徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

歯が痛い

左の奥歯たちが痛いのはここ2週間ほどのことで、一度歯医者に行って処置してもらったにもかかわらずに痛いのは想像が作り出した幻影か。それとも。

なんとなく左側が痛い。上も痛いし、下も痛い気がする。違和感である。よく筋肉に違和感を抱いたものだが、歯に抱くことは多くなかった。親父の言葉が頭をよぎる。「うちの家系は歯弱いよ。」ある時帰省したら不意に入れ歯になっていた父が言うのだ。間違いない。祖母も総入れ歯だった。僕の歯の未来は決して明るくないのかもしれない。

実は寝不足だったりするので、そう言うところでも歯が痛む原因があるはずだ。歯が一つ抜けたら他の歯もつられて抜け出すように、一蓮托生、様々な物事はつながっていくのだろう。疲れも寝不足も歯痛も。

そうこうしているうちに会社の健康診断が訪れる。多分歯は見てくれない。痒いところありませんか?って聞いてくれる美容師は優しい。歯が痛いと申告するチャンスも与えさせてくれない健康診断だ。あなた方が診断しない場所で僕は健康を損ねています。伝えてあげたい。

そう言うわけで寝不足なので、睡眠に移る。一言だけ言わせていただくと、80歳まで20本自分の歯を残していたいです。

社会人になった体育会人間が求められるコペルニクス的転回

社会に出てからというもの、大学まで競技をしていた話をするとみなさまよく食いついてくださる。もっぱら凄いねと言われる。僕自身、楽しいわけではなかった競技生活の晩年だったので、「凄いね」「頑張ったんだね」と声かけられると悪い気はしない。ほんの少し報われた気がする。

就職するときにも体育会が出自という肩書きは武器になった。採用担当連中がどう僕のことを見たのかわからないが、多分10年間歯を食いしばって陸上していたと聞けば、それなりに頑張れるやつなんだろうと見ただろう。真か偽かは別として。頑張ってきたことに貴賎はないとしても、「ウケ」を考えると徳な頑張りをしていたと思う。

果たして、働きだしてからが勝負となる。

部長級か、それ以上の肩書きを持つスーパーサイヤ人たちは僕たちペーペーに対して異口同音に「新しい風を吹かせてください」みたいなことを言う。便利な言葉だ。耳元で桃色吐息でも吹き掛けてやろうか。まぁいいのだが、問題はこの新しい風が含む意味だ。組織に新しい人間が入ってくると、凝り固まった組織が少し活性化する。道理である。新しいノウハウ、新しい考え方、見方。諸々を伝播してくれと望む。

噛み砕くと、

新しい風を吹かせて=組織の問題点を見つけて直して。よりよい組織にして。

みたいな話である。


ここに、めっちゃ頑張れるとされる体育会人間が突っ込んでいく。より良い組織にするために。いい影響を及ぼすために。

一般に言える話なのかはわからないのだけれど、陸上を一生懸命にやっていた僕は、改善の矛先が自分に向かうことが多い。特に個人競技を生業としていたアスリート達に多い傾向だろう。ハードルを跳んでいた時もそうだった。如何に速くハードルをクリアしていくか。走るか。自分の筋肉と技術に向き合っていた。仕事でもそうだ。どうしたらもっと効率よく動けるか。どうしたら円滑に仕事ができるものか。

つまり。

会社は外向きなベクトルで改善をしていってほしい。けど、アスリート達はどうしても自分たちに改善のベクトルが向かう。

なんていったって、ルールの中でスポーツをしていたわけだ。サッカーでボールを抱えるわけにはいかないし、ハードルを避けて走るわけにはいかない。決められた枠組みの中での創意工夫をしていた。そのため、「そもそもハードル跳ぶ必要なくね?」みたいな議論には中々ならない。

