた。得意を伸ばそうと思った。その結果出てきた幾つかのメソッドをここに書き記したい。

感じは見た目ではない。声を大にして言いたい点だ。僕の全てを否定した彼女が唯一認めた点、感じの良さ。感じの良さが見た目であるならば僕は絶世の美少年でなければならないが、そんなことは全くない。中学生の頃に勢い余って坊主にしたら女の子が2週間ちょっと近寄らなくなってしまう程度の顔面偏差値である。それでも、感じだけはいいと言われる。父と母より賜った顔では勝負が決まらないのだ。夢のある話だ。

じゃあなんだろうかと。

感じは目元と口角と声のハリにより生まれる。半分くらい確信がある。感じの良さを相手に思わせるために必要な時間は実に少ない。おそらく挨拶した時の一瞬で勝負が決まる。金正男の命が2秒とかからずに異国の地で散っていったが、あの手口よりもずっと短時間で相手を仕留めなければならない。ほぼほぼ一発芸だ。

そこで感じを高めるために相手の聴覚と視覚を鷲掴みにする。まず破顔である。目尻を下げる。口角を上げる。唇が切れるほどに笑う。いきなり大爆笑フェイスができないシャイピーポーは、目をキリッとさせるだけでいい。虚ろな目だけはしない。眠いのか覇気がないのかしらんが手前の都合なんて知らないのでさっさとキリッとする。そして声を出す。ハリのある声をどう出すか。ダンディボイスのあなたはそのままで十分魅力的だが、僕のようなゲロボイスを持って生まれた人間はそのままだと感じの良さを与えられない。だから、歌うのだ。歌うように喋るのだ。眉間の辺りからこんにちはの声が出てると考える。額からおはようございますが飛び出していると信じる。すると勝手に声にハリが生まれる。普段より高い声が発射され、相手の耳に突き刺さる。感じいいビームである。破顔ないしはキリッ顔が目から、感じいいビームが耳から五感を切り裂き、相手に少しだけ爪痕を残す。あれ?あの人感じいいんじゃない?と思わせる。勘違いされては困るが、一朝一夕では感じいい評定に太鼓判は押されない。感じいいんじゃない?と思われるか否かは一瞬だ。しかしあの人は感じいい!まではしばらくかかる。毎日毎日挨拶だけでも相手の五感を掴んでいく。雨だれのごとく心を穿ち続ける。それがいつしかか相手の芯に届くのだ。

生来感じいい奴なんていない。感じは作るものだ。顔ではない。雰囲気作りだ。やりすぎたらうざったい噂が立つはずなので、そうしたら一時停止すればいい。感じの世界では普通の人は感じ悪いとなんら変わらない。感じいい人だけが特待クラスに振り分けられ、その他は大差がなくなる。スタートダッシュでその後のやりやすさが決まってくると思っていいだろう

さて、中身ってどうすればいいのですか。

ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?

真剣に考えてみよう。

仕事終わり。僕は疲れて家のドアを開けている。日がな一日働き、帰宅ラッシュに巻き込まれながら帰ってきた。汗ばんだ身体を空腹が満たしている。足はどんより重く、面倒くさいに塗れた状態だ。ドアを開けたら女性がいる。妻か。彼女か。複雑な関係か。関係性は置いておくとして、目の前には出来上がったご飯と温まったお風呂。スタンバイ完了である。

そこで女性は訊いてくる。

「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」

女性からすると、「あ・た・し?」と自ら開示している辺り、相当「あ・た・し」をチョイスしてほしい気持ちが垣間見える。「蕎麦にする?うどんにする?それとも…ラー・メ・ン?」と上目遣いで言われた日には、ラーメンを食べさせてやりたい、いや、ラーメンが食べたいと思うだろう。同じ論理である。

