徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

BiSHの幕張メッセ公演の映像を見て思ったこと

去る7月22日、敬愛するBiSHが幕張メッセワンマンを敢行した。キャパ7000人。sold out。そこそこな地方自治体一個分の人口が集った。BiSHを観るために。先だって発売されたミニアルバム「GiANT KiLLERS」の楽曲を核として、往年の曲も交えての公演。遠くから、仏様のように成功を祈っていた、しがない清掃員が僕です。

www.bish.tokyo

さて、すでにavexの公式アカウントからYouTubeにライブ映像が上がっている。早速拝聴した。ここ1年で指数関数的に動員数を増やしてきた彼女たち。共に歩んできた清掃員たちの熱帯雨林の如きジメッとした熱気が画面を通しても存分に伝わってきた。野音の時は被せまくってた歌唱だったが、今や被せもなくなった。BiSHの成長も本当に著しいものがある。

www.youtube.com

BiSHには振付師がいない。アイナ・ジ・エンドが振り付けを考える。他のアイドルの振り付け事情をよく把握していないのだが、BiSHを観て、振付師の存在がどれだけ偉大かを感じた。確かに、アイナは踊れる。6人の中ではぶっちぎりである。しかし振り付けを考えるとなるとまた別で、プロの振付師のそれには及ばない。

GiANT KiLLERSのライブ映像を見ただけだが、幕張メッセのステージがとても広く見えた。6人が懸命に踊るステージ。もっとスペースが使えるんじゃないか。もっと広く大きく踊っていいんじゃないか。せいぜいマツケンサンバくらいしか踊れない男が何をいうかと言われればそれまでだが、踊りの空白を感じた。多分、彼女らのダンスは総合してみて、上手い方ではないのだと思う。アイドルのそれとしては。

しかし、これはネガティヴな話ではない。

清掃員がステージ上の空白を埋めていた。それで成り立っていた。それが成り立っていた。

ものすごく踊りやすい振り付けをみんなで踊り、わかりやすくコールしてねって用意された間奏で狂ったようにうりゃおいする。タイガーファイヤーサイバーする。小さなキャパの会場ではなく、幕張で。オーディエンスまで含めて一つの作品であった。

楽器を持たないパンクバンドとしてあり続ける彼女らに必要なのはダンスのテクニックでも可愛さでもなく、気持ちなのだろう。世の中への不平不満。それを松隈氏のエモったらしい曲に乗せて叫ぶ。踊る。清掃員はBiSHにカタルシスを感じて叫ぶ。踊る。脳みそストップしながら、脊髄からの命令に従って。ドーパミンを出している最中、彼らはBiSHを見ているようでBiSHを見ていない。自分自身と向き合っている。日頃の不平不満を一挙手一投足に込めて散らしている。アイドルが偶像となりファンが崇拝する形ではありえないライブだろう。それこそまるでパンクバンドのライブだ。

ファンとアーティスト、お互いがお互いの触媒となっている今のBiSH界隈。しばらくはどうやったって燃え続けるのではないかと思う。燃えろ燃えろと思う。ほどほどに薪を焚べながら。

 

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パソコンまじ分かんないやばい

カテゴリー分けして、グローバルメニューってのを作ろうとした。作った。グーグル先生が教えてくれたサイトを散歩して、わからないなりに一生懸命たどり着くところが、1合目にもたどり着けてない気がして辛い。

HTMLとCSS。どちらもパソコンの言葉であることはわかる。生粋の日本人、日本語のモノリンガルである僕は英語もわからなければパソコンの言葉もわからない。

英語なんか言語なんだ。やれば誰だってできるようになる。

いつだか東進ハイスクールのCMで流れまくった一節。たかがされど言語。やらなきゃ誰だってできるようにはならない。しかし、誰だってできるようになることをできるようになると、それなりのペイバックはいただける。英語一本では食っていけないが、英語とコミュ力くらいな組み合わせであれば十分に戦力になりうる。そこにパソコン言語も加わってみろ。途端にハイスペックマンの出来上がりだ。

