徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

泥つき里芋を想像してください。

近くの八百屋で泥つき里芋が2パック100円で売られていた。トルコリラの次に泥つき里芋の相場がわからないのだが、なんか安いアピールされているし、100円だし、家にこんにゃくと玉ねぎはあるから人参も買っていって煮物でも作ろうと思い、2パック買っていった。1パックの大きさは大体信楽焼の狸の睾丸袋くらいなものであった。大きいんです。

颯爽と野菜を切り、最後に里芋をなんとかしようとした。僕はよく、じゃがいもとか人参は皮を剥かないで食べる。皮と実の境目が一番栄養があるんだ。そう信じて止まない。里芋もそのノリでいけるもんだと思っていた。ちゃちゃっと洗って、丸ごと煮てしまおう。そうしてしまおう。

ではみなさん、泥つき里芋を実際に買ったことがあるでしょうか。イメージはできるでしょうか。また、調理したことは、あるでしょうか。

今回僕が泥つき里芋と格闘したわけだが、あれは最早泥つきの里芋ではない。里芋付きの泥である。

泥つき里芋を買ったことのない諸君、現物をありありと想像できない諸君。諸君の想像の遥か上をいく泥のつきかたをしているのが、泥つき里芋だ。まず、狸の睾丸袋もといビニールパックを開けた瞬間から、おやおや?と思う。芳醇な土の匂いが香る。これは小学生の頃、生活科の授業でジャガイモを作った時に力一杯スコップを地面に突き立て、掘り返した瞬間に香った匂いと全く同じだ。生臭いような、えぐいような、むきだしの匂い。

その時点で嫌な予感はした。だが、無理やりザルに空けて試しに水をかけてみる。想像通り、かけた先から逆濾過よろしく泥水の変化していく水道水。逆再生したら美しい水が生成されていく様が取れるんだろうなとぼんやりしながら、これから始まるであろう激闘に向けて心を整えていた。

狸の睾丸袋の中に入っていた無数のボールたちを握る。里芋のくせにぬるぬるしない。滑ったと思ったらそれは全て土だ。というか、土の鎧を着込みすぎて全く持って芋としての正体が掴めない。よく、料理できない子に野菜洗っといてとお願いをしたら洗剤で洗い出したみたいな笑い話を聞くが、洗っといてってお願いした野菜ってもしかすると泥つき里芋だったんじゃないかって思う。だったら至極納得がいく。僕もなんどもキュキュットに手が伸びそうになった。先の見えない洗浄の戦場最前線。化学の力を借りたくなった。高圧洗浄機とか欲しかった。

憎しみを込めて洗いまくった末に、やっとこ芋としての輪郭を取り戻した泥つき里芋。これくらいのキレイさで売られていると大半の人が思っているんだろうなってくらいの汚れ具合までたどり着いた。その後、皮との戦いに移ったのだが、クックパッドを駆使して皮むきの極意を会得していた僕の前に、里芋の皮は無力であった。10分間の煮沸ののち、流水で冷ました里芋の皮はいともたやすく剥がれ落ちた。世の女性はこういうクレンジングを待ち望んでいるの違いない。ツルツル落ちる。

普通の里芋から皮むき里芋へと変化させるのは容易かったが、泥つき里芋から普通の里芋へと変化させるのがあまりにも辛すぎて、もうしばらく泥つき里芋はいらないかなって気分である。

しかし冒頭に戻って読み直してほしい。そう、僕は泥つき里芋を2パック買っている。まだ睾丸袋が一袋転がっているのだ。

僕らの戦いはまだ始まったばかりである。

血液型信者

大学で心理学を学んだ。心理学の一面は統計学である。Aという特徴を持つ人たちはaという傾向があるよ!ってのを量質両面からサンプル取りまくって立証していくお仕事だ。統計の網で払って、仮説に信頼が置けるようであればそれは真だし、逆ならば疑だ。