女性は「あ・た・し」推しだとしても、こちとら働いて帰ってきているわけだから一考の余地がある。「あ・た・し」の魅力は言わずもがなであるが、空腹ものっぴきならない。温かいご飯があるならご飯がいいんじゃないかな。そんなふうに思う。まずは苦しいスーツを脱いで、部屋着に着替えて、さっさと飯を食いたい。飯を食ってからその後のことは考えよう。着替えて座ってご飯を食べる。するとどうだろう。ただでさえ面倒くさいに塗れていたはずなのに、面倒くさいがどんどんと自分を支配してく。面倒くさいに溺れる。風呂…いっかな、もういいや、風呂。明日の朝入ればいいし。風呂はもういいや。テレビをぼんやり見る。ウトウトして、いかんいかんと寝に行こうと思う。「あ・た・し」と布団に入る。ゴロゴロする。「あ・た・し」タイムが静かに幕を上げる。

なんとなくわからないでもない流れではないだろうか。得てして風呂は優先順位レースで下位に押しやられる。何故か。それは「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」には生命が抗いようのないトリックが隠されているためである。

大層なことではない。「ご飯」と「あ・た・し」は生理的欲求であり、「お風呂」は生理的欲求ではない。この差がベルリンの壁の如く前者と後者を隔てている。帰宅時、僕たちはとても脆い。意志の力が最も低下している時間帯であるため、生理的欲求に打ち勝つのが難しい。その上一つの生理的欲求が満たされると立て続けに生理的欲求が湧いてくるので、すぐ眠くなったりしだす。結果、風呂にも入らないで不潔ナイトを過ごしてしまうのだ。

ほんの少しの意思でいい。ほんの少し、「ご飯にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」の瞬間に、「お風呂」と答える意思を持てば、その後の行動が至極楽になる。生理的欲求に身を任せても全く問題なくなる。給食時間に嫌いなものを最後まで残した挙句、食べるまで昼休みをお預けされた経験を持つ人は多いだろうが、あれも全て嫌いなものや面倒なものを先延ばしにする悪しき習慣が引き起こす業だ。気合い入れてスパッと済ませてしまえば、幸せかつ充実したその後が開けている。

でも、でも、でも。わかっていてもできないのが人間の可愛いところでもある。さあ、今宵僕はこれからシャワーを浴びるのだろうか。全く持って自信がない。

社会のルールを知らずに生きる怖さ

似たようなことを以前にも書いたかもしれないが再掲する。

野球を見て面白いと思うのはなぜだろうか。それはボールが遠くに飛ぶからとか速い球を投げるからとか横っ飛びとかしながら捕球するからではない。野球のルールをわかっているからだ。ピッチャーがマウンドから球を投げる。目掛けるのはおよそ18メートル先にて構えるキャッチャー。傍らには敵チームのバッター。バッターに向かって広いグラウンドが広がっており、ピッチャーとキャッチャーを除いた7人の野手が守備をしている。バッターは野手に取られないところにボールを打ち返せばいい。ただ、ホームベースの延長線上にあるラインを外側に逸れた所にボールが飛ぶとファールとなってしまう…

なんだ、書きながらややこしいルールに辟易としているのだが、さすが国民的スポーツということで誰もがある程度野球のルールを知っている。だから、野球は面白いと言われる。サッカーもそうだ。手を使わないという基本的なことから、オフサイドの意味、ファイルの意味、各々の選手の役割。それぞれが社会通念かのごとく知られている。対してワールドカップで大活躍する以前のラグビーなどはルールがとにかく知られていなかったから視聴率も上がらなかったし、マイナーなスポーツとされていた。

ルールがないとめちゃくちゃになるし、ルールを知らないと面白くもなんともない。僕達は無意識にルールを知っているものに目を配り、それ以外のものは見えてる気でいて目を向けていない。

さて、そこでである。社会の真ん中で、片隅で、一生懸命だったりのんべんだらりとだったり生きている。でも、大抵の人は社会のルールをよく知らない。これがどれほど恐ろしい事実か。

社会のルール即ち法律だ。商売のルールは商法だし、刑罰のルールは刑法。散歩するにも道路交通法が目を利かせている。文学部のあんぽんたん学生だったから他にどういった法律があるやらわからないのだが、僕らの一挙手一投足は法律というルールに沿った形でしか動かせないことはなんとなくわかっている。ただ、その内容を知っている人は多くない。士業の法律屋さんくらいなものだ。