でも、スーパーサイヤ人が求めるのは多分、「そもそも脚でボール使う必要なくね?」みたいな発想だ。

目標を立てて、そこに向かって全力疾走をするスキルは多分体育会人間は高い。しかし得てして、ストイックに自らを武装する的な方法を取る。新しい風を自らの中に吹かせている。まぁそんな姿を見て、あの子頑張ってるねぇと言う評価が為され、副産物として職場の士気が高まることはあるかもしれない。けど、その程度のことだ。


そういうわけで、社会に出た時、アスリート達はコペルニクス的転回を求められる。天動説から地動説への変革に似た、内向きの視点から外向きの視点への変革だ。

便利づかい人間で終わるか、そっからまた先のステージへ進むか。考え方をひっくり返せるかどうかにかかっている。

人依存症

新年会が落ち着いたと思えば歓送迎会が始まり、花見が始まる。そしてやっと世の中に平穏が訪れたはずが、平穏に乗じて各々の会を開催する。つまり一年中僕らは何とか会とかって名目を付けて誰かと会い続けている。


人と喋るのは楽しい。

これが世の大前提だ。人と会うことが趣味みたいな人も多いんではなかろうか。予定を詰めたい。誰かとご飯に。誰かと飲み会に。

僕も宴だらけの日々からぽかっと予定が開くと、おやおやと思う。たまには誰か懐かしい人と会ってみるかな。声かけてみるかな。

自発的に声をかけるのが苦手な性分で、本当に気心が知れた人でなければ行こうとはいえない。だから何やかんや一人でふらふらしたり身辺を整えたり、お約束の創作活動に精を出す。


人と会うという行為には、2つのパターンが存在する。

人と会うために人に会うパターンと、何かをするために人に会うパターン。二者は大きく異なる。

日々暮らしていてこれは危険だなぁと思うのが、人と会うために人に会うパターンだ。日頃の愚痴のはけ口としてだったり昔話に花を咲かせたり諸々あるだろうが、中身のあるようでない内輪の話に花を咲かせるのがとにかく楽しい。中毒になる。次第にいつものメンバーが形成されていく。

これ自体は悪いことではないのだが、恐ろしいのは話が対外的に通用しないことだ。Aと言ったらBと言う。それにCと返す。みたいな条件反射が成立する間柄ほど気の置けないものはない。絶対に必要だし、貴重なコミュニティだからこそ、依存する。人依存症になる。

対して、詩吟でも俳句でもボルダリングでも何でもいい、何かをする結果人と会うパターンは、人への依存が少ない。極端な話、相手は誰でもいいのだ。「何かをする」というツールがある限りは、人の輪は広がり続ける。人に依存せずに人に会うことが可能となる。脱人依存症。


世に蔓延る何とか会の殆どは人に会うための会で、例に漏れず全部楽しいから酒を飲むし街に繰り出すんだけど、何となくこのまま転がっていくと空き缶みたいになっていく気がしたので書いた。

別にどうこうしようって気持ちはない。楽しいから。

一人っ子に生まれてみて。メリットとかデメリットとか、そんな感じのやつ。

一人っ子として育ってきた。この世に生を受けてやや四半世紀。僕の母から出てきた子供は後にも先にも僕だけである。先導も後続もいない。

「一人っ子 特徴」「一人っ子 子育て」「一人っ子 わがまま」

「一人っ子」で検索すると海千山千の言葉が後に続く。どうやら皆々様一人っ子に興味があるようだ。一人の女性が生涯に産む子供の数が二人を割りこんでからどれくらい経つのか知らないが、肌感覚的には未だに兄弟がいる方がマジョリティである。育った環境が人間性に与える影響は言わずもがなであり、それは血液型占いなぞよりも間違いなく人となりに関わってきている。諸事情により一人っ子を育てなければならない親が一人っ子の育て方がわからないとか、一人っ子の感覚がわからないとか、ご両親も一人っ子をどう扱っていいものやら苦慮しているのだろう。