よくあるのが行動傾向とストレス対応との関係をみるとか。ここでの「行動傾向」と「ストレス対応」って主語を変えていくと、ぶっちゃけなんだって調べられてしまう。

さて、血液型である。心理学のレールの上だと、血液型と性格の相関関係はなかったことになっている。血液型占いは本当に占いでしかなく、どんなにO型っぽいO型がいたとしてもそれはたまたまである。

と、いうことをわかっていながら、コミュニケーションツールとしての血液型の話ほど便利なものはない。世の中のお姉さまがたは血液型こそ全てみたいなところがあるので、血液型トークに乗りまくっていると自ずと会話に混ざりこめる。間違っても「いやそれ心理学では否定されてますから」なんて言ってはいけない。お姉さま達の世界においてはお姉さま達がルールだ。お姉さまが地球は平らですっていえば、平ら。

でもまあ、体を流れる血液が司ることやものもいくばくかあるのではないかって気持ちもわかる。古代、病気は血の淀みが原因とされている時期があった。病気になったら血を抜いていたという。それほどまでに、血は大切で、特別だったのだ。性格を左右するって話もわからんわけではない。何しろお姉さまがたの真実だから。認めよう。

パソコン得意?って訊かないで。

大先輩がたからこのようなお言葉を投げかけられる事が多い。多分これは、平成生まれゆとり世代の誰もが経験のある事であろう。SEとか、日がなキーボード叩きまくる職種でない限り、若者はパソコンに詳しいと思われている節がある。

何かパソコン上のトラブルに直面した時にテンパらないくらいのデジタル抗体は持っている。諸先輩型よりは恐らく得意な部類には入るのだろう。だが、勘違いしないでほしい。全くもって詳しくはないし、得意と胸を張って答えられるレベルになんてない。100メートル走20秒で走る人と18秒で走る人が競っているようなものだ。クスクスの背比べである。

ここで得意ですよ!って答えて、全く太刀打ちならない出来事が巻き起こっていた時、僕は無実のがっかりを背負わされる。「なんだお前得意って言ったじゃん。」そんな目を向けられる。だから得意って言いたくないんだけど、苦手ですって言ったら言ったでどうも逃げの姿勢と取られて期待外れとなる。

つまり、僕ら若者がパソコンに強くないという事自体が罪である。こんな結論に至る。進めど戻れども地獄ならば空を飛べって事だ。

似たような問いに、「今日暇?」がある。

暇だけど暇だったら何が待ち受けているのか恐ろしい。暇じゃないけど何か面白い事が待っているのかもしれない。現場入っている予定と天秤をかける意味も込めて、暇?の先にある言葉をぜひすぐに聞きたい。

まず、目的を教えてほしいのだ。こういう理由で、あなたに問いを投げかけているよって、それを知らないと答えに窮する。

ギター弾ける?→弾けます。→じゃ、これ弾いてみて。(ツェッペリンの楽譜を渡される)

こんなの反則じゃん。無理じゃん。弾ける?って訊かれて、ツェッペリンまで求められるなんて思わないじゃん。もっと一般的な話だと思うじゃん。目的を知らない問いに気安く答えるとこんな明後日な要求をされる。

まぁもう面倒だから全部うっす!って答えてしまうのだけれども。

パスドラを引退しました

連続ログインが確か1500日ほどになっていたはずであるが、この度、パズドラを引退することとなった。

iPhoneの画面が割れたことに起因する。

これまでに、機種変と動作不良によって二回のiPhone交換のタイミングがあった。二度ともデータを引き継いでのプレイを続けていた。しかし今回に限って、データ引き継ぎの準備を忘れてしまったのだった。単純な作業ミスである。

本当は、ガンホーに問い合わせればデータ復旧が可能だ。遮二無二手段を選ばなければ、またパズドラをプレイできる。でも、もういい。もうたくさん遊んだ。

僕がAndroid携帯からiPhoneに変えたのはパズドラがやりたくてのことだった。周囲で流行りだし、羨ましい目でずっと見ていた。僕が持っていたアンドロイドはパスドラに対応していなかった。次の機種変では絶対にiPhoneにするぞと心に決めていた頃、丁度auでもiPhoneが発売されて、キャリアを変えることなく僕はiPhoneを手にいれた。