ウェブデザインの門の前に佇んでいるだけなのに、その奥の広大な世界と門をこじ開けるための苦労がひしひしと伝わってくる。何が解れば門が開くのかわからないし、そもそも門なのか壁なのかすらも疑念が湧いてくる。

iMacを買った時の気持ちを思い出せ。あの時の勢いは多少の壁の前でうなだれるようなものではなかったはずだ。

先は長いが歩こうと思う。

以下は今日作った曲である。iMacの爪の垢くらいは引き出せているだろうか。どうだろうか。

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ホワイト企業に勤めているけれど

僕が働いている会社はホワイト企業である。一部上場の責任に追われてかもしれないが、残業代がつかないことはないし、つけない判断をした際には叱責が飛ぶ。エレベーターの脇っちょには、不払い労働はやめよう!というポスターがペタペタと貼られている。あからさまに組合が強く、労使交渉で業績が多少悪くても前年同様の給与をぶんどってきたりもする。年の規定残業時間も決まっており、それ以上働こうもんならしょっぴかれる。

対して、他の会社における激務のお話はそこら中に飛び交っている。働き方改革、働き方改革と念仏を唱えるのは簡単だが、実際のところ大きなテコ入れがされているのかは疑問だ。僕が年間で行う残業をひと月で悠々クリアするサラリーマンが多くいる。仕事に溺れてもがいた両手にお金が付いてくる人もいれば、定額賃金で溺れ放題という決死の労働環境も散見されるようだ。

ではうちの会社が模範的な働き方かというと、全くそういうわけではない。そもそも全く儲かる体質の商売ではなかったようで、売れてた時は良かったけどみんながそっぽ向き出したら所でいよいよ苦しくなった。売上規模が下がってきた結果、生産性を保つためには残業代を抑えなければならない。仕方なしのホワイト企業だ。穴の空いた桶に水を溜め続けるためには穴を塞ぐかぶっちぎりの水量を注ぎ込むか。供給水量が減ってるから穴塞ごうぜ!って話である。

残業やめよう活動の本質ってそこじゃなくて、供給水量を増やした結果としてもたらされるべきだろう。盲目的な止血じゃなく、最小限の人と時間で最大限の売り上げを作るための工夫を施して、生産性があがって労働時間が減る。しかしそもそもの儲けが減ってる時に工夫しようったって原資もないわけで、極端な話次の追い風を待つしかないジリ貧に追い込まれる。止血が目的になっていく。

言うが易しで、ペーペーが出来ることなんてたかが知れている。工夫の余地を遠目に見ながら、薄給を理由に特に対策も打たないままなんとなく日々を過ごす。ぬるま湯は心地いいがいつかは湯も冷める。水になったと気付いた時には手遅れである。

風邪ひかないようにしていきたい。

記事のカテゴリー分けをしている

このブログをどうかしようと思っているんだけど、その第一歩としてまず記事をカテゴライズしてみようとした。している。

分類が好きだ。数学の成績はからっきしだったが、因数分解は好きだった。共通項を括る作業は苦にならなかった。因数分解が関数を解くための道具でしかなかったと気づいたあたりで、数学戦線から離脱してしまった。

自分の文章をいくつかに分類する作業。結局のところ、色々な記事にアクセスしやすくしてあげたいというのが狙いである。自分でさえ忘れているものがゴマンとある。それらの掘り起こしをしたい。あと、なんとなく見やすくできればとも考えている。6つくらいのカテゴリに分けたいなぁと漠然と考えながら作業に取り組んでいるがしかし、びっくりするくらい取り留めがないために分けようがなくなってしまっている。ほとんどが気合いの入っている記事と気合いの入っていない記事の二択だ。こんなんじゃ全く回遊性が良くなる気配がない。

その上、記事が多い。手付かずの状態で8月31日を迎えた気持ちといえばわかりやすいだろうか。こんなんだったら100記事くらいの時から計画的にカテゴライズすべきだった。8倍にも膨れた今のブログでは、どうにも収集がつかなくなってしまっている。どこから手を付けるべきか、どこから捌くべきか。ちなみに北海道は夏休みが短いので8月31日に特別な感慨はない。