一人っ子として育った感想をつらつら書いていく。育児においては「一人っ子を育てた」感想の方がよほど役に立つだろうが、一つの当事者の目線として書く。

 

大前提として、僕は一人っ子に生まれて辛かったことはこれまででそう多くない。ある種の生きづらさや感情の動きが一人っ子由来のものなのかもしれないなと感じたことはあるものの、概ね、一人っ子を肯定的に生きている。この先、両親伯父伯母が老いていった際、一人っ子のしんどさが波状攻撃を仕掛けてくるのかもしれない。それはなんともわからない。

一人っ子の1番の特徴はやはり、同年代の人間が身近にいないことだろう。一人っ子にまつわるメリットやデメリットはあらかたここから生じるように思う。僕も両親、伯父伯母、祖母に囲まれて育った。身近な同年代は6個か7個上の従兄弟。遊んでもらってはいたがそんなにしょっちゅう会うわけではなかった。

年齢的な孤島で育つということで養われるのは大人とコミュニケーションをとる能力だ。

家族の集まりに行くとしよう。一人っ子長男なのでそりゃ可愛がられるのだが、しばらくすると大人は大人の話をしだす。子供はおとなしく遊んでいてねの時間である。この時間をどう過ごすかが一人っ子の大きなポイントとなる。何かに没頭できる時間であり、ある意味の疎外を感じる時間。一人っ子もバカではないので、しばらくすると大人の会話を覚える。大人が面白みを感じる話し方や話題を覚える。子供の土俵に大人を引きずり込み、一生懸命に話したところで、大人は子供用の笑顔と対応を見せるだけだ。大人が本当に面白がるのは、こちらが大人の土俵に上がり、面白いことを喋った時しかない。この辺りを一人っ子は敏感に察知する。なので、話し方とか話題は歳よりも大人びていく。可愛がられるための生き残りゲームである。

対して、全くもって育たないのは敵意への対抗措置だ。何しろ周りには分別をわきまえた大人たちしかいないので、極端な理不尽に見舞われることは少ない。道理にそぐわない出来事や敵意と遭遇することがないので、圧倒的にそういった面で打たれ弱い

兄弟がいたことがないのでよくわからないのだが、おもちゃや食べ物、陣地に至るまで、兄弟がいると日々抗争が絶えないようである。すると、自分のものに対する執着心の捨て方や所有物をぶんどられた時の気持ちの整理力などがすくすくと育つ。しかし一人っ子はその部分がすっぽり抜け落ちている。そのため、感情を爆発させて遮二無二相手を罵倒しまくるみたいな猛々しい反発の術を持たない。心優しいといえばそうだが、まじで丸腰。情けないほどに。

以上2点が同年代が身近にいないために生ずる力学なのだが、合わせ技一本で複雑な幸と不幸を呼び込む。

第一に大人が好きになる。年上が好きとかっていう次元ではなく、遥か上、父親母親世代が話しやすくて仕方なくなる。必死に大人の土俵に上がろうとする行為が大人の世界、大人の話題への憧れと変わる。それと同時に理不尽極まりない幼稚園や小学校のお友達が苦手になってくる。同年代怖い。なんとなく敵意向けられそう。怖い。こんな気持ちがムクムクともたげる。結果、未だに僕は母親世代にしか生身でブチ当れない。同年代には猛烈な警戒心と全力のコミュニケーションを持ってしてでないと立ち向かえない。

その代わり語彙力は増える。たまたま僕が一人っ子サバイバルするための手段として会話を用いたために、語彙力の引き出しがまずまず整った。引き出しの数もさながら、大人に食らいつくために瞬発的に引き出しを開ける能力も育ったように思う。一人っ子様様だ。これが例えば、大人の会話の土俵に殴り込まずに、新たな土俵に乗った場合を考えてみよう。大人の会話でも子供の会話でもなく、新しい土俵。芸術だとか、音楽とか、スポーツでもいい。全く歯が立たない連中になんとかして認めてもらいたいという気持ちが起きやすい一人っ子は、何かの能力に人より少しだけ秀でやすい環境にあると言えると思う。努力と時間をぶっ込みやすい。

