徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

セックス至上主義

最近よくいく少し風変わりな居酒屋がある。下町情緒を湛えたインド風音楽酒場だ。わけわからんが、これが絶妙に調和しているもんだからすごい。

そこに集う人々と話す。おっさん達である。若くて一回り上の彼らは、それはそれは下ネタしか話さない。清々しいほどに思春期の中学生みたいな話で盛り上がる。それも四十五十の男子中学生なので、男女のそれを知り尽くした上でのアンダーグラウンドトークである。生暖かいなんてもんじゃない。ぐずぐずである。

一回り以上下の僕は比較的ニコニコしながら合いの手を入れる役回りに徹するのだが、たまに主役に引っ張り出される。

「もうさー、25の頃なんてさー、セックスのことしか考えてなかったよね。」「どうやって女の子とねんごろねんねんするかが頭の100割を占めてたね。」「本当に草食なの?」「そんなんじゃ草食ですらねーよ。植物だよ。ただの。」

辛辣なお言葉を数多くいただく。

そうか!もっと性に生き、性に生かされるべきなのか!なんとなく悟り、女の尻しか追わないような人生を一瞬逡巡したところで、これまでの人生とのギャップのせいで全くリアリティを感じられない。なにしろただの草が草を食む動物を飛び越して肉食獣になれというのがまず苦しい。悠久の時を経て進化していくものであり…なーんて、こう、ごちゃごちゃ考えた結果、草になっていくわけである。僕の場合。

セックスを思い、セックスに生きる時期を超えてきた彼らからすると、なんとも情けないところでウジウジしている人間に映るようで、いいから本能に生きろよと言われる。

言う通りだなぁと思う。半分くらい。当たり前のように女の子が好きで、おっぱいも好きで、猿のごとくセックスに明け暮れられるのならそれもいい。大江戸線なんかよりも遥か地下を流れる人類の共通認識を大っぴらにするのを良しとしないで育ち、それがくすぶり続けた成れの果てがこの草だ。セックス至上主義の前にはぐうの音も出ずに捕食すらされない草だ。

不良だったけど更正したやつが偉いみたいな風潮。セックス至上主義もあれに少し似ている。ただ、不良願望よりも性へと突き動かす願望の方がよほど強いあたり、セックス至上主義には芯の強さがある。性を知り、性を遊び尽くした人間しか辿り着きえない感覚がそこにはある。

遊ぶなら今のうちだし、失敗するなら今のうちらしい。たくさん騙されて、たくさん砕けて、生きろと。教訓めいたことを言われると、やはりもっとむちゃくちゃするべきかと逡巡して、無理だっつって、また振り出しに戻る。多分僕は一生めちゃくちゃ遊べないし、一目散にセックスに突っ込んでいくような人間にはなれない。これまでの25年間があまりにも深く根を張っている。強がりでもなく、別にいっかなって思う。草は草なりに気合い入れて種飛ばして生きる。そう言うことにする。

脳内洗浄したい夜

ここ最近のことであるが。寝る間際電気を消して、できることといえば考えることか寝ることかしかなくなった状態。頭の中でグルングルン不安が回ることがある。物の見事に寝づらい。寝られないことはないのだけれども。不快な入眠を経験することとなる。

陸上やっていた頃でさえ、翌日のレースで眠れなくなることはなかった。神経質になったのだろうか。なんなのだろうか。

不安にはいくつか種類がある。少なくとも、今回の話では二種類の不安の差異がポイントとなってくる。一つは未来への不安で、もう一つは過去の不安だ。

学生の頃感じていた不安は、大抵未来への不安だった。うまく走れるだろうかとか、どれだけ走れるだろうかとか。これは期待に近いものがあって、それまでの道のりが全然ダメでも何か神風が吹くんじゃなかろうかと、奇跡を待つ気持ちがそこはかとなく存在していた。もちろん、磐石の状態で臨む明日は、不安に似た期待が脳を埋め尽くした。