やっとデス繁忙期を抜けたので、多少落ち着いてその他の諸々へ時間を割けそうな雰囲気かある。相変わらず時間はないのだが、やれるところからやれることをやっていきたい。ひとまずカテゴライズ。まじで終わらん。

電車で寝るようになった

ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれることはなかったが、ちっちゃな頃から公共交通機関で寝るのが下手くそだった。もっとも、北海道民は自家用車さえあればイスカンダルの彼方まで飛んでいけてしまう人種なので、公共交通機関に大して乗ることもなかったのだが。

東京に来てみて、線路にがんじがらめの土地柄を知り、電車があればどこにでも行けると学んだ。しかし電車で寝ることは殆どなかった。大酩酊の末とかは例外として、きちんと乗って、特に眠くはないけど座ったらスーッと入眠したとかってシチュエーションはなかった。

ここ最近、通勤特に帰宅時に寝ることが増えている。どうしようもない眠気が襲ってくるようになった。足から腰から目から、宵闇のごとく染み出す眠気に抗うすべもなく立ち向かう姿勢だけ見せてスマホ片手にヘッドバンキングを繰り返したのち、スマホが滑り落ちそうになって反射的に起きる。そしてまた寝る。良くいるサラリーマンをしている。ちっちゃな頃、飛行機に乗っても決して寝なかった男の成れの果てとは思えない。北海道から本州のフライト、約二時間もの時間を「安全のしおり」の熟読に費やして終えた人間が聞いて呆れる。

活字よりもスマホよりも睡眠を欲しているならくれてやろうと思う。酒に覚醒を強いられる日々の暇に、のんびりでもしてやろう。

賭けるものと面白さ

白井健三。ひねり王子と呼ばれ、押しも押されぬスーパーな体操選手である。彼の空中のめちゃくちゃな動きに日本がざわめく。あの回転、すげー難しいんだろう。想像に難くない。

あれに日本が湧くのは何故か。それは着地しているからだ。
今、スカイダイブして、キリモミ回転しろと言われたら比較的容易いだろう。白井健三も顔負けの回転を見せて、散る。白井健三の凄さは着地できる程度かつ最高に難しいひねりを入れている点だ。と、素人は思う。
人生もキリモミ回転だ。ぐるんぐるん回りながら落ちて行く。度々踊り場に出会い、仮着地をしながら死ぬまで落ちていく。度々の踊り場でそこそこの着地を見せられれば、それまでのキリモミ回転は幸せだ。ファインプレーになる。さりげなく大転倒していても、立て直して今平然としているのであればそれもよし。
たかだかこれまでの人生だが、同年代でもいろんな回転をして今に至っている。面白い回転の仕方をして、怪我しながらでも元気に今もなお落っこちている人は面白い。魅力的だ。なんとなく、この人の人生には勝てないと察する。
悲しみの果てに何があるかなんて
僕は知らない 見たこともない
エレファントカシマシが歌う。悲しみの果ての着地は面白さを生む。教えてあげたい。

汗燥文

殆ど夏ような空が広がる。ただ宣言をしていないだけで梅雨は明けているのではなかろうか。気象庁と天候の駆け引きはさながら恋のようで、さっさと梅雨明け宣言しちまえよ!とけしかけてやりたくなる。えぇー、まだいいよ…本当に明けてるかわかんないだろう?って尻込みする気象庁がいじらしい。

お役所と空は付かず離れずかもしれないが、僕の肌とシャツはベタベタのバカップルである。恋のキューピッドは汗。主たる僕の意見を全く聞かずに肌とシャツの間を取持ち、望むべくもない婚姻関係を結ばせている。おかげで僕の肌着のラインは切なくなるほど露わになっている。哀しいかなそこに色気はなく、連休をとって旅行に出ているらしき観光客との都合のいい対象物として駅のホームに佇むばかり。すこし猫背で前のめりになりながら親指を忙しなくさせる姿は艶美ではなく憐憫だ。