 

一人っ子は社会性が育たないとか言われがちだが、違うと思う。兄弟間のコミュニティで育たないものの代わりに大人とのコミュニティを先取りしているわけで、ある種早熟であり、老成している。ただ年相応のコミュニケーションを取る場面が不足しがちなので、そういうのを公園とか児童館で補ってあげるといいよねって話だ。無論、僕は未だに不足している。馴れない同年代との会話は、持ちうるボキャブラリーをフル活用して挑むが、めっちゃ疲れる。大抵喋りすぎて引かれる。か、察知して途中から途端に黙る。実に難しい。

一人っ子ってことをあまり考えてこなかったが、そういえば一人っ子だ俺って思うことがちょっとあったので書いた。別に追記とかする気ないけど、なんか他に思い当たる節があったら書いていこうと思う。

悪くないです。一人っ子。やりようによっては薬にも毒にもなるのは、なんだって一緒だから。

スピッツという故郷について、時処位論より考える

陽明学だったろうか、「時処位の論」という考え方がある。

孔子老子孟子だと、聖人と言われる人々がいるわけだが、現在、彼らの言動をまるまる真似したところで、それは意味ないよね。時と場所と立場によって聖人たる振る舞いの方法は変わってくるよね。

まぁつまり、大賢人の物言いをうまく自分と時代に落とし込んでいきましょうということらしい。こんなことを、陽明学者のなんとかって人が説いている。詳細が思い出せないのが酷く悔しい。

大賢人の素行を真似するのはもちろんなのだが、そこまで大層な話でなくとも、僕らは知らぬ間に歳を食って、青春時代に熱を上げていたことが今や全く興味ないみたいなことが平気で起こる。ある種の時処位である。とびきりの集中を生みたい時に、あるときはゲームに向き合っていたはずなのに今はパソコンになってる。とか。時処位だ。

音楽もそうで、BUMP OF CHICKENとかビートルズとかRADWIMPSとか、狂ったように聞いてテンションをカチ上げていたのに、今はそれがBiSHであったり、大森靖子であったりとする。僕のスイートスポットの路線が大きく変わっているわけではないが、対象は確実に変化している。

また、僕の好みが少しずつ変わっていく間、BUMP OF CHICKENBUMP OF CHICKENなりに新しい音楽に挑戦して、僕らが夢中になった頃のBUMP OF CHICKENではなくなっているし、それは割とどのバンドにも同じことが言える。

するとどういうことが起こるのかというと、「昔聴いてた堪らない曲を今聴いてもそこまで心が踊らないから、そのアーティストが最近出した曲を聴いてみたけど、アーティストも変わっちゃってて全然心にピタッと収まらない。」ということが起こる。またはそもそも解散しちゃってて全く新曲が聴ける状況がないとか。だから僕たちは、心の隙間を埋めるアーティストを、一曲を、どこまでも探し求めるわけだ。

そんな中、スピッツ

スピッツがすごいのは、結成からおよそ30年、大ヒットから20年という長い間、少しずつ芯をずらしながら曲を発表し続けている点だ。どう例えようか。古今東西に散らばるいろんな音楽に「スピッツ」というコーティングを施して楽曲を発表しているイメージ。これが一番近い気がする。一度スピッツという味を好きになってしまうと、スピッツが好きな限りはいつスピッツを聴いてもグッとくる。パンクロックにありがちな、同じアルバムに三曲くらい同じような曲が入る焼き増し現象も起こさせず、少しずつ芯をずらしてスピッツ民を喜ばせている。解けない魔法である。