大抵寝られる類の不安がこれらだ。

現在脳内を埋め尽くしがちな不安は、圧倒的に過去の自分への後悔が原動力となる。やり忘れはもちろんのこと、何かと時間なくて手が回らなかった諸々が突如として大きな後悔となり脳裏を埋め尽くす。さっきまでなんともない矮小なタスクとして片隅に追いやっていたのに、次の瞬間には猛烈に重要な事項として立ちはだかり、なんで時間を工面して手を回さなかったのかと自分を責める。考えは発展していき、後悔が明日への不安と結びつく。絶対明日すぐ動こう。心には決めるものの、明日はまだ遠い。今すぐにでも不安を取り除きたいのに、会社は遥か彼方。先方が明日出勤なのかもわからない。話が進むのか進まないのかすらわからない。いてもたってもいられなくなる。けど、現実問題寝なければならない。明日酷く体調が悪い一日を過ごす羽目になってしまう。

瞼を瞑りながら、脳みそ取り出していらない不安のところだけ取り出してやりたい気持ちがムクムクと擡げる。できたらどれだけ楽だろう。しかし、暗闇はやはり強く、気づかないうちに眠っており、朝がやってくる。諸事万端もりもり終わらせていきたい1日の始まりである。

結局今夜の快眠は今日の動き次第である。健やかな夜を目指す。

「差し支えなければ」インフレ

職業柄、訳のわからないまま訳のわからないような敬語を塗ったくる日々を過ごしている。

最初は「お待ち申し上げております。」に違和感が絶えなかった。待つって、申し上げるのか?申し上げるってなんだ?待つ?申す?文法のゲシュタルト崩壊であった。だが、諸先輩方がなんの躊躇いもなく使うもので、そういうものかと思って使うようになった。

「お承り」というのもどうも変なようである。「承る」に「お」でダメ押しする形。「遥か前方に全速前進」くらいに力強く意味をダブらせている。ぐうの音も出ないほどに敬い、謙譲している。

たくさんの敬語と敬語もどきを覚えていく中、「差し支えなければ」を違和感なく使えるようになった。「まじで貴方の迷惑にはならないようにしたいんです。けど、迷惑にならない範囲でご協力を仰げれば…」的なニュアンスであると認識している。相手を慮りながら自分の意向を伝える術として、めっちゃ使える。「差し支えなければ伺わせていただければと存じます。」は「まじで貴方の迷惑にはならないようにしたいんです。けど、迷惑にならない範囲で会いに行きたいです。会わせて。」だ。

あまりに「差し支えなければ」が便利なものでここ最近めちゃくちゃに多用しているのだが、段々自分がすげーお節介焼きの押し売り野郎みたいに思えて来ている。

「差し支えなければ是非ご覧くださいませ。」

「差し支えなければ取って参りましょうか。」

「差し支えなければご案内いたします。」

「差し支えなければ晩御飯を頂きに上がってもよろしいですか。」

「差し支えなければ洗濯槽が壊れた洗濯機を差し上げましょうか。」

「差し支えなければ…差し支えなければ…」

「貴様」が使われすぎて見下したり小馬鹿にしている意味が付与されたように、僕の中の「差し支えなければ」も大絶賛スーパーインフレ状態だ。相手が差し支えようが差し支えまいが関係なく、「差し支えなければ」に包みさえすればそれらしく受け取ってもらえる提案ができるみたいな気になる。一歩引いて相手を気遣う上品さを持ってますアピール。たかが言葉端。されど言葉端。

カチッとしたスーツ着て、バシッと髪型キメて、メガネ外して、めっちゃいい香りの香水をそこはかとなくかけた上で、「差し支えなければこの後食事でもいかがですか?」って街行く人に声をかけたら世のナンパも相当うまく行くんじゃないかと思う。

