徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

無性に牛乳が飲みたくて

飲んでる。

小さな頃から乳製品の英才教育を受けてきた。ヨーグルトと牛乳に塗れ、乳臭いと言われたら僕のことですかといつもビクビクしていた。乳臭いの意味が比喩的なそれだったと知ったのはしばらくしてからである。

牛乳が好きだったかと言えばはてなが浮かぶが、それは多分日本国民に味噌汁好き?って聞いているようなもので、全く意識しないまま飲んでるから好きなのか嫌いなのかわからなくなってしまっている。新一と蘭もそう、犬夜叉と桔梗もそう。

上京してからも毎朝のようにコーンフレークに牛乳かけて食べてた。甘いそれが好きだった。仕事を始めてしばらくしたら朝飯の買い出しするのに疲れてきて、牛乳買うのもったいなくね?という考えのもと、牛乳も久しく飲まなくなった。が、最近訳あってとんでもない量のコーンフレークを手に入れたので牛乳ライフが再開されている。

朝と夜、食後にコーンフレークしてる。コーンフレークしたくて起きてる。コーンフレークしたくて夜ご飯少なめとかにする。コーンフレークがなかったらどうなってしまうんだろうと思うほどに、コーンフレークしてる。無ければ無いなりにやるんだけど、あったら無性にそれを求めてしまう。

ここまで書いて気がついた。牛乳よりコーンフレークが好きだった。

もうすぐ僕は寝る。明日のコーンフレークを楽しみに。朝どんなに食欲なくても、胃がもたれていても、食べる。牛乳の白に埋まって行くコーンフレーク。今日一日が白く塗りつぶされて行くようだ。何色にも彩れるんだって背中を押されているようだ。

ってことで、少し太り気味なので反省します。

顔なじみのキャッチが帰ってきた。

駅から家までの10分間で調子いいと5回は「おっぱいいかがですか!」「飲みないっすか!」と元気に声をかけていただけるナイスな治安の街、錦糸町に住んで2年もすると、おっぱいの人たちと仲良くなる。嫌でも。

二人特に仲のいいキャッチがいるんだけれど、そのうちの一人のことを最近みてなかったら少し心配をしていた。ところが、今日本当に久しぶりに出会った。変わらずに「お兄ちゃん、いい服着てるね!かっこいいね!」と夜の街に笑顔を振りまいていた。

彼はガーナ人である。

久しぶり、最近どうしてたのって聞いたら、半年間ガーナに帰っていたらしい。奥さんは日本人だけど、親と兄弟がまだ向こうにいるらしい。なんで帰国したって、親の面倒とかもあるんだけど、何より疲れてしまったんだと言った。もう本当に疲れた。日本人は働きすぎだ。ガーナは本当にのんびりしている。でも俺も仕事があるから帰って来なきゃならないし働かなきゃいけない。また頑張るよ。で、今日はどうなの?飲まないの?

僕はこの二年間夜の街的貞操を守り続けている。もちろん彼に誘われて店に入ったこともない。でも、もし行くなら、彼からがいいと思った。ただのキャッチが血の通った人になった瞬間だった。

 

僕ら当たり前のように働いていて、みんな職業の仮面をつけて生きている。だから忘れがちになってしまうんだけど、大前提でみんな人だ。みんな生活があるし人生がある。その辺のBUMP OF CHICKENとかが歌っていそうな話だが、違いないことだ。

2年かけて二人のキャッチと仲良くなって、彼らとは上っ面でも身の上話をするようになった。びっくりするくらい二人とも普通の人だ。身体も壊すし、寂しくもなる。彼らと仲良くなる間に無視を決め込んできた無数のキャッチたちにも間違いなく普通の暮らしがある。知らないだけで。

どうせなら、お仕事のベールを脱いだ人をたくさん知りたい。きっかけがなかなかないけど、たぶんいつも行くスーパーのレジにいる全くやる気を感じられない学生っぽい人も話したら普通の人だ。絶対友達に慣れないと思ってるけど、仮面がそうさせているだけなのかもしれない。みんな血の通った人間と知った上で、今までの暮らしをしてみるとたぶんすごく楽しい。仕事より深いコミュニケーションがそこら中で生まれる世界。いいものだろうと思う。

