徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

昨日、誕生日につき

ゴルゴダの丘に磔にされた後、一度葬られたのですが今復活しました。書きます。

 

高校に上がったところで、僕の人生は大きく広がっていく。まず、二重になった。これはとても大きな出来事だった。幼き頃は「野村萬斎の生き写し」と言われるほどの切れ長の目と面長フェイスを持ち合わせていたのだが、中学生も終盤に差し掛かると、不思議と顔立ちもゴツゴツしだし、エラが飛び出て、端的にいうと親父に似出した。そこに切れ長の目が組み合わさるとなかなかどうして不細工である。そう、不細工であった。不細工!あぁ、ブサイク!ところが、なぜかある日を境にして二重が定着していく。女子達が必死にアイプチをする中、僕は望むべくもなく二重を手に入れたのだった。二重になってみて、二重の威力を知った。顔がはっきりする。ピントが合う。タマゴ型から長方形に変化していく顔に、やっとピントが合った瞬間であった。

 

それに前後して彼女ができた。二重の効果かは知らない。同じ部活で不意に出会った子と不意に付き合い出したのだが、部内恋愛禁止という香ばしい規則に縛られた、なんとも酸っぱ苦い恋であった。後に似たような歴史を繰り返すことになるのだが、それはまたしばらく後のお話。しかし、初めての彼女である。「自分に、彼女が、いる。」これだけで思春期の男子なんて喜ぶ。簡単に有頂天である。猿だもの。記憶を辿ると、テスト前、勉強しろよってことで部活が無い期間にひたすら電話して全く勉強しないなんていう青春をした。カワイイものだ。しかし、何しろ狭すぎる世間で秘密をなんとか守ろうなんて全く無理な話なのである。バレるかバレない前に終わるかの二択。バレない前に終わった。

その後すぐまた彼女ができたが、その彼女も別れた直後に僕と付き合いだしたみたいなことで、まじくそドロドロな人間関係が醸成されつつあったんだけど、北海道の片隅の人間関係の濃さからすると割と一般的なドロドロを生きていた。そういう面ではちゃんと高校生!って感じの高校生を生きられたのではないかと思う。

 

ではその他はというと、部活である。良くも悪くも僕の人生を狂わせたのは陸上だ。中学の頃楽しく健やかにしなやかにやってきた陸上が本気100%みたいな監督のもとで花開き出した。冬場雪道でガツガツに走りこんで体幹をバキバキにする、マゾヒスティック極まりないトレーニングがバッチリ身体に合っていたようで、突如として北海道で一番速いマンとなった。これは案外今でも名刺がわりに使えて便利である。関東大会ベスト8とかの方が人口密度からして絶対凄いんだけれど、「あの広大な北海道で一番!?」みたいなリアクションをいただける場合が非常に多い。得してる。彼女の存在もそうだが、北海道一番になってラジオとか新聞とか取材に来ると大抵の高校生男子は有頂天になる。自己肯定感の塊だ。今、高校野球で、それこそ清宮のような超高校級と言われるスラッガーがマスコミの取材をしっかり受けているのを見ると、本当にどういったメンタルをしているのかと思ってしまう。有頂天にならないのですかと問いただしたい。調子乗っていいんだよ。失敗しろよ。青臭い記憶を大人になった時のために今残しておけよ。

有頂天だった僕は有頂天のまま大怪我をして、目標に届かなかった。でも有頂天はいつまでたっても有頂天で、有頂天のままハイテンションなリハビリを続け、アクセル全開急ピッチな回復を見せ、復帰戦でそこそこ場を盛り上げて高校陸上を去った。僕の中ではこの復帰戦は忘れ得ぬ走りで、忘れ得ぬ物語なんだけど、今やこの話をできるのは僕と僕の家族と顧問だけである。歴史の端に葬られている。まぁそれもいい。自分だけが食べられる酒のつまみがあると思えばそれで。場を盛り上げただけで満足はしていなかった北海道で一番速いマンは、リベンジを期して大学でも陸上を続ける決意をする。これが後に自分を酷く苦しめる。

 

ピアノは中学三年生で辞めた。「ラ・カンパネラ」を弾いて、綺麗に尻を捲った。コナン君が新一の服を着るような身の丈の曲だったが、なんとか背伸びしまくって着た。弾いた。

ここからもっぱらの音楽活動はギターと作曲に移っていく。楽器できるやつがやはり何人かいたから、文化祭でバンドをやった。これはびっくりするほど稚拙なものだった。だが、寡占状態だったことも功を奏し、なんかそこそこ弾けるやつみたいなポジションに収まることができた。そこで僕は愚かなことに調子に乗ってギターボーカルに就任する。醤油皿くらいの大きさしかない技量で蕎麦を盛りつけようとした。無理だった。ヘロヘロの演奏で胸を張った。でも、校舎の中庭で演奏している時、ぎゅうぎゅうの観客と窓から覗く観客がパノラマで見えた。あの景色は本当に綺麗だった。下手でも嘘でもあの場所に居たことに意味があると思う。いつかは大阪城ホールで。いつかはさいたまスーパーアリーナで。