それから1500日。どんな時も僕の手の中にはパズドラがあった。

別にヘビーユーザーだったわけではない。どっぷり浸かっていたわけでもない。みんながやるから、やっていた。みんなでやるから面白かった。僕は習慣化されるとずっと続けるのが得意なたちで、周りの連中が飽きていく中も淡々とパズルを回していた。社会人になっても。

ゲームや漫画といったものの宿命ではあるのだが、次第にインフレがどうしようもないことになる。よほどうまい仕組みを作らないことには、強敵を上回る強敵を上回る強敵をさらに上回る…と果てしない強敵ロードが続いていくので、それに対応してこちらのモンスターも必然的にめちゃくちゃに強くなっていった。

加速度的に増していく強さ。ぶっ壊れ性能と言われていたモンスターがあっという間に覇権を奪われていく。政権交代のスピードがだんだんと早くなっていった。

次第に、僕は着いていけなくなった。

目を皿のようにして追っていた攻略情報を見なくなると新しいモンスターがわからなくなり、安定して強いって言われるモンスターを集めてとりあえずスタミナを消費するような遊び方に変わった。

遊び方がだんだん過疎化していく僕のデータが弱くなったかというと、そうではなかった。

対して遊んでいなくても、インフレにインフレを重ねる運営側からは常態的にモンスター強化用のモンスターや、「プラス値」というかつては苦労してダンジョンに潜りまくらなきゃ手に入らなかった強化ツールが雨のように降り注いできていた。

一生懸命パズルを回していた頃より、ずっと早いスピードで強くなるモンスターたち。強くしたいモンスターが遂にはいなくなり、強化用のモンスターがだぶついた。

そろそろ潮時だなと思っていた。そこに、iPhone破損が重なった。

天啓だと思う。もう潮時だったのだろう。1500日。よく遊ばせてもらった。きっとマメに同じ時間英語を勉強していたらペラペラになっていたであろうほどの時間を、パズルで楽しませてくれた。ガンホーには感謝したい。

今の暮らし向きから言って、きっとこの先ゲームにどハマりすることはない。奥さんや子供のような家族ができて、それに影響されてとかでない限りは、ゲームを起動する環境にない。

もしかすると、パズドラは僕がハマった最後のゲームになるかもしれない。たくさんゲームにハマってきた。小中学生の頃はゲームのことしか頭になかった。大人になるうちにゲームとの接点が少なくなり、最後に残ったのがパズドラであった。据え置きから携帯機へ、携帯機からブラウザゲームへ、ブラウザゲームからアプリへ。僕のゲームとの旅はここで終わりそうである。あとは遠くから見守る体制を取りたい。

昨日から、すでにパズドラのない日々が始まっている。もちろんだが、何にも変わらない。パズドラに充てていたはずの時間はどこに向かうのだろう。きっと土に雨が染み込むように消えていくに違いない。有意義に使いたいものだとは思うが、そうもいかないのはわかっている。

パズドラがどうだったか、しっかり書くほどの元気がないので、こんな感じで引退の辞とする。

サンキューガンホー

とどのつまり疲労詰まり

大学卒業に際して後輩よりプレゼントしてもらった簡易マッサージ機がある。クッションのような形で、イボが付いていて、スイッチ入れるとイボがくるくる回るタイプの機械。

働き始めの頃は頻繁にやっていたのだが、ここ最近はとんと起動させなくなってしまった。だが昨晩、なんか気が向いてゴリゴリやってみた。ふくらはぎ、膝裏、尻、腰、肩。整体とかで筋肉をいじくり回されるのが好きなたちなので、機械相手ながら久々に揉みほぐされてる感があって非常に気持ちよかった。六畳に毛が生えた広さの部屋で1人、ゔーって言いながら機械と戯れる青年。なかなかにイケてない瞬間だ。

