徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

西友 LIVIN錦糸町店。トイレットペーパー。実質値上げに技術の進歩を見る。

わが町錦糸町にはみんな大好きスーパーマーケット西友がある。歴史深い商業施設である楽天地の地下に入っている。安定した安価を実現してくれており、八百屋まで行く元気ないけど家に何もない緊急事態に対応してくれて憚らない。助かっている。そんな「西友 LIVIN錦糸町店」もこの10月で改装に向け閉店だということで、一抹の寂寞が胸に去来したりしなかったりらじばんだり。

さて、西友にはプライベートブランドがある。「みなさまのお墨付き」と「きほんのき」。「みなさまのお墨付き」は比較的有名ではなかろうか。定期的に消費者テストを行い、合格ラインに達しなかったものに関しては商品を見直す。安価ながら品質も良く、消費者の味方になってくれている。一方の「きほんのき」はさらに安価なのだが、品質は確実に落ちる。ハンドソープであれば洗えればいいんでしょ?泡だてばいいんでしょ?って最低限の機能だけを搭載した商品だ。想像の斜め上をいく安かろう悪かろうなので、本当にこだわりがないものだけ「きほんのき」で済ませている。掃除のコロコロとか。クイックルワイパー的なあれとか。

先日購入した「きほんのき」のトイレットペーパー。トイレットペーパーなんてどうせ水に流すんだから品質なんかどうでもいいってことで、「きほんのき」を使っている。いつもと変わらない安価で12ロールがハイスペックなロケットランチャーのようにゴツくも整然と並んでいた。いつものように買って、いつものようにトイレットペーパーがなくなって、いつものように付け替えた。

不意にトイレットペーパーを引っ張った時、どうも普段の感触と違った。薄いのである。ちょっと薄いとか、そういう話ではない。引っ張るとトイレットペーパーホルダーの上蓋の重さに負けてすぐ切れる。多分数グラムの重さにさえ耐えられないほど薄くなってしまっていた。文句を言うつもりはない。毛頭ない。何が欲しいって安価なトイレットペーパーが欲しいわけで、安価で品質の良いトイレットペーパーを求めて「きほんのき」を買っているわけではないからだ。それに別に重ねりゃ破れないし、なんなら貧乏根性でめっちゃ折って使うから問題ないっちゃない。むしろ、何したらここまで薄くできんのよって感嘆の気持ちがある。和紙をすごーく薄く梳く職人が取り上げられたりするが、利益を重視した結果そういった職人技の域まで技術が昇華されたんじゃないかとすら思う。まじで薄い。

野菜が不作で、同じ値段でも個数が減ってたり小さくなってたりって話は聞くが、トイレットペーパーを薄くするって発想が白眉だ。なんなら技術上がってるんでないっすか。

これからはおそらくあの薄さがスタンダードになるので、ぜひお近くに西友があるご家庭の方は一度買い求めたみるといいと思う。技術の粋を感じられる。無論、ウォシュレットには完全非対応なので、注意されたい。

ビジネスの創作と魂の浪費

この間、高校の同級生が泊まりに来た。彼とは幼稚園からの付き合いだ。大学院まで英米文学を突き詰め、今は田舎で教鞭を取っている。彼は読むのも書くのも好きで、かつてはノーベル文学賞を取ると言って憚らなかった。今その夢はどこにあるのか、彼にしかわからない。でも、すごく書きたいって言ってた。書けばいいと思うし、読みたいとも思う。

さておき、得てして創作にはエネルギーが必要だよねって話をした。これには誰もが納得するところだと思う。以前、ロックスターは統計的に見ても早世するといった記事がネットニュースに上がっていた。リンキン・パークのべニントン然り。人生がろうそくだとして、人の何倍もの火力で人生の蝋を溶かしまくって燃え尽きていくイメージをするとすごく分かりやすい。それだけ、創り続けるには命の火力が必要だし、むしろ人並みはずれた火力をもつ者のみが創作者たり得るんだろう。

このような生粋の創作者とは別に、ビジネス創作者もまた存在する。例えば大川隆法なんて、2000冊を超える著作がある。渾身の力を振り絞ってたら命がいくつあっても足りない量である。ここまでの例は極端であるにしろ、つんく♂秋元康小室哲哉などのプロデュースと楽曲提供を生業としている人たちは、多分だけれど創作に命を燃やしてはいない。いくつもいくつものプロットをストックしていて、それらを組み替えたり入れ替えたりしながら、数多の作品を創る。作業っちゃ作業だろう。