時の流れに流されながらも流されない絶妙なスタンスを保ち続ける彼らは、時処位を超越した存在である。なんかうまい曲がないなともやもやしている時、不意に昔懐かしのスピッツを聴く。うーん、なんか違う。既視感しかない。もっと違うやつが欲しい。で、試しに最新アルバムに手を出すと、これ!これだよ!これが聴きたかった!こんな風に、冗談みたいに都合よく、変わらないまま少しずつ変わってスピッツはいつもそこにある。清らかな声と爽やかなメロディに乗せて生暖かくてどろっとした気持ちを歌っている。

音楽界にはびっくりするほど色々な聖人バンドが溢れている。うつろっている。有象無象の中でのスピッツ。それは時処位に惑わされない貴重な存在なのだ。

なんか別に時処位の論に絡めないでもよかった話だった。

セックス至上主義

最近よくいく少し風変わりな居酒屋がある。下町情緒を湛えたインド風音楽酒場だ。わけわからんが、これが絶妙に調和しているもんだからすごい。

そこに集う人々と話す。おっさん達である。若くて一回り上の彼らは、それはそれは下ネタしか話さない。清々しいほどに思春期の中学生みたいな話で盛り上がる。それも四十五十の男子中学生なので、男女のそれを知り尽くした上でのアンダーグラウンドトークである。生暖かいなんてもんじゃない。ぐずぐずである。

一回り以上下の僕は比較的ニコニコしながら合いの手を入れる役回りに徹するのだが、たまに主役に引っ張り出される。

「もうさー、25の頃なんてさー、セックスのことしか考えてなかったよね。」「どうやって女の子とねんごろねんねんするかが頭の100割を占めてたね。」「本当に草食なの?」「そんなんじゃ草食ですらねーよ。植物だよ。ただの。」

辛辣なお言葉を数多くいただく。

そうか!もっと性に生き、性に生かされるべきなのか!なんとなく悟り、女の尻しか追わないような人生を一瞬逡巡したところで、これまでの人生とのギャップのせいで全くリアリティを感じられない。なにしろただの草が草を食む動物を飛び越して肉食獣になれというのがまず苦しい。悠久の時を経て進化していくものであり…なーんて、こう、ごちゃごちゃ考えた結果、草になっていくわけである。僕の場合。

セックスを思い、セックスに生きる時期を超えてきた彼らからすると、なんとも情けないところでウジウジしている人間に映るようで、いいから本能に生きろよと言われる。

言う通りだなぁと思う。半分くらい。当たり前のように女の子が好きで、おっぱいも好きで、猿のごとくセックスに明け暮れられるのならそれもいい。大江戸線なんかよりも遥か地下を流れる人類の共通認識を大っぴらにするのを良しとしないで育ち、それがくすぶり続けた成れの果てがこの草だ。セックス至上主義の前にはぐうの音も出ずに捕食すらされない草だ。

不良だったけど更正したやつが偉いみたいな風潮。セックス至上主義もあれに少し似ている。ただ、不良願望よりも性へと突き動かす願望の方がよほど強いあたり、セックス至上主義には芯の強さがある。性を知り、性を遊び尽くした人間しか辿り着きえない感覚がそこにはある。

遊ぶなら今のうちだし、失敗するなら今のうちらしい。たくさん騙されて、たくさん砕けて、生きろと。教訓めいたことを言われると、やはりもっとむちゃくちゃするべきかと逡巡して、無理だっつって、また振り出しに戻る。多分僕は一生めちゃくちゃ遊べないし、一目散にセックスに突っ込んでいくような人間にはなれない。これまでの25年間があまりにも深く根を張っている。強がりでもなく、別にいっかなって思う。草は草なりに気合い入れて種飛ばして生きる。そう言うことにする。

脳内洗浄したい夜

ここ最近のことであるが。寝る間際電気を消して、できることといえば考えることか寝ることかしかなくなった状態。頭の中でグルングルン不安が回ることがある。物の見事に寝づらい。寝られないことはないのだけれども。不快な入眠を経験することとなる。