銀座コリドー街に跋扈する皆々様、是非「差し支えなければ」を効果的に使用して頂きたい。差し支えなければで構わないので。

ネミィ・ストレース

レヴィ・ストロースと言う人がいました。

文化人類学者として散々大学の授業で名前を聞き、彼が構造主義という大層な理論ないしは考え方の枠組みを提唱したのは記憶の端にあるのだけれども、果たして構造主義が何で、どういう枠組みなのかは全く説明できないまま僕は学府よりつまみ出され、今に至る。

うわぁー眠い。ねみぃ。ネミィ・ストレース。ただそれだけの話なんだけれど、レヴィストロースの名前をちらりとでも知っている人にとってはほんの少しだけ面白いのではないかって思う。レヴィ・ストロースは業界ではスーパースターなのだが、広く有名なわけではない。ニュートンエジソンアインシュタインのように、小学生の脳内に叩き込まれるような名前でもない。ある種、知る人ぞ知る偉大な人物だ。

狭い業界での大常識は、ある種の仲間意識を生む。トランプの大富豪(大富豪のトランプじゃない)でローカルルールが同時多発的に生まれるのも、「俺たちだけが知ってるルール」みたいなのが心地いいからである。

レヴィ・ストロースをご存知の方は、レヴィ・ストロースの世間一般立ち位置も知っている。そうそう机上に上がる名前でないことも知っている。だからこそ、レヴィ・ストロースを知っている人を求めているし、ネミィ・ストレースにも必ずや反応を示す。


と、このように全く構造的な話ができない状況を生み出しているのは全て、ネミィ・ストレースの所為であるといえる。

ゴールデンウィーク明けの多摩川を渡る

高架の上から望む多摩川河川敷はよく世相を表す。いや、世相というのは少し違う。休日か平日かが一発でわかる。半年くらい浮き世を離れ、曜日も日も全くわからなくなった後でパッと多摩川河川敷を見たとしても、その日が休みか平日かは瞭然だ。

昨日までの河川敷はすごかった。野球にサッカーにラグビーにゴルフ。球という球を転がしながら老若男女問わずに走り回っていた。なるほどこれがゴールデンウィークかと。梅雨入り前の晴れた空は後に訪れる曇天デイズを予感もさせないでいた。

今日から世の中が動いている。5月病罹患者が漏れなくオフィスビルに突っ込まれ、キーボードを叩く音色と電話の着信音が壮大なコンチェルトを奏でている。指揮者は暦だ。たかが暦、されど暦。暦がどれだけの命を苦しめ、奪ってきたのだろうか。昨日も下総中山で人身事故があった。もろに食らった。

僕はゴールデンでもなんでもない鈍色ウィークを過ごしている。別途休日の補填があるから焦りも切なさもない。嘘です。休みたいです。昨日の車窓から見た河川敷は綺麗だった。それは連休最終日で、もう次の刹那には各々の戦さ場で闘うという、連休最後の灯火だったからだろうか。線香花火は燃え尽きる直前、最高の火花を散らす。桜も咲き誇った直後には散るのだ。

倦怠感をあざ笑うかのように、未だ空は梅雨の予感も見せない夏日である。多摩川に照る日光は昨日と変わらない。気温も。ただ違うのは暦と、それに引きずられた業務と、心持ちだ。それだけだ。

iPhone、君はよく滑る

ほんとよく滑る。スベスベだからそこはかとなく手指から滑り落ちて床に落下する。僕はこの間iPhone買い換えたばっかりだっていうのに、ほんとよく滑る。落ちる。

幸い、再び画面にヒビが入る悲劇は回避しているところであるが、いつ何が起こっても全くおかしくない、それこそテーブルの上にはあらゆる選択肢が乗っかっている状態である。

これ多分完全に落とさせようとしていると思うんだ。なぁそうだろう、ティムクック。

壊れなきゃ替えないし、なんなら壊れても替えないことが多いスマホ業界で安定して業績を伸ばすにはやはり買い替えを喚起するようなクリティカルアイディアが求められるのだろう。それが多分極度のスベスベによる落下だ。セトモノだって割れなきゃ買わない。世の中うまくできている。