彼との話の中では、やはり命を燃やし尽くす創作こそ創作だろうなと結論した。言葉や音楽に魂をぶつけて散っていった先人達をみると、ある種早世こそが表現者だとすら思う。感情ど真ん中ストレートを表現するのは本当に辛い。苦しい。批評なんかされた日には生きていられない。人生を批評されているようなものである。思春期のころ誰でも一度はやるであろう生暖かいポエム執筆。あれこそど真ん中ストレートで、大抵は見せるに耐えない代物となり記憶の彼方に葬られていくが、一部、本当に一部の人だけ、むき出しが受け入れられる。受け入れられてしまう。心の擦り切れが商業ベースに乗った瞬間、スターが誕生する。そして燃え尽きるまでのカウントダウンが始まる。ポストロックのような凝った表現じゃなく、社会や市場のテーブルにポッカリ空いてた穴にすぽっと入っていって、それっきりである。

ある種、物理的に生き残っているアーティストの中に激情型なんていないのだろう。感情とある程度友好な関係を気付きながら、うまく創っている。一度は命をすり減らしながら、燃え尽きないために距離の取り方を学んでいくのだ。言いたいことを言えた気がしても、結局感情の遥か手前をウロウロしているだけだったりする。彼が文学賞をとるとして、どんな文章で取るのだろうか。どんな文章を書いていくのだろうか。燃やし尽くした文章を読みたい。毎日ブログを書くみたいなロングブレスダイエットではなく、大爆発で全部酸素をなくしてしまってほしい。

応援している。

帯状疱疹を発症した

なにやらここのところ左半身の皮膚がピリピリしていた。気のせいだと言い聞かせながらポイポイポイポイと日常をぶん回していたが、昨晩ピリピリで目が覚めてからというもの、どうしても左半身が気になり、どう考えてもニキビではない吹き出物が散見され出したのとリンパが腫れたのとで恐怖を感じたため、病院に駆け込んだ。帯状疱疹と言われた。神経がどうかなって疱疹が出る仕組みだという。僕の場合は胴体の方と下肢の方の二箇所の神経がどうかなってるらしい。「今ヘラヘラできる神経を疑う」と、他人以上友人未満の人にかつて言われたことがあるが、確かに神経を疑うべきだった。原因はストレスと疲れ。疾患原因打線の三番と四番を担うであろう二者が僕の身体を蝕んだらしい。昨今の原因探しはストレスと疲れ一辺倒過ぎやしないか。ストレスと疲れですね!と言われれば、誰でも心当たりあるじゃん。みんなそうですね…って気持ちになるじゃん。僕もそうですね…疲れてたかもしれないですね…ってなった。そんなヤワじゃないと突っぱねる力はなかった。お酒は一週間くらい控えろと言われ、運動も差し控えろと言われ、風呂もダメだと言われた。動きたくもないしシャワーで結構だが酒はどうだ。酒は…と思う先から左半身がピリピリピリピリしている。発電でもしてんのかよ。東電に売りつけてやる。とりあえず少なくともここ3日くらいは品行方正をモットーとして生きていきたい。しかし医師はまだまだ発疹広がるよ!と、やけにご機嫌な口調で教えてくれた。まだ股関節からわき腹にかけてのピリピリだが、これがしばらくするとお尻から太もも、腹部にまで広がってくるらしい。注射はしてくれたものの、すぐ効くわけじゃないからね〜とごもっともなお言葉を下さった。おっしゃる通りでしょう。帯状疱疹と病名がついてから、途端に余計具合悪くなってきた気がする。熱っぽいっちゃ熱っぽい。つーかピリピリする。ピリピリが止まらない。高温多湿のアスファルト砂漠も絶対良くない。服を脱ぎ捨てて草原を吹き抜ける爽やかな風にでも吹かれたいと思う。肌に触れるものを極力減らしたい。スーツなんてもってのほかだ。ベルトも苦しい。締め付けないで。ピリピリしてるから、今。可愛い体調不良をいくつもやってきているからわかるが、これもいつかは思い出だ。ピリピリしてたなぁ。痒かったなぁ。その域まで持っていくのにあと幾ばくの時間がかかろうか。さっさと治すに限る。医師からはキマりそうな錠剤をたくさんもらった。飲み切る使命を仰せつかった。ヤク漬けである。大いに結構。まだまだ忙しい。戦線から退場する方針は立てられないのである。