すっかりほぐされ、案外と疲れてたのかもしれんなと、明日からまたすっきり動きだせるなと、ぼんやり考えながら眠りについた。

夜が明けて本日。寝起きからして全身が怠いことこの上ない状態であった。足腰が使い物にならない。「orz」って一昔前によく使われた絵文字であるが、マジでこの状態でしばらく過ごした。繰り返すが寝起きである。400mを5本とかブンブン走った後のポーズじゃなく、朝イチの一番エネルギッシュであるべき時間帯でのorz。救われない。

なんの脈絡もなく、ほんの出来心でマッサージを敢行したわけであるが、中途半端なマッサージは疲れの根源を呼び覚ます作用があるようである。一本ピロッと出ている糸をズルズルと引っ張っていくと気づけば取り返しのつかないことになっていたりするように、疲れの片端を掴んでしまうとこれまた大変なことになってしまうようだ。

さて、継続したマッサージが必要らしいので、今日も機械に任せてみようと思う。

どこまでも疲れの糸を引っ張り出してやろうと思う。

ブロークンマイフォン

朝、気分良く走っていた僕は、気分のいい曲を耳元で鳴らそうと気分良くポッケからiPhoneを取り出したところ、手が滑り、滑ったiPhone大陸間弾道ミサイルの如く宙に浮き、捕まえようとした手のひらを間一髪かわして地面に着弾したと思ったら気分良さそうに一回バウンドした後に動かなくなったものだから、気分を確かめようと画面を覗き見た時にはもう蜘蛛の巣のような日々が全面に入っていた。

端的に言おう。画面が割れた。

最近の若者のスマホの画面ってみんな割れてるよねー。っておばちゃんに言われたことがあった。「最近の若者」という枕詞がソフトな悪口であることを知っていた僕は絶対に画面だけは割ってもすぐに取り替えようと心に誓っていた。なので、なりふり構わず修理に走った。幸い仕事は遅出であった。

かろうじて操作ができた壊れた我が相棒は、保証期間であったこともあり、格安でまっさらな新品に買い換えることができた。めでたい。しかし新しい相棒は、その時点ではただの板である。パソコンに取って置いているバックアップを流し込んでこそ、相棒となる。そう、僕はただの板を一日中持って過ごしていたのだ。誰の電話かもわからずに出た。メールは来なかった。何しろ世の中の連絡の術はほぼラインだからだ。

ライン。

一目散に家に帰ってきて、バックアップを流し込み、通信連絡環境を整えた僕が目にしたのはラインで送られてきた飲み会の突発的な誘いであった。誘われるに値する自分であることを嬉しく思うとともに、遥か遡り、走行中に手が滑った自分を嘆いた。あの時気分良く曲を変えようとしなければ、より良い気分で酒を飲めていただろう。

ピカピカのiPhoneにて、悔しみを綴っている。

居酒屋のマスターたちの人生

学生の頃、行きつけの定食屋を増やし続けていた。おじちゃんやおばちゃんとコミュニケーションを取るのが好きらしい。老舗っぽい出で立ちの定食屋・中華料理屋で、ランチが安いととりあえず入ってみていた。社会に出てもその傾向は続いていたが、最近になって定食屋から居酒屋ないしは飲み屋に趣向がシフトしていっている。

何しろランチはなかなか現実的ではない。週に5日以上は少なくともお弁当な訳で、見知らぬおじちゃんおばちゃんとお話ができるチャンスはない。そうなるとどうしても居酒屋のマスターやママさんになってしまう。

フラフラ入った店が、たまにホームランだったりするから面白い。今日もそうだった。

インド料理屋なんだけど、ジャズの生演奏が付いていた。これが中途半端な腕の演奏じゃなく、その上チャージも特に取らない(投げ銭のみ)。お通しもない。エコである。はたとあったお姉さまと、マスターも交えてプカプカ喋ってきた。