でも今の形に落ち着いているところを見ると、世の中的にはそれを求めている人は少ない。ある程度線引きした上での関わり合いに心地よさを感じる人が多いのだろう。

 

今日は僕もなかなか疲れていたんだけれど、キャッチの彼と話した後は歩みが軽くなった。不意な人間味がいいのかもしれない。

また明日も同じ道を通る。きっと彼もいる。どうせお酒に誘われる。それ込みで二言三言、すっからかんのコミュニケーションを楽しみにしている。

社会から「なんでもない時間」が消えた

待ち人来ず。最近こそすぐ連絡取れちゃうから悩むことはなくなったが、携帯電話なしの待ち合わせはなかなか難しい。咄嗟の出来事でいくらでも時間はずれ込む。

この度、珍しくそうしたのんびり待ち合わせを行なった。「今どこで何をしているのでこれくらいの時間に着きます」と、リアルタイムで所在を伝えることをせず、来た時が会う時で、すべての状況がわかるときという古来の待ち合わせである。

折角だからとスマホをしまって、待ち人中をひたすらにぼんやりとした。それは本当になんでもない時間だった。今、社会から失われつつある時間だ。

びっくりするくらいに四六時中何かが出来てしまう。待ち時間にスマホ、歩きながら音楽、家ではパソコン、テレビ。出来てしまうから、やらなきゃ損なような気がする。別に見たいわけじゃないネットニュースを見る。見られらから見る。何もしていないことがどうももったいない感じがするから、親指を動かしたり、耳を忙しくしたりさせる。

多分現代人の大半は寝ている以外で何かをしていない時間がほぼない。古き良きを踏襲すべきとは思わないし、それが時代の流れであると言うなら、そうだ。でも、なんでもない時間を本当に久々に過ごしてみて、悪くなかった。小さい頃の日曜日、朝早くに誰か来るかもしれない公園に1人で行って、誰かをあてどなく待っていた時の気持ちを思い出した。なんでもない時間を過ごしていたあの景色は、今も心象風景として胸の奥に閉じ込められている。

20年後の未来、社会人駆け出しの頃の景色がスマホになってしまうのは、少し寂しい。

なんでもない横浜の景色はスマホよりも何処か良いように映った。

駐輪場で自転車を取ろうとしたら隣の自転車の所有者も時を同じくして自転車を取ろうとしている確率の高さが凄い

僕は、都内も都内23区内に居を構えている独身男性である。つまり、日常の移動は電車と徒歩と自転車が大半を占める。車なんて持てるはずもなく、持つ気もなく、通勤は電車だしその辺の買い物等は自転車で済ましている。

23区内にはきっと同じような境遇の人が多い。そのため、コンビニにしろスーパーにしろ、駐輪場が手厚い。郊外のコンビニが馬鹿でかい駐車場を用意しているように、都内の商業施設は自転車の管理が行き届いているのだ。

「二時間無料 それ以降は一時間ごとに100円」

こんな看板が其処彼処に掲示されている。案外空いていないもので、空き駐輪場を結構探すこととなる。何しろ違法駐輪した時の撤去の早さも凄いのだ。都会は世知辛い

やっとこ見つけた駐輪場。チャリを入れようとすると、後ろから人の気配がする。もしやと思ってさっさとチャリを入れて場所を開けると、隣のチャリの人がすかさず自分のチャリを出していく。

こんなシチュエーションが本当に多い。僕だけだろうか。

逆も然りで、チャリ出そうとすると隣のチャリの人が丁度チャリのところにたどり着いたところだったりすることも多々ある。一つの駐輪場で200は優に停められる駐輪場の隣り合う2つのチャリの主が邂逅する確率を誰かに求めて欲しいものだ。多分平たい確率論を超えて、僕はそのシチュエーションと対峙している。

後ろに着かれるにしろ、後ろに着くにしろ、なんとなく急かし急かされているようで気まずい。回避できないものかなと思うが、どうせ確率の話だからなと諦める。ある種天に愛されているんだと納得して、今日もチャリを走らせる。