一心不乱猪突猛進にホームへ突っ込んできた電車の中は既視感のある姿をした青年中年壮年が詰め込まれている。理科の教科書の分子構造を思い出す。水素と水素の引き合い、プラスとマイナスの引き合い。ぎゅうぎゅうの彼らはなにを持って結合しているのやら。パッと開いたドアからカマキリの子供のように吹き出す彼らをみて、大して結合が強くなかったことを知る。空いたスペースにいそいそと僕も入る。車内で繰り広げられる椅子取りゲームへの参加権を掴めないまま、つり革を掴む。たまに差し込む冷房のおかげで肌とシャツは徐々に疎遠になっていく。むしろ車内の方が快適だ。狂気の沙汰と思われた日差しも車内からだとさも美しく世を照らす。通過する駅には撮り鉄が構えており、電車を撮影する。日差しに美化された撮り鉄。この乗り物はそんなに魅力的ですか。確かに乗り心地は今悪くないです。

乗り入れのおかげで上りが下りに変わり、車内は空いた。いつもの駅に着く。さっきはカマキリの子供くらいの勢いがあった降車風景だったが、今やハムスターのフンだ。ぽとりと駅に落とされる。日差しが再び牙を剥く。噛み付かれた傷から吹き出す汗。肌とシャツのランデブーがまた始まる。

後ろで走り出した電車は薄着とスーツケース達を避暑地へと運んでいく。僕は冷房室内という人工的な避暑地へ向かう。しかし、ただの避暑地ではない。戦地でもある。手を替え品を替え爆弾の雨が降る。

熱気が原因ではない、また別の汗を滴らせて走る。どちらにせよ、美しい姿ではなかった。

込み入った文章が書けなくなってきているPart2

全ての道はローマへ通ず。山道だって、登山道は違えど頂は一緒。四方山の諸々はたいていいくつかの真理に収斂していく。世界各地で似たような諺があるのも、諸事がパターン化できてしまうからだ。

ブログを書く中で、僕はどうしても一本道を作りたがる。Aという事象をA'と一般化し、BもCもA'で括れちゃうよね!って話をしたがる。根気良く3個くらい記事読んでいただくとわかる。だいたいどれもこれもそんな感じだ。一本線を引いて、これも似てるこれも似てる!ってやる行為。繰り返し続けるとどうなるって、たくさんの線を引けなくなる。どういうことか。AとBとCとDと…ってたくさんの事象を挙げて、そこからΩを抽出しましょう。という考え方ができなくなる。苦手になる。

日頃自分が考えられる程度のことしか考えないからこうなってくんだなぁと痛感する。まじ痛い。大怪我。毎度転んで、考える意志を硬くして、気づけばまた書いてしかいなくなるのはわかっているんだ。そろそろやめねばと。思うが易し。

親父の大学の同級生たちと酒を飲むたびに感じること

親父と僕は40年の歳の差がある。親父が40年前に通ったところを今僕が通過している。翻って、僕の40年後をひた走っているのが親父である。

諸般の事情で親父が昨日東京にやって来た。彼は東京の大学を出ているのでこちらにも友人が多い。年に一回、ふらっと東京に来て旧友たちとの親睦をなぞっては、さっと北海道に引っ込む。息子も東京で働いているので、数年前からその付き合いに間借りさせてもらっている。親父の大学の同級生with息子。40年前と40年後のバックトゥザ・フューチャー。

40年というのはまずまず長い年月で、たいていの元号が変わったり景気が4回くらい浮き沈んだりする。もっと個人にフォーカスすると、子供ができて孫ができたり、死にかけてから息を吹き返したり、富豪が無一文になって這い上がったり、その程度のドラマであれば幾らでも紡げてしまう。