BUMP OF CHICKENのコピーをし続けたが、そのうちに曲を作り出した。「内科に行かないか」、「ありおりはべりいまそかり」など、今でも市民権を得ている曲の多くは高校生のうちに作ったものだ。僕からすると岡崎体育やヤバいTシャツ屋さんは全て僕のパクリに当たる。何しろ、その後の創作活動のタネが植えられた時期であった。

 

陸上やる!どこまでいけるか知りたい!そんな熱い想いを抱いて、ぱっちり二重で見定めて上京した。ここからは本当に最近の記憶になる。とりあえずまた筆を置く。気が付いたら誕生日終わってた。

本日、誕生日につき

25年前の今日、後の185センチの巨体が40センチに毛が生えたくらいの極小な体で生まれてきた。当時から出不精だったのか、相当母親のお腹の中が居心地が良かったのか、いい加減生まれろと促されているのにも拘らず全く聞く耳を持たずに、帝王切開にて誕生した。多大な負担を強いられた母親は産後にとんでもない大きさの10円ハゲができてしまったという。僕は母親の頭髪に誓って親孝行をしようと決めたのであった。
まず大きくなることが孝行だと考えた僕は狂ったようにミルクを飲んだ。飲んで飲んで吐いた。吐いては飲んだ。そうして蓄えた栄養のおかげで一ヶ月で体重は倍増した。ジンバブエのインフレ率もびっくりしちゃうほどの短期間での成長である。体の大きさが決まった瞬間がどこにあったかというと、きっとその1ヶ月の爆飲みだった。
武家であれば確実に重宝されていたであろう体格。しかし我が家は商人の家だったのであまり関係なかった。3歳で1メートルを超えたあたりで、巨人症の疑いありと小児科だか産科の先生に通告された母は焦ったとか焦らなかったとか。同い年のオトモダチだったゆうちゃんが僕を見るたびに大きさに怯えて逃げ出す記憶はとても鮮明に残っている。そういえばゆうちゃんは「シャチとサメだとどっちが強いと思う?」というクイズを頻繁に出してくれた。そのため、22年経った今でも僕は「シャチとサメだとシャチの方が強い」ということを知っている。だが、3歳時点のゆうちゃんが間違っていた可能性もある。真実は闇の中である。
その後、保育園に通うことになる。YMCAという小便臭さと元気をフラスコの中で撹拌したような保育園に通った。小便臭さは家屋の古さによるもの、元気は教育方針によるものだったが、どちらも嫌いだったため、それらが合わさったYMCAも好きでなかった。通園バスに乗るのを拒み、家の中に籠城し、園の前で逃げ出し、あらゆる選択肢を行使すれども腕力と権力のダブルパンチで園に収容されていく理不尽を覚えた。あまりにも僕は無力だった。
幸い転園の運びとなり、キリスト教系の藤幼稚園に転園した。新しい友達だらけだったので最初こそ相当躊躇したが、なんとなく同じ毛色の人間が集まっている雰囲気があったのでしばらくしたら慣れた。元気を強要されることもなく、大人しく机に座って世界中の国旗を描きまくっていてもそれが褒められた。とても嬉しかった。キリスト教がなんたるかを学べたのも良かった。当時の情緒発達にどれだけ寄与したかは知らないが、今、キリスト教について人より少しだけでも詳しいのは得したと思う。これから出勤なのであるが、これを「まるでゴルゴダの丘に登って行くかのような気持ち」と形容できる人がどれだけいるだろうか。やはりキリスト教に助けられている。ちなみに、ゴルゴダの丘はキリストが処刑された丘である。彼は十字架を背負い、茨の冠をかぶり、錘を四肢につけながらゴルゴダの丘を登ったのであった。
やはり幼稚園でも一番大きい子であったが小学校に上がるとさらなる猛者とであることとなる。自分より大きい同級生に初めて出会った。カルチャーショックだった。生まれた直後、親孝行のために爆飲みしたミルクであったが、今度が自分の沽券のために爆食いをした。給食を貪り食べた。余った牛乳じゃんけんでは遅出しをしてまで牛乳の獲得に躍起になった。後に摘発され、僕は牛乳じゃんけんの参加券を2週間剥奪されることとなる。隣の席のさとこちゃんが食べ残しているならばそれも食べた。全ては大きくなるため。大きくなりたいがため。しかし、小学校6年間を通して、結局ナンバーツーに甘んじた。
やはり小学生というのは多感な時期であり、諸々鮮明な記憶が残っている。あれだけ献身的に給食を恵んでくれていたさとこちゃんにスキー授業中に雪玉を投げたところゴーグルにクリティカルヒットしてヒビが入り、こっぴどく叱られた。人に物を投げちゃいけないと学んだ。また、原因不明の呪いにかけられたこともあった。僕の周りから人がいなくなった時期だった。イジメは良くないが、その後しばらくして僕もイジメに加担することになる。人なんて弱いものだ。さらには、密かに想いを寄せていた娘に想いを告げるも、同級生が面白がって対抗馬を立て、その娘が対抗馬を選択するという悲劇もあった。ちょうど郵政民営化と時期が重なり、芸能人候補者が人気だけで当選する姿に恨めしさを覚えた。
何より書かねばならないのはこのころピアノを習いだしたことだ。おかあさんといっしょの時分から抱いていた音楽への興味が結実した。「トンプソンのピアノ教本」の最