NHKの朝の情報番組「おはよう日本」の時報についての考察

敬虔な日本国民の一人として、僕は学生の頃からNHKにお金を納め、より良い番組制作を全力でバックアップする姿勢を取っている。頑ななまで企業名や商品名を紹介しないNHKの「国民みんなの放送局だよ!宣伝しないよ!だからお金納めてね☆」って集金方法に応じて久しい。

さて、たかだか月に数千円の視聴料を払っている程度で何を語れる訳ではないが、どうしても書きたいことがあった。書く。

 

「おはよう日本」

www.nhk.or.jp

 

NHKが誇る朝の情報番組。

早朝4時半から朝ドラまでの時間を大小緩急織り交ぜて様々なニュースを紹介してくれる。なんとなく真面目放送局の印象が拭きれないNHKだが、朝ドラ後の情報番組「あさイチ」と合わせて、フランクな一面を朝に持ってきている。

 

朝の番組に重要な要素として、時報がある。

とにかく忙しい朝の時間、テレビをつけっぱなしにして支度をする僕たちに黙っていても時刻を知らせる機能。

 

おはよう日本の時報は、スゴい。

www.youtube.com

 

Youtubeより拝借。

ざっと聴いていただければお分りいただけるかと思う。時報とジングルの融合である。時ングルとでも言おうか。上手いこと言った。

例えば、朝の番組の横綱的存在、フジテレビ系の「めざましテレビ」では、マスコットキャラクターの「めざまし君」が「6時ぃ!6時ぃぃ!」って怒号を飛ばしてくださる。そこには音階もなければ、リズムもない。ただのケツ叩きである。

しかし、国民みんなの放送局は一味違う。歌う。

僕は7時の時報を聞いて衝撃を受けた。動画だと最後に収録されている。

 

「しちじしちじしっちじ〜〜♪」

 

最初、何かの聞き間違いかと思った。今、めっちゃ7時って言ってた気がする…って翌朝落ち着いて聴いてみると、やっぱりめっちゃ7時って言ってた。試しに検索してみたところ、ほぼ全ての時刻において時刻を連呼している。美声が爽やかなメロディに乗って。

曲の仕組みは簡単で、「おはよう日本」のジングルのメロディに時刻を当てはめているだけだ。しっかしこの時報、拝聴した後のザラザラ感が拭えない。濃いカルピスを飲んだ後の喉のゼロゼロ感のような、いいとも悪いともつかない独特の違和感を残す。

 

おはよう日本の時報がなぜ、僕をザラザラさせるのか。

違和感の出所を探る。

大前提として、情報番組は読んで字のごとく情報を伝えるために存在する。番組ごとの差異を単純化してしまえば、

「情報(伝えたいこと)」を「どう伝えるか(伝え方)」

でしかない。

そんな中、各局様々な番組を放送している。局の差はあれ、同じ日の同じ朝を伝える情報番組たちである。仕入れてくるニュースは大抵横一線だ。

だからこそ、「どう伝えるか(伝え方)」に各局知恵を絞る

まだエンタメ系のニュースであれば、番組ごとに編集の余地が残されているが、政治の話や宮家の話、経済の話になると、情報の純度がだんだん高まってきて、捻りようがなくなってくる。

中でも、最も純度が高い情報の一つが、時刻。

 

そもそも、時報とはなぜ流すのだろう。

考えるまでも無く、時刻を知らせたいからだ。それ以上でも以下でもない。時刻に付随する感情は全てかなぐり捨て、淡々と時刻を知らせたいがための時報である。政治も比較的純度が高い情報だとしたが、仮に豊洲移転問題を考える時、コメンテーターたちがヤンヤヤンヤと口を出す隙がある。

一方、時刻を考えてみてほしい。「7時です」の声にチャチャを入れるコメンテーターがあろうか。まずいない。褒められもできなければ文句もつけられない、剥き出しの高純度情報である。

 

だからこそ時刻の伝え方は難しい。アレンジのしようがない。

 

工夫の余地が非常に少ない中、NHKの技が光っている。

ここで改めて、『情報(伝えたいこと)をどう伝えるか(伝え方)』という構造を用いて、各局どのように時刻を伝えているのかを考えてみたい。

 

おはよう日本

『時刻(伝えたいこと)をジングルで流す(伝え方)』

めざましテレビ

『時刻(伝えたいこと)をめざまし君が叫ぶ(伝え方)』

ZIP

『時刻(伝えたいこと)をメインパーソナリティ等が言う(伝え方)』

あさチャン

『時刻(伝えたいこと)をぐでたまが言う(伝え方)』

グッド!モーニング!