居酒屋のマスターという職業。ここに行き着くまでの経緯がやはり面白い。何人かに話を聞いてきたが、みんながみんな面白い。「向こう見ずに社会に突っ込んでいったけど失敗して、苦労して成り上がったけどやっぱり鼻っ柱折られて、少しまたお金を貯めて立ち上がって10年目のお店です。」って簡単そうにみなさん仰る。さぞ楽しそうにアメリカの道端で飢えて死にかけたところを風俗嬢にパンを恵んでもらって生き延びたとか、ゲイに誘われてクラブを抜け出したおかげで殺人事件を免れたとかってエピソードが出てくる。みんなどうかしていると思う。本当に。

人生山あり谷ありで落ち着いた人独特の余裕みたいなものを、彼らから感じる。どうなっても生きていけるし、なんとかなるんだって、なんとかしたことがある人しか分からない世界がそこにはある。何しろ、僕は引き出しが少ない。異国の路上で飢えて死にそうになったことがない。母国でもない。

数年前、僕は今こんな職業で働いているとは想像していなかったが、大きなレールの上での想像の範囲外という、なんともちっぽけな想像外であった。一歩一歩階段を上がるような人生を生きている。その隣で、猛烈なスピードでエスカレーターに乗って乱高下している人もいるようだ。なんとなく、羨ましくも思う。波乱でも万丈であれば幸せである。壊れなければ全て実となり付いてくる。

こんなことを書いていると、伯父のことを思い出す。彼も居酒屋のマスターたちと近い人生観を持っているはずだ。めちゃくちゃして見たかったなぁと思いながら、伯父の子供じゃなく、僕は父の子供で、父はなかなかの堅実マンだったことに突き当たる。やっぱり蛙の子は蛙だ。おたまじゃくしとはいえ、いずれは蛙だ。

中学の頃、父に白洲次郎のような人間になってほしいと言われた。なんとなく、今なら父の真意がわかるような気がした。

ぐっすりスペクタクル

ここんとこいっぱいいっぱい風呂敷を広げていた。家事だけはやるけど他はやらないマンから、やれることは全部やるマンに変貌を遂げ、働けるときは働き、パソコンいじれるときはいじり、映画を見られると知れば観た。家事もした。晴れたら走った。晴耕雨読をひたひたと生きた。

すると僕は寝不足になった。

別に仕事に追われていたわけでもなく、ただ好きなこととやりたいこととやらなきゃいけないことをたくさん時間割の中に詰め込んだ結果、休み時間がえらい少なくなった。

突っ走るだけ突っ走ったのだが、昨晩いよいよ疲れたようで、風呂入って飯食って、片付けをする前にiMacに向かい、アプリ立ち上げたあたりで限界を迎えたらしく、全部やりっぱなしで朝を迎えた。座椅子とソファの境目のような椅子の上で、今朝と出会った。寝覚めの悪いことといったらなかった。まだ寝たい。まだまだ寝たい。寝させてください。ここんところだともう弁当作ってスーツ着た上で曲作ってるか出かけてるかって時間に、まだまだ寝たい。異常事態である。

最終通告のアラームだけセットして、そこまで寝ていた。無理くり起き上がり、起動しだした身体は恐ろしく動きが良かった。寝るってすげぇ!

寝不足でごり押していたここのところは、比較的寝覚めが良かった。ただ、起きて数時間経った頃に眠気が波状攻撃を仕掛けてくる。それを超えて、昼飯食ってまた波が寄せてきてと繰り返し、夜は夜で好きに時間使って、さっと寝る。そんなエブリデイであった。

ずっとハイだったのだろう。パソコン付けっぱなしで、スリープになって、またつけてってのをセルフで繰り返していた。アップデートもできないし再起動もしない。そりゃぁ疲れも溜まろう。

一度の睡眠で解決する若さがある。存分に使わせてもらおうじゃないか。まだまだ風呂敷を広げまくらせてもらおうじゃないか。夜は長い。

映画「イミテーション・ゲーム」感想 僕は生き方を見直しました

Amazonの有料会員、Amazonプライムにひょんな事から入会しており、プライム会員特典で、映画が見放題というので、なんか評判良さそうな映画を拾って観た次第である。