陸上やっていた頃でさえ、翌日のレースで眠れなくなることはなかった。神経質になったのだろうか。なんなのだろうか。

不安にはいくつか種類がある。少なくとも、今回の話では二種類の不安の差異がポイントとなってくる。一つは未来への不安で、もう一つは過去の不安だ。

学生の頃感じていた不安は、大抵未来への不安だった。うまく走れるだろうかとか、どれだけ走れるだろうかとか。これは期待に近いものがあって、それまでの道のりが全然ダメでも何か神風が吹くんじゃなかろうかと、奇跡を待つ気持ちがそこはかとなく存在していた。もちろん、磐石の状態で臨む明日は、不安に似た期待が脳を埋め尽くした。

大抵寝られる類の不安がこれらだ。

現在脳内を埋め尽くしがちな不安は、圧倒的に過去の自分への後悔が原動力となる。やり忘れはもちろんのこと、何かと時間なくて手が回らなかった諸々が突如として大きな後悔となり脳裏を埋め尽くす。さっきまでなんともない矮小なタスクとして片隅に追いやっていたのに、次の瞬間には猛烈に重要な事項として立ちはだかり、なんで時間を工面して手を回さなかったのかと自分を責める。考えは発展していき、後悔が明日への不安と結びつく。絶対明日すぐ動こう。心には決めるものの、明日はまだ遠い。今すぐにでも不安を取り除きたいのに、会社は遥か彼方。先方が明日出勤なのかもわからない。話が進むのか進まないのかすらわからない。いてもたってもいられなくなる。けど、現実問題寝なければならない。明日酷く体調が悪い一日を過ごす羽目になってしまう。

瞼を瞑りながら、脳みそ取り出していらない不安のところだけ取り出してやりたい気持ちがムクムクと擡げる。できたらどれだけ楽だろう。しかし、暗闇はやはり強く、気づかないうちに眠っており、朝がやってくる。諸事万端もりもり終わらせていきたい1日の始まりである。

結局今夜の快眠は今日の動き次第である。健やかな夜を目指す。

「差し支えなければ」インフレ

職業柄、訳のわからないまま訳のわからないような敬語を塗ったくる日々を過ごしている。

最初は「お待ち申し上げております。」に違和感が絶えなかった。待つって、申し上げるのか?申し上げるってなんだ?待つ?申す?文法のゲシュタルト崩壊であった。だが、諸先輩方がなんの躊躇いもなく使うもので、そういうものかと思って使うようになった。

「お承り」というのもどうも変なようである。「承る」に「お」でダメ押しする形。「遥か前方に全速前進」くらいに力強く意味をダブらせている。ぐうの音も出ないほどに敬い、謙譲している。

たくさんの敬語と敬語もどきを覚えていく中、「差し支えなければ」を違和感なく使えるようになった。「まじで貴方の迷惑にはならないようにしたいんです。けど、迷惑にならない範囲でご協力を仰げれば…」的なニュアンスであると認識している。相手を慮りながら自分の意向を伝える術として、めっちゃ使える。「差し支えなければ伺わせていただければと存じます。」は「まじで貴方の迷惑にはならないようにしたいんです。けど、迷惑にならない範囲で会いに行きたいです。会わせて。」だ。

あまりに「差し支えなければ」が便利なものでここ最近めちゃくちゃに多用しているのだが、段々自分がすげーお節介焼きの押し売り野郎みたいに思えて来ている。

「差し支えなければ是非ご覧くださいませ。」

「差し支えなければ取って参りましょうか。」

「差し支えなければご案内いたします。」

「差し支えなければ晩御飯を頂きに上がってもよろしいですか。」

「差し支えなければ洗濯槽が壊れた洗濯機を差し上げましょうか。」

「差し支えなければ…差し支えなければ…」

「貴様」が使われすぎて見下したり小馬鹿にしている意味が付与されたように、僕の中の「差し支えなければ」も大絶賛スーパーインフレ状態だ。相手が差し支えようが差し支えまいが関係なく、「差し支えなければ」に包みさえすればそれらしく受け取ってもらえる提案ができるみたいな気になる。一歩引いて相手を気遣う上品さを持ってますアピール。たかが言葉端。されど言葉端。