(未確認ですが、どうやらZIPと同じようにパーソナリティが伝えているようである。Google調べ)

 

 

上記の通り、NHKのおはよう日本のみ*1が、果敢に時刻を音楽に乗せて伝えている。事実として動かしようのない高純度の情報をあえてジングルに乗っける試み。

 

COWCOWのあたりまえ体操を思い出して欲しい。

右足を出して 左足出すと 歩けるっ!

うん、そうだよね、歩けるよね。

 

「あたりまえ」。

人々の脳裏に刷り込まれまくり、今更どうこう言う余地の少ない高純度の情報を、大げさにかつメロディに合わせて動くことに面白さを見出した例である。そこまでしなくてもわかってるのに…と言う心情を呼び起こさせる。

NHKも似たようなことをおはよう日本の時報でやったわけだ。「あたりまえ」を「時刻」に変えて、COWCOWがネタとして仕込むようなことを朝の情報番組にぶち込んだのだ。これを挑戦と言わずにどうするか。

 

重ね重ね、良くも悪くも画一的になってしまいがちな情報番組。慣習的な部分で朝の番組を決めている国民が多い中で、4月に大きな番組改編があったNHKが仕掛けた攻めの一つが、あのジングルだろう。

誰もやらないことをやる。特殊な民間企業として保守的になっても不思議じゃないのに、時報という隙間に注目してこれほどまでにザラつかせる気概と技術に舌を巻く。

 

で、結局ザラつかせてどうなんのよって話だが、炎上商法とかっていうザラつきどころじゃないマーケティングが蔓延る昨今である。ある種ザラつかせたもん勝ちだ。炎上だと印象が酷く悪くなってしまうが、多少のザラつきであれば話題を呼ぶ。一度捕まえたらそこからは自力勝負である。天下のNHKが国民をスポンサーとした潤沢な資金で作り出すハイクオリティな番組群が口を開けて待っている。そこに飛び込むか否かは僕ら次第。

少なくとも僕は、「しちじしちじししっちじ〜〜♪」を聴いてからというもの、時間の許す限りNHKに張り付いている。分りやすくNHKの術中にハマってしまった。

 

別にどうってことはないのだが、ザラッと感が心地よくなりだしたから書いた。別に見てとは言わない。

*1:グッド!モーニング!は許して

満腹表裏

満腹は幸せでもあり、苦痛でもある。

雇われの身で、ある程度身分が保証されているため、幸い食いっぱぐれてはいない。小腹が空いたら食べものはあるし、買うこともできる。恵まれている。

空腹からの逃げ道はたくさん用意されているが、満腹は話が違う。吐く以外ない。と言うか吐きたくないから最早手段がない。

ここのところ満腹になることが多かった。「食べな!」と言われたら断れないため、あらゆるものをストマックホールに吸い込み続けた。結果、どことなく胃袋が随時重く、朝起きてもドヨーンとした感じを引きずっていた。

昨夜もめっちゃ食っての本日。あまりの胃袋の重さに辟易し、セルフラマダンを決行した。食べない。お茶しか飲まない。一度胃袋を清算しようと思ったのだ。あんなに重たかった胃が、夕方すぎると「食べてもいいカモ…」って機嫌直すんだから、胃に物を入れない力は凄い。現状復帰が早い。

日中は食わずに首をもたげた食欲のために、夜にたまごスープを飲んだ。至高のうまさだった。

やっとコントロール下に晩飯が入ってきた。たまごスープだけなのでやはり空腹なのだが、満腹に苛まれたことを考えれば心地いい。

明日から平常運転にする。

込み入った文章が書けなくなってくる

息をするように文章書いていると評される昨今。ありがとうございます。細々と長く続けるのは得意分野なようです。毎日毎日鉄板の上で焼かれ続けるように書いているのだけれど、毎日毎日書くことが先決になって込み入った思考ができなくなりつつある。