 

 

あらすじであるが。

時代は1920年代〜1950年代。第二次世界大戦近辺のイギリスでの話である。1939年に開戦した戦争は世界を巻き込んでおり、ことヨーロッパではナチスドイツが猛威を奮っていた。ドイツ軍躍進の原動力となっていたのが暗号生産機「エニグマ」。一度は名前を聞いたことがある方も多いだろう。「186×10^18」だか、途方も無い数の暗号パターンを有する難攻不落のマシーン。それも毎日暗号のパターンが変わるらしく、対症療法的な行き当たりばったりの暗号解読では全く手に負えない状況であった。

いつの世も戦争は情報戦だ。どこに戦艦があり、Uボートがあるのか。GPSの無い世の中では飛び交う信号が情報の全てであり、傍受するのは容易くとも解読するのが難しいそれのせいで、ドイツ軍の動きが掴めないままに欧州諸国は劣勢を極めていた。

エニグマを解読しないと勝てない。イギリス軍は学者筋をあたり、数学やチェスなど、様々な分野の第一人者を集結させたエニグマ解読プロジェクトチームを作る。その中の1人が主人公のアラン・チューリングである。彼は天才に相応しい卓越した数学の力とパズルの力を有していたが、コミュニケーションはからっきし取れない人間であった。

ものすごい勢いでプロジェクトチームをギクシャクさせまくるチューリングであったが、能力は抜群であり、対症療法的な解決のさらに先、どんな暗号でも対応できるようなコンピュータを作成する方針を立て、邁進していく。最初は先進的すぎて誰も理解も得られないものの、やはり天才同士理解が早いようで、しばらくするとチームの雰囲気も最早エニグマ解読への道はチューリングの案しかないって状態になる。途中、なかなか結果の出ない現実にやきもきしたイギリス軍の中佐だかが、ブチ切れてコンピュータを止める暴挙に出たりするものの、プロジェクトチーム一丸となって開発に邁進した結果、様々なところからヒントが舞い降りてきて見事エニグマ解読に成功する。やったね!

エニグマは読めても、ここからが問題であった。

エニグマが読めたことをドイツ軍に悟られると、ドイツ軍はまた新しい暗号機を作る。いたちごっこは終わらない。戦争が長引く。だったら、エニグマの情報を垂れ流させた上で、戦争を終結に導いていくのが平和への1番の近道ではないか。イギリス軍とプロジェクトチームの総意であった。

しかしそれは、助けようと思えば助けられる命を見捨てながら、戦争の終結という大義に向けて邁進する道。人命と平和とを天秤にかけ続ける行為だった。苦しみが伝わってくる。

かくして、イギリス軍は勝利。エニグマ解読よってドイツ軍を掌の上で転がしたことで、戦争の終結は2年以上早くなっただろう言われているようだ。解読の原動力となったアラン・チューリングの名は機密事項として扱われていたが、戦後70年、ようやっと日の目を見た。そんな物語であった。

 

時を同じくして、僕はたまたま「七つの習慣」なる自己啓発書の概要にさらっと触れた。数年前から流行りだした考え方であり、スティーブン・コヴィーなる人が概念の提唱者である。物事の本質を掴んで、最大の効果を生み出して行こうぜ!みたいな内容である。多分見る人が見たら張っ倒される紹介だろうが。

その中で、コヴィーは時間管理・タイムマネジメントについて強く言及している。

忙しいことを求めていないか。忙しさにかまけて本当に必要なことをおざなりにしていないか。緊急の出来事よりも、重要なことを重んじるタイムマネジメントをすれば、自ずと緊急の対応が減ってくるだろうと。つまりは、転ばぬ先の杖を作りまくってスイスイ進もうぜ!みたいな内容である。多分見る人が見たら張っ倒される。

 