十人十色の脚本を突き進んで来た40年後が、40年前の話で盛り上がる姿を年に一回目の当たりにする。その度、なんて幸せなのかと思う。

俺もこうなりたい。40年後に今の話を昨日のことのように話したい。なんとなく人生が踊り場にさしかかり落ち着きつつあるころ、今を振り返りたい。と同時に、40年間クソほど気合入れて生きなきゃならんなと思う。人並みの幸せを手に入れるのにどれだけ頑張ればいいのか。野球みたいなものだろう。10割打とうとして3割しか打てなくて、それでも超一流。これからの40年も全部フルパワーでぶっ込んで、3割やそこらの結実だと思う。その3割が40年後の踊り場を生む。徐行運転で辿り着こうなんてナメた考えだと簡単に踏み外すだろう。3割打者を目指したりしたら1分も打てない。全部打つ気、全部勝つ気だ。

つって、本日も頭を下げる。垂らした頭が僕のフルスイングである。見てろ40年後。

「結論から話してください」と伊勢正三の相入れなさはどうかしている

端的に。端的に。結論から。結論から。

上司も暇ではない。限りある時間を有意義に使うことがやはり昨今の働き方改革を率先垂範するためには不可欠である。要点を押さえ、かつ、冗長な情報を削ぎ落としたソリッドな言葉で報連相。核心だけを掴む難しさをここのところ非常に強く感じている。

そんな中、心の音楽「風」を聴いた。風については散々他の記事でも書いているので、そちらを参照されたい。端的に言うと、元かぐや姫伊勢正三の作詞作曲力と歌唱力が全盛だった頃のフォークデュオである。大好き。

 

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北国列車という曲がある。

ぼくが君を追いかけてる夢から目覚めた時は

汽車は夜を走りつづけ朝の駅へついたところ

君を忘れるため 長い旅に出て

旅の終わりにこの街を選んだ

去年の今頃汽車に乗り 二人で旅した北国の

あの雪の白さが何故か忘れられずに

Emという、フォークならではのコードの上で繰り広げられるメロディには郷愁と寂寞の念が溢れる。

ぼくの他には後少しの人を降ろしただけで

汽車はすぐにまだ暗い朝に消えて行った

思い切り背伸びをした 薄暗い空に

君の星座がまだ光ってる

君の生まれたあの星が こんなにきれいに輝いて

君と暮らした東京では 見たことなかったけれど

この、君の星座のくだりこそフォークだ。フォークが何だかよくわかっていないが、フォークのエッセンスが濃縮還元されていると感じる。

君を忘れようとして、君の影から逃げるように乗った汽車。しかし、結局足が向かうのは二人で旅をした北国。雪の白さが忘れられなくて、結局君のことが忘れられなくて、でも君はいない。そんなぼくを見下ろす空の星座。君の星座。

どうしてくれようかと思う。このいじらしいほどに未練たらたらで情けない男の姿をどうしてくれよう。殆ど出来事を朴訥と紡いでいる歌詞だし、正やんも淡々と歌ってるだけなのだけれど、猛烈に感情を揺さぶられる。

 

しかし、殺伐とした気持ちで歌詞を見てみると、これは確実に上司に叱られる文章だ。

で?結論から話してもらっていいですか。

猛烈に詰められる光景がありありと浮かぶ。怖い。ひぃぃぃ…やめてくださいもう一回練り直してくるんでもう公衆の面前でマウント取ってボッコボコにするのは勘弁してください。端的に話そう話そうと緊張した挙句激カミして日本語が喋れなくなるんで。怖い怖い。

核心をつかもう、核心をつかもうと、日々頭を働かせていると、次第に脳みその容量に遊びがなくなってくる。不意に北国列車を聴いて、歌詞を噛み締めた。へ?こいつ何言ってんの?結局何が言いたいの?こんな気持ちが一瞬浮かんだ。戦慄した。なんてことのない言葉の並びから情景を類推する楽しみを忘れかけていた。通勤中風をローテーションして、なんとかかんとか凝り固まりをほぐし、やっとこさ文章を書いている。

やっぱり含みって大事だよなと思いながら、うまくオンオフスイッチを使い分けてやっていければいいと、心底思った。

よかったらまじで風も聴いてみたらいいと思う。

 

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