飲み会とか飲み会とか、例えば飲み会とか、あと飲み会とかのせいで更新できない日というのがまず存在する。それ以外の日は確実に書いていくスタンスであるのだが、考えを寝かせる暇もなく時間はやってくるので、全く記事に根拠も深みもない。ボジョレーヌーヴォーが美味しくない理由がわかる。

2日3日同じことぐるぐる考えて、しっかりまとめてから書き出したほうが余程自分のためになるし読みやすくもなると思うのだが、一度走り出した車輪を止めるのはなかなか難しく、とりあえず今日もこれ書いとくか…みたいな妥協に次ぐ妥協で構成されているのが本ブログだ。採れたてホヤホヤの考えだらけ。

たまに読み返してみると、これもうちょっといい頭で考えてもらったら面白いかもしれないってタネが出てきたりするんだけど、馬群に消えている現状である。


小食に徹すると胃袋が縮むように、インスタントシンキング・インスタントライティングに徹していると、思考が縮む。ありありと感じる。積み重ねがモノを言う勉強は毎日すべきだが、積み重なりもしない発信は毎日する必要あるのかしら。

それでも書くのですが。立ち止まってみたい気もする。

人の特徴に名前が付くのは良しか悪しか

なんとなく怠くて喉が痛くて熱っぽいけどまだ頑張れると気持ちを奮い立たせて仕事をしていたとする。案外人間気合いでなんとかなるもので、多少辛くてもやっていけてしまうのだが、ふとした出来心で熱を測って、38度とかって数字を見てしまうと気持ちの突っ張り棒は虚しく折れる。現実に気合いは弱い。

「熱」という数字は逃げようのない事実だ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

上の記事にも書いたのだけれど、人間は言葉で考える。言葉で通じ合う。すなわち、言葉が事実となる。例えば未知の食べ物(仮にここではミミガーとする)に出会ったとき、僕らはそれに対して何も語ることはできない。「これ」とか「それ」とかっていう代名詞を用いて指差すしかない。しかし一度「ミミガー」と呼ぶものだと知ると、「それ」でしかなかったものは途端に「ミミガー」になる。言葉が世界を形作る好例である。

 

モノを指す名詞が増える分には便利だが、人の特徴を指す名詞が増えると、単純に便利ではなくなってくるように思う。

近年急激に聴くようになった「発達障害」。生きづらさを抱えて生きてきた人がこの言葉を手に入れて、やっと自分の悩みの輪郭が縁取られたと言った話も聞く。多分それは良い影響だ。けど一方で、名詞が増えて流行るということは他人へのレッテル貼りを簡単に許すことでもある。「根暗」と「根明」なんて最たるものだろう。

発達障害」や「アスペルガー症候群」と言った名詞がもたらす影響は、良い影響が多いのか、悪い影響が多いのか、どちらなのだろう。これは巨大な生きづらさに悩まなかった僕みたいな人間が判断できることではない。フォアグラを食べた者しかフォアグラについて語れないように、当事者にしか判断できないことだと思う。

名前がついて理解が進む世界となるか、名前がついて区別が進む世界となるか。前者であるべきだと、発言権は小さいなりに考えている。

「苦しみを糧に」みたいな話は全部成功者の論理だ

日頃購読している日経新聞には「私の履歴書」という、財界人や業界の第一人者が半生を振り返る名物コーナーがある。戦時中の壮絶な経験が自分のルーツにあるとか、幾多の困難をくぐり抜けてきたとか、先頭集団を走ってきた人の生き方・考え方はやっぱり強い。毎日楽しく拝読している。

義務教育、高等教育、大学、社会人と、多くの人が想像しうる道をおざなりなスピードで走って行くと、当たり前のごとく凹凸があり、それを乗り越えたり打ちひしがれたりする。「私の履歴書」に記される波乱万丈もその類である。時代や場所や大きさは異なれど、人生における凸凹という点では同じ種類のものだと思う。