喫緊の課題より、本当に重要なこと。

イミテーション・ゲームにおけるチューリングの話に戻るが、彼らはエニグマ解読後、いたずらにイギリス軍を救いはしなかった。助けられるはずの命を見捨てながら、絶妙な采配によってドイツ軍に勘づかれることなく、戦争の終結という本当に重要なことを見据えてオペレーションに取り組んだ。

思えば、エニグマを読みきったコンピュータである「クリストファー」の作成を始めたころのチューリングもそうだった。膨大なパターンの暗号をしらみつぶしに解読して、その日暮らしの解決を求める(短期的にはめっちゃ仕事した感じになる)のではなく、恒久的に読み切るマシーンを開発(時間かかるし結果はなかなか出ない)を優先した。結末は上記の通りである。

 

イミテーション・ゲーム」から、生きる上での大切なヒントを得たように思う。忙しく働いたような気がして使われる人生では結局何も得られない。うまくもいかない。しっかり考えて、数歩先の人生を今生きる。豆のまま食べてその場しのぎの腹を満たすのではなく、花を咲かせて、実をならせて、ずっと満足できる道を模索する。

言うが易しの世界だ。目的を見据えて、愚直に目指すなんて芸当、簡単にはできやしない。何しろ目標物が正しいのかもわからないのだ。富士山だと思って登ってみたけど全然違う山だったりする可能性もある。しかし、目標があるから反省が生まれる。富士山に登りたいって思わないと、次こそは富士山に登ろう!って気持ちも芽生えない。登って降りて、正しい山を目指す。チューリングみたいな天才は一発で登るべき山を見定めて邁進するが、我ら凡人は繰り返しながらやっていくしかない。努力して、たくさん登ったり降りたりして、より良い山を目指す。結局富士山に巡り会えなかったとしても、目標を掲げ、それにまつわる大切なことを見定めて、アタックを続ける。

 

ノーアイディアで生きるのはやめようと思う。考えを止めるのは簡単だし、将来を見据えるのは恐ろしいが、突っ込んだ先が泥沼かどうかくらいは知っておくべきだ。うまくいけば、泥沼に突っ込むことも避けられるかもしれない。

脳みそが熱くなる映画と出会えて、心底よかった。

惚れた腫れたの過ちで

時間を忘れて没頭していたことに飽きた時、何やってたんだろう…って思ったことはあるだろう。僕自身、少年時代に親の脛を食い散らかしてまであんなに熱中した遊戯王カードに今は見向きもしないし、パワプロも、ウイニングイレブンも、やらなくなった。その代わり、傍にパソコン、傍にギターを携えて、それらしき曲を作るようになった。

今の今まで必死に曲を作って、出来て、聴いて、満足をしていた。自分から生まれた曲である。logicというソフトがなければ出来ないし、そもそもiMacがなければ作れないのだけれど、すべての道具が揃っていたとしても何より僕がいなきゃこの曲は生まれなかった。唯一無二。母なる愛おしさを曲には感じるものなのだ。

ふと、全く違うことをしてみて、曲の出来栄えを忘れた頃に改めて、さっきまで愛おしくて愛おしくて最高傑作だと信じて疑わなかった曲を聴いてみると、思いの外大したことなかったことに気がつく。アラが見えてくる。歌ね下手じゃん。ギターガサガサじゃん。

惚れた腫れたの過ち。あんなに好きだったことが、人が、モノが、なんでもなかなってしまうように、生まれ落ちた曲も結構早い段階でしれーっとなんでもない存在になる。その時こそ、曲が本当に聴こえてくる。苦労とかを差っ引いた曲そのものと出会わなければ、本当にいいものは生まれてこない。

社外取締役の役目もそんな感じなのだろう。いかんせん、我が社には盲目になってしまいがちだ。数十年分の苦労。可愛くないわけがない。冷静な目がないとおかしくなってしまう。興味のない目、冷静な目を通しても揺るがないものを作らなきゃダメだ。目指さなきゃならない。

日々是成長、日々是鍛錬である。