カチッとしたスーツ着て、バシッと髪型キメて、メガネ外して、めっちゃいい香りの香水をそこはかとなくかけた上で、「差し支えなければこの後食事でもいかがですか?」って街行く人に声をかけたら世のナンパも相当うまく行くんじゃないかと思う。

銀座コリドー街に跋扈する皆々様、是非「差し支えなければ」を効果的に使用して頂きたい。差し支えなければで構わないので。

ネミィ・ストレース

レヴィ・ストロースと言う人がいました。

文化人類学者として散々大学の授業で名前を聞き、彼が構造主義という大層な理論ないしは考え方の枠組みを提唱したのは記憶の端にあるのだけれども、果たして構造主義が何で、どういう枠組みなのかは全く説明できないまま僕は学府よりつまみ出され、今に至る。

うわぁー眠い。ねみぃ。ネミィ・ストレース。ただそれだけの話なんだけれど、レヴィストロースの名前をちらりとでも知っている人にとってはほんの少しだけ面白いのではないかって思う。レヴィ・ストロースは業界ではスーパースターなのだが、広く有名なわけではない。ニュートンエジソンアインシュタインのように、小学生の脳内に叩き込まれるような名前でもない。ある種、知る人ぞ知る偉大な人物だ。

狭い業界での大常識は、ある種の仲間意識を生む。トランプの大富豪(大富豪のトランプじゃない)でローカルルールが同時多発的に生まれるのも、「俺たちだけが知ってるルール」みたいなのが心地いいからである。

レヴィ・ストロースをご存知の方は、レヴィ・ストロースの世間一般立ち位置も知っている。そうそう机上に上がる名前でないことも知っている。だからこそ、レヴィ・ストロースを知っている人を求めているし、ネミィ・ストレースにも必ずや反応を示す。


と、このように全く構造的な話ができない状況を生み出しているのは全て、ネミィ・ストレースの所為であるといえる。

ゴールデンウィーク明けの多摩川を渡る

高架の上から望む多摩川河川敷はよく世相を表す。いや、世相というのは少し違う。休日か平日かが一発でわかる。半年くらい浮き世を離れ、曜日も日も全くわからなくなった後でパッと多摩川河川敷を見たとしても、その日が休みか平日かは瞭然だ。

昨日までの河川敷はすごかった。野球にサッカーにラグビーにゴルフ。球という球を転がしながら老若男女問わずに走り回っていた。なるほどこれがゴールデンウィークかと。梅雨入り前の晴れた空は後に訪れる曇天デイズを予感もさせないでいた。

今日から世の中が動いている。5月病罹患者が漏れなくオフィスビルに突っ込まれ、キーボードを叩く音色と電話の着信音が壮大なコンチェルトを奏でている。指揮者は暦だ。たかが暦、されど暦。暦がどれだけの命を苦しめ、奪ってきたのだろうか。昨日も下総中山で人身事故があった。もろに食らった。

僕はゴールデンでもなんでもない鈍色ウィークを過ごしている。別途休日の補填があるから焦りも切なさもない。嘘です。休みたいです。昨日の車窓から見た河川敷は綺麗だった。それは連休最終日で、もう次の刹那には各々の戦さ場で闘うという、連休最後の灯火だったからだろうか。線香花火は燃え尽きる直前、最高の火花を散らす。桜も咲き誇った直後には散るのだ。

倦怠感をあざ笑うかのように、未だ空は梅雨の予感も見せない夏日である。多摩川に照る日光は昨日と変わらない。気温も。ただ違うのは暦と、それに引きずられた業務と、心持ちだ。それだけだ。