成功者は成功しているから成功者。凸凹を越えまくってきている。他者からの評価も高ければ自己評価も高い。すると、凸凹を振り返った時にどう思うか。「あれは必要不可欠な凸凹だった。」こう思う。もっというと、いじめられっ子が大成した場合とかによく話題に上がる「いじめがあったから」論や、田舎出身の人が語る「田舎に生まれたから」論。こうした感想や振り返りは全部、今、上手く着地できているという裏付けがあるから生まれうる。思い出で美味い酒が飲めるのも記憶が淡く良いものであるからだ。思い出したくない記憶なんて吐き気以外何も催さない。

旨い人生を送り、苦難を良しとするためには、結局のところ成功するしかないのだろう。別にそれは人並み月並みスッポン並みでもいい。ほんのひだまり位の成功や幸福でもいい。

人生のひと時でも上手く生きるのは難しい。成功するのなんてもっと難しい。でもその一瞬、ほんの一瞬でも人生に光が刺せば、それまでの苦悩がひっくり返る。ちょうどオセロに似ているんじゃなかろうか。めっちゃくちゃに黒が並んだ苦渋まみれの人生でも、遠く遠くの白は消えていない。大切な良い思い出は消えない。大連鎖した黒の果てに、たった一つ、ただ一つ白が置かれたその時、黒が全部ひっくり返って白になる。

何も勝ち続けなくとも、一瞬一瞬の勝負を降りさえしなければいつか白が置けるかもしれない。勝つためには勝つまでやる勝負し続けることが大切か。別に一つの種目にこだわらなくても、人生だけは続けていく。いつかどこかの勝負で勝った時、多分過去の苦しみもひっくり返る。そこそこ悪くない思い出に変わる。

続いていけ。止まるな。

言葉のベール

言葉遊びが過ぎると言われた直後であるが、それは褒め言葉だと捉えてもいるし、弱点にも違いない。

「空っぽのコミュニケーション」という言葉を見たのは多分どなたかのブログの記事だったかと思う。挨拶に代表される、具体的内容を伴わない(限りなく少ない)コミュニケーションは、全く無駄ではなくむしろ円滑な人間関係を促進している…みたいな話だった。確証は持てない。電通社員のカラオケやべぇって記事も同時期に出ていて、なるほど空っぽのコミュニケーションとはこういうものかと納得したものだった。


なんの本質にも触れない言葉の安心感はすごい。腹を割って話すって言葉の対義語にも相応しいであろう空っぽのコミュニケーション。僕も好きである。得意かどうかはさておいて。確かなことは、圧倒的に滑らかに喋ることができるのは中身が伴わないときであるということだ。

言葉でコミュニケーションを取る僕たちは、言葉によって喜び傷つく。愛や恋を語るも言葉、憎悪や敵意を伝えるも言葉。言葉がなければ人間ではない。ただのヒトとヒトだ。

だから腹を割るにも言葉。しかし、空っぽのコミュニケーションが心地いい間は腹の底なんてマリアナ海溝のそのまた向こうである。一生懸命深いところに潜ろうとしても、水圧にヤラれてどんどん舌は重くなり、息は苦しくなる。

あれ、もしかしたら俺なんも考えてなかったんじゃねーか。喋れない。言葉が出てこない。なんていうかさぁ、難しいよね、なんていうか…

ラインをなんて返そうか迷っているような、親指が空中浮遊しているような、そんな感じで間を埋めるだけの音を発して、心の底のことなんてなんも出てこない。


不意にMr.Children箒星の歌詞が浮かんだ。

最近ストレッチを怠っているからかなぁ

上手く開けないんだ 心が 照れ臭くて

慣れない筋肉がうまく使えないように、閉ざされっぱなしの扉はなかなか開かない。慣れない言葉も喋れるわけがなかった。

上辺の上辺でお話を回すのにはある程度慣れた。だからもう数メートル、潜ってみなきゃいけない。最初は苦しいだろうけど、どうせすぐ慣れると信じている。

僕自身も知らない僕を語りたい。喋って気がつく自分に出会いたい。