落下から身を守るために、みんな思い思いのケースを買って、思い思いの摩擦を生み出している。買い換えることのないように。支配者の思うツボにはまらないように。

僕もさっさとカバー買わなきゃいけないし、画面ガードのシートを着けなきゃいけないんだけど、ここんとこ財布の紐が緩んでるせいで首が絞まっているので、思案をしている。思案をしながらスベスベ滑る。落ちる。

思案化合物中毒にでもなりそうである。

心ここに在らず

全く持って心ここに在らず。来る者は拒まず、去る者は追わず、心ここに在らず。井の中の蛙、大海を知らず、心ここに在らず。こちら、韻踏むのがやっとの心情です。

人間25年も行きていると全くもってダメな日だってある。なんかうまくいかない日とか、悲しいことが立て続く日とか。もちろん一発どでかい大悲劇をかました日だってある。忘れられないものである。

なんかうまくいかないなーって日。ちっちゃなミスが立て続くわけだけれど、大抵、一つのきっかけとなるミスがあらゆるそれを引きずりこむように誘発している。ベタベタの雪の上を雪玉が転がっていくイメージをしてくれるといい。転がり落ちていくほどにあらゆる雪を巻き込んで巨大化していく雪玉。発端は小さな玉でも、気づけば巨大スノーボールと化している。

このとき、とにかく僕らは転がる雪玉を止めなければならない。どうすれば止まるのか。斜面から退避させてあげればいいのだ。私的悲劇の連鎖を呼ぶ斜面。こいつは僕らの心の持ちようで急にもなれば緩くもなる。急転直下の大直滑降を雪玉に強いるような大荒れの心中なのか、緩やかな転がりで収まるような穏やかな心中なのか。大きく異なって来る。

雪玉のタネができた時、とにかく心を鎮めて、斜面を緩やかにしなければならない。巻き込みを減らし、被害を最小限に抑える。

こんなことを書いて、懸命に鎮めようとしている最中である。まだまだ、夜は長い。頼むから斜面よ、穏やかであれ。

トッティが引退する

Yahoo!ニュースで知りました。

headlines.yahoo.co.jp

ローマに君臨し続けたトッティ。24年間も一つのクラブで最前線を張り続けるなんて、到底できたことではない。その割に代表ではそこまでのインパクトを残せていない気もする。日韓W杯の韓国戦(ベスト16か準々決勝)で退場させられたのはよく覚えている。疑惑の判定が続いた中で、審判の韓国贔屓を決定づけた退場だった。

トッティを最初に知ったのは中田英寿のローマ移籍だ。親父が当時サッカーにハマっていて、中田の試合となれば早朝でも起きて観ていた。幼い僕もつられて後半だけとか観てた。前半は夢の中であった。

中田はペルージャでスーパー日本人として活躍。何しろ倒れないし早い司令塔っつって、ローマに白羽の矢を立てられた。だが、すでにローマにはトッティが司令塔として君臨していた。じゃあ中田とトッティをどう使っていくのかと。ぼちぼちの議論がなされた末に、一時期中田はトッティから司令塔の座を奪い、ローマの攻撃陣を操っていた。結局トッティも上手くなって、司令塔を明け渡すことになるのだけれど。

ミラン、ユーベ、インテルと並んでセリエのビッグクラブとして世界のサッカーを牽引した時代、カルチョスキャンダルでセリエがボロボロになった時代、そしてオイルマネー流入でセリエのパワーバランスが変わりつつある昨今。ローマは優勝争いに付かず離れず、場を盛り上げるだけ盛り上げて去っていく三枚目のような立場でセリエに影響を及ぼしてきた。何しろ優勝しないクラブだ。そんなクラブでぶっちぎりの2枚目を演じ続けたトッティ。様々な相棒、様々なシステムの中心にトッティはいた。バディストゥータと並び、カッサーノを育て、デ・ロッシと共に歩んだ。最近はメッシのせいでゼロトップといえばバルサのイメージが着いてしまっているが、そもそもゼロトップはローマのもので、トッティのものだった。地元民はさぞ寂しかろう。