つまるところ、大半の人々は社会のルールを知らないまま社会人として社会で生きている。野球のルールを知らないままプレーするのと何ら変わらない日々を送っているのだ。

野球を楽しむにあたってルールブックの隅々まで把握している必要はない。アウトラインだけ把握しているだけでも十分に楽しめる。僕だって対してルールに詳しくないが面白く観戦できている。でも、こと法律に関しては七割方の人がからっきしわからないままだろう。だからルールに詳しい審判的役割の弁護士さんや税理士さんたちが重宝がられる。彼らにとっては当たり前のようなことを僕らは「今の何!?」「今のどういう意味!?」「ここにボール落ちたんだけどどうすればいいの!?」といちいち審判に聞きながらプレーせざるを得ない。それも多額のお金を払いながら。

もちろん世の中適材適所であり、これから法律のエキスパートになろうとは思わないし思ってもきっとなれない。手に職がないなりに商売をしながら生きていくのがきっとこれからの僕の人生だ。判断に困る場合などは専門家に判断を仰ぐべきだろう。しかし、観戦するに最低限知っておくべきルールがあるように、生きるのに最低限知っておくべきルールもあると思う。何をすれば得点できるのか。何が反則なのか。少なくともそのあたりの基本的な情報はルールブックを見ずとも、審判に確認せずとも判断が下せるようにならなければならない。そうありたい。なにしろ無知は恐ろしい。ルールの上でルールを知らないまま生きて、知らずうちに反則を犯して退場を宣告されることだってあろう。搾取の対象にだってなり得る。

日本語しかしゃべれないし、プログラムを書けるわけでもない。よくあるサラリーマンを生きている。これからの世の中を渡っていくには、いささか不安な心許ない武器しか持ち合わせてはいない。学ぶべきところは多いが、まずはルールからかなぁと考えているところである。

花粉症が致死性であったら日本はとっくに壊滅している

振り向けばマスク。正面にもマスク。点鼻薬、点眼薬、飲むマスク。四方八方を花粉症患者で包囲されつつある今日このごろ。芽吹きの春が彼ら彼女らにとってはキル待ったなしのシーズンらしい。

僕は北海道でのうのうと生きていた頃から花粉には全く持って鈍感である。白樺という飛散力破壊力ともに抜群の花粉を持った樹木が生い茂る大地においても、春秋ともに鼻にも目にも訴えかけられなかった。その傾向は本州進出してからも続いており、未だにスギ花粉を身体で感じたことはない。春は綺麗だなぁな季節である。決死の覚悟で飛び込む季節ではない。

実感として、周囲の人の3人に2人は花粉症だ。「花粉症辛い」が一昔前の「月9面白い」みたいなある種の共通言語となっており、なんか花粉症じゃない人間は若干の村八分にあっている気になる。こういう状態だから、花粉症が鼻水涙かゆみで済んでよかったと心から思うのである。もし仮に花粉症がインフルと同値の厳しさを強いるアレルギー反応だったとすると、春になると日本経済はストップする。スギ花粉を吸い込んだ後、5日ほどの潜伏期間をおいて発熱と節々の痛みが始まる。高熱にうなされ、病院に駆け込み、インフルですか…?と診断を仰ぐも、いえこれは花粉症ですと一蹴される。アレルギーの薬出しときますねーと言われるもまだ春も始まったばかりであり、これから2ヶ月は高熱にうなされる日々が続く。絶望的だ。考えただけでゾクゾクする。

インフル程度ならまだいいかもしれない。これが天然痘よろしく途轍もない致死力を誇る殺人花粉だったりなんかしたらとっくに人間は滅びている。少なくともスギのメッカである日本は壊滅している。春先を告げる梅の花はレクイエムである。発症したら最後、過度の鼻水による脱水症状をはじめとする多臓器不全によりしに至らしめる病、花粉症。誰も外出しないし、プラズマクラスターはフル稼働だし、杉を駆逐しにかかる非花粉症人間がゴーストバスターズかのように崇め奉られる。

なんというか、うまくできた世界である。死なない程度に苦しみながら皆生きている。本当に死に至るような諸々を間一髪で躱しながらうまく生きている。

僕はいつまで花粉の脅威から逃れ続けられるだろうか。今年か。来年か。