BiSHの幕張メッセ公演の映像を見て思ったこと

去る7月22日、敬愛するBiSHが幕張メッセワンマンを敢行した。キャパ7000人。sold out。そこそこな地方自治体一個分の人口が集った。BiSHを観るために。先だって発売されたミニアルバム「GiANT KiLLERS」の楽曲を核として、往年の曲も交えての公演。遠くから、仏様のように成功を祈っていた、しがない清掃員が僕です。

www.bish.tokyo

さて、すでにavexの公式アカウントからYouTubeにライブ映像が上がっている。早速拝聴した。ここ1年で指数関数的に動員数を増やしてきた彼女たち。共に歩んできた清掃員たちの熱帯雨林の如きジメッとした熱気が画面を通しても存分に伝わってきた。野音の時は被せまくってた歌唱だったが、今や被せもなくなった。BiSHの成長も本当に著しいものがある。

www.youtube.com

BiSHには振付師がいない。アイナ・ジ・エンドが振り付けを考える。他のアイドルの振り付け事情をよく把握していないのだが、BiSHを観て、振付師の存在がどれだけ偉大かを感じた。確かに、アイナは踊れる。6人の中ではぶっちぎりである。しかし振り付けを考えるとなるとまた別で、プロの振付師のそれには及ばない。

GiANT KiLLERSのライブ映像を見ただけだが、幕張メッセのステージがとても広く見えた。6人が懸命に踊るステージ。もっとスペースが使えるんじゃないか。もっと広く大きく踊っていいんじゃないか。せいぜいマツケンサンバくらいしか踊れない男が何をいうかと言われればそれまでだが、踊りの空白を感じた。多分、彼女らのダンスは総合してみて、上手い方ではないのだと思う。アイドルのそれとしては。

しかし、これはネガティヴな話ではない。

清掃員がステージ上の空白を埋めていた。それで成り立っていた。それが成り立っていた。

ものすごく踊りやすい振り付けをみんなで踊り、わかりやすくコールしてねって用意された間奏で狂ったようにうりゃおいする。タイガーファイヤーサイバーする。小さなキャパの会場ではなく、幕張で。オーディエンスまで含めて一つの作品であった。

楽器を持たないパンクバンドとしてあり続ける彼女らに必要なのはダンスのテクニックでも可愛さでもなく、気持ちなのだろう。世の中への不平不満。それを松隈氏のエモったらしい曲に乗せて叫ぶ。踊る。清掃員はBiSHにカタルシスを感じて叫ぶ。踊る。脳みそストップしながら、脊髄からの命令に従って。ドーパミンを出している最中、彼らはBiSHを見ているようでBiSHを見ていない。自分自身と向き合っている。日頃の不平不満を一挙手一投足に込めて散らしている。アイドルが偶像となりファンが崇拝する形ではありえないライブだろう。それこそまるでパンクバンドのライブだ。

ファンとアーティスト、お互いがお互いの触媒となっている今のBiSH界隈。しばらくはどうやったって燃え続けるのではないかと思う。燃えろ燃えろと思う。ほどほどに薪を焚べながら。

 

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パソコンまじ分かんないやばい

カテゴリー分けして、グローバルメニューってのを作ろうとした。作った。グーグル先生が教えてくれたサイトを散歩して、わからないなりに一生懸命たどり着くところが、1合目にもたどり着けてない気がして辛い。

HTMLとCSS。どちらもパソコンの言葉であることはわかる。生粋の日本人、日本語のモノリンガルである僕は英語もわからなければパソコンの言葉もわからない。

英語なんか言語なんだ。やれば誰だってできるようになる。

いつだか東進ハイスクールのCMで流れまくった一節。たかがされど言語。やらなきゃ誰だってできるようにはならない。しかし、誰だってできるようになることをできるようになると、それなりのペイバックはいただける。英語一本では食っていけないが、英語とコミュ力くらいな組み合わせであれば十分に戦力になりうる。そこにパソコン言語も加わってみろ。途端にハイスペックマンの出来上がりだ。

ウェブデザインの門の前に佇んでいるだけなのに、その奥の広大な世界と門をこじ開けるための苦労がひしひしと伝わってくる。何が解れば門が開くのかわからないし、そもそも門なのか壁なのかすらも疑念が湧いてくる。

iMacを買った時の気持ちを思い出せ。あの時の勢いは多少の壁の前でうなだれるようなものではなかったはずだ。

先は長いが歩こうと思う。

以下は今日作った曲である。iMacの爪の垢くらいは引き出せているだろうか。どうだろうか。

www.youtube.com

ホワイト企業に勤めているけれど

僕が働いている会社はホワイト企業である。一部上場の責任に追われてかもしれないが、残業代がつかないことはないし、つけない判断をした際には叱責が飛ぶ。エレベーターの脇っちょには、不払い労働はやめよう!というポスターがペタペタと貼られている。あからさまに組合が強く、労使交渉で業績が多少悪くても前年同様の給与をぶんどってきたりもする。年の規定残業時間も決まっており、それ以上働こうもんならしょっぴかれる。

対して、他の会社における激務のお話はそこら中に飛び交っている。働き方改革、働き方改革と念仏を唱えるのは簡単だが、実際のところ大きなテコ入れがされているのかは疑問だ。僕が年間で行う残業をひと月で悠々クリアするサラリーマンが多くいる。仕事に溺れてもがいた両手にお金が付いてくる人もいれば、定額賃金で溺れ放題という決死の労働環境も散見されるようだ。

ではうちの会社が模範的な働き方かというと、全くそういうわけではない。そもそも全く儲かる体質の商売ではなかったようで、売れてた時は良かったけどみんながそっぽ向き出したら所でいよいよ苦しくなった。売上規模が下がってきた結果、生産性を保つためには残業代を抑えなければならない。仕方なしのホワイト企業だ。穴の空いた桶に水を溜め続けるためには穴を塞ぐかぶっちぎりの水量を注ぎ込むか。供給水量が減ってるから穴塞ごうぜ!って話である。

残業やめよう活動の本質ってそこじゃなくて、供給水量を増やした結果としてもたらされるべきだろう。盲目的な止血じゃなく、最小限の人と時間で最大限の売り上げを作るための工夫を施して、生産性があがって労働時間が減る。しかしそもそもの儲けが減ってる時に工夫しようったって原資もないわけで、極端な話次の追い風を待つしかないジリ貧に追い込まれる。止血が目的になっていく。

言うが易しで、ペーペーが出来ることなんてたかが知れている。工夫の余地を遠目に見ながら、薄給を理由に特に対策も打たないままなんとなく日々を過ごす。ぬるま湯は心地いいがいつかは湯も冷める。水になったと気付いた時には手遅れである。

風邪ひかないようにしていきたい。

記事のカテゴリー分けをしている

このブログをどうかしようと思っているんだけど、その第一歩としてまず記事をカテゴライズしてみようとした。している。

分類が好きだ。数学の成績はからっきしだったが、因数分解は好きだった。共通項を括る作業は苦にならなかった。因数分解が関数を解くための道具でしかなかったと気づいたあたりで、数学戦線から離脱してしまった。

自分の文章をいくつかに分類する作業。結局のところ、色々な記事にアクセスしやすくしてあげたいというのが狙いである。自分でさえ忘れているものがゴマンとある。それらの掘り起こしをしたい。あと、なんとなく見やすくできればとも考えている。6つくらいのカテゴリに分けたいなぁと漠然と考えながら作業に取り組んでいるがしかし、びっくりするくらい取り留めがないために分けようがなくなってしまっている。ほとんどが気合いの入っている記事と気合いの入っていない記事の二択だ。こんなんじゃ全く回遊性が良くなる気配がない。

その上、記事が多い。手付かずの状態で8月31日を迎えた気持ちといえばわかりやすいだろうか。こんなんだったら100記事くらいの時から計画的にカテゴライズすべきだった。8倍にも膨れた今のブログでは、どうにも収集がつかなくなってしまっている。どこから手を付けるべきか、どこから捌くべきか。ちなみに北海道は夏休みが短いので8月31日に特別な感慨はない。

やっとデス繁忙期を抜けたので、多少落ち着いてその他の諸々へ時間を割けそうな雰囲気かある。相変わらず時間はないのだが、やれるところからやれることをやっていきたい。ひとまずカテゴライズ。まじで終わらん。

電車で寝るようになった

ちっちゃな頃から悪ガキで15で不良と呼ばれることはなかったが、ちっちゃな頃から公共交通機関で寝るのが下手くそだった。もっとも、北海道民は自家用車さえあればイスカンダルの彼方まで飛んでいけてしまう人種なので、公共交通機関に大して乗ることもなかったのだが。

東京に来てみて、線路にがんじがらめの土地柄を知り、電車があればどこにでも行けると学んだ。しかし電車で寝ることは殆どなかった。大酩酊の末とかは例外として、きちんと乗って、特に眠くはないけど座ったらスーッと入眠したとかってシチュエーションはなかった。

ここ最近、通勤特に帰宅時に寝ることが増えている。どうしようもない眠気が襲ってくるようになった。足から腰から目から、宵闇のごとく染み出す眠気に抗うすべもなく立ち向かう姿勢だけ見せてスマホ片手にヘッドバンキングを繰り返したのち、スマホが滑り落ちそうになって反射的に起きる。そしてまた寝る。良くいるサラリーマンをしている。ちっちゃな頃、飛行機に乗っても決して寝なかった男の成れの果てとは思えない。北海道から本州のフライト、約二時間もの時間を「安全のしおり」の熟読に費やして終えた人間が聞いて呆れる。

活字よりもスマホよりも睡眠を欲しているならくれてやろうと思う。酒に覚醒を強いられる日々の暇に、のんびりでもしてやろう。

賭けるものと面白さ

白井健三。ひねり王子と呼ばれ、押しも押されぬスーパーな体操選手である。彼の空中のめちゃくちゃな動きに日本がざわめく。あの回転、すげー難しいんだろう。想像に難くない。

あれに日本が湧くのは何故か。それは着地しているからだ。
今、スカイダイブして、キリモミ回転しろと言われたら比較的容易いだろう。白井健三も顔負けの回転を見せて、散る。白井健三の凄さは着地できる程度かつ最高に難しいひねりを入れている点だ。と、素人は思う。
人生もキリモミ回転だ。ぐるんぐるん回りながら落ちて行く。度々踊り場に出会い、仮着地をしながら死ぬまで落ちていく。度々の踊り場でそこそこの着地を見せられれば、それまでのキリモミ回転は幸せだ。ファインプレーになる。さりげなく大転倒していても、立て直して今平然としているのであればそれもよし。
たかだかこれまでの人生だが、同年代でもいろんな回転をして今に至っている。面白い回転の仕方をして、怪我しながらでも元気に今もなお落っこちている人は面白い。魅力的だ。なんとなく、この人の人生には勝てないと察する。
悲しみの果てに何があるかなんて
僕は知らない 見たこともない
エレファントカシマシが歌う。悲しみの果ての着地は面白さを生む。教えてあげたい。

汗燥文

殆ど夏ような空が広がる。ただ宣言をしていないだけで梅雨は明けているのではなかろうか。気象庁と天候の駆け引きはさながら恋のようで、さっさと梅雨明け宣言しちまえよ!とけしかけてやりたくなる。えぇー、まだいいよ…本当に明けてるかわかんないだろう?って尻込みする気象庁がいじらしい。

お役所と空は付かず離れずかもしれないが、僕の肌とシャツはベタベタのバカップルである。恋のキューピッドは汗。主たる僕の意見を全く聞かずに肌とシャツの間を取持ち、望むべくもない婚姻関係を結ばせている。おかげで僕の肌着のラインは切なくなるほど露わになっている。哀しいかなそこに色気はなく、連休をとって旅行に出ているらしき観光客との都合のいい対象物として駅のホームに佇むばかり。すこし猫背で前のめりになりながら親指を忙しなくさせる姿は艶美ではなく憐憫だ。

一心不乱猪突猛進にホームへ突っ込んできた電車の中は既視感のある姿をした青年中年壮年が詰め込まれている。理科の教科書の分子構造を思い出す。水素と水素の引き合い、プラスとマイナスの引き合い。ぎゅうぎゅうの彼らはなにを持って結合しているのやら。パッと開いたドアからカマキリの子供のように吹き出す彼らをみて、大して結合が強くなかったことを知る。空いたスペースにいそいそと僕も入る。車内で繰り広げられる椅子取りゲームへの参加権を掴めないまま、つり革を掴む。たまに差し込む冷房のおかげで肌とシャツは徐々に疎遠になっていく。むしろ車内の方が快適だ。狂気の沙汰と思われた日差しも車内からだとさも美しく世を照らす。通過する駅には撮り鉄が構えており、電車を撮影する。日差しに美化された撮り鉄。この乗り物はそんなに魅力的ですか。確かに乗り心地は今悪くないです。

乗り入れのおかげで上りが下りに変わり、車内は空いた。いつもの駅に着く。さっきはカマキリの子供くらいの勢いがあった降車風景だったが、今やハムスターのフンだ。ぽとりと駅に落とされる。日差しが再び牙を剥く。噛み付かれた傷から吹き出す汗。肌とシャツのランデブーがまた始まる。

後ろで走り出した電車は薄着とスーツケース達を避暑地へと運んでいく。僕は冷房室内という人工的な避暑地へ向かう。しかし、ただの避暑地ではない。戦地でもある。手を替え品を替え爆弾の雨が降る。

熱気が原因ではない、また別の汗を滴らせて走る。どちらにせよ、美しい姿ではなかった。