今年もどうやら優勝は厳しそうだ。ローマはローマとして、2位〜5位をうろつく。スクデット戦線を盛り上げ、去っていく。決してヒールにはなれない、愛されるクラブにこだわり続けたトッティ。きっとそのうちワールドサッカーダイジェストで引退号が刊行されるだろう。そしてしばらくしたら、ローマの監督として舞い戻るに違いない。それこそペップのように、ジダンのように。頭髪だけは、彼らの二の轍を踏まないことを心より願っている。

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

 

原因不明の好調デー

そんなこんなで昨日も酒を飲み、日付変わってしばらくしてから家に着き、辛うじてキーボードを叩いてブログを書いたと思ったら風呂も入らずに寝たのだが、どうしたものか今日すこぶる調子がいい。不潔な体を引きずってベットに入り、強引に目覚めた癖して、すこぶっている。なんなら機嫌もめっちゃいい。饒舌だ。笑顔だ。

元々感情や機嫌の浮き沈みが少ない方だと思う。が、半期に1回程度、原因不明の躁状態が訪れる。対して鬱は大抵原因がはっきりしているのでコントロールしやすいが、躁は突然やってきたりするからもう手のつけようがない。森羅万象が自分に収斂していってるような、無敵・無双感に取り憑かれている。

かの武井壮は、自分のコンディションを完璧にコントロールするために、温度湿度から着たもの食べたものまで完璧に記録し、四六時中の絶好調を自らにもたらしているという。徹底した自己管理が生み出す好調。理想形である。無意識にそれをこなしている中畑清はもっと凄い。好調に愛されている。

毎日毎日こんな気分で、寝不足も体調不良もなく生きていけたらどれだけ幸せだろうか。

何が僕に作用しているのだろう。わからん。寝る前の過ごし方は最悪だった。酒も飲んだ。前の晩も寝不足だった。当たりがつかない。疲れ切って酒飲んで午前に帰って来てベタベタの体のまま寝ると好調が訪れるなら、そんな好調いらない。苦しすぎる。自堕落とバイタリティの間を揺蕩いながら、生きやすさを追求したい。

ゴールデンウィーク

大学の同期と飲んできた。同じ学部の学科で机を並べていた連中である。卒業からしばらく経ってもまだ集まろっかって流れになることを心から嬉しく思っている。

何故、今日飲もうという話になったか。それは世の中がゴールデンウィークだから以外のなんでもない。転勤していったやつが東京に帰ってくるので飲みましょう。これが何よりの原動力となり、飲み会は執り行われる。

ゴールデンウィークを漢字でなんて表すかなと考えると、多分「大型連休」が値する。意味はわかるが、別に5月のこの時期を逃しても大型連休は成立すらことを考えると、ドンズバでゴールデンウィークを表すとは言えない。

対して、ワールドカップはどうだろう。日本語でどう訳すか。これは「W杯」である。違いない。また、オリンピックだと、「五輪」だ。うまく文字を当てている。W杯に関しては最早漢字半分であるが、ワールドカップとしか読めないものだから不思議である。

ゴールデンウィークにも何か当ててやりたいと思った。W杯に習うのであればG週となるかと思う。G週。なんのことやら全くもって伝わらない。新聞の社会面に「G週開始 交通渋滞ピークに」なんて見出しが出ていたって、G週が入って来なさすぎて読みづらい。

こんな感じで漢字表記を追求していってやろうとしたのだが、どうしようもない眠気に襲われているので、やめにする。

今日は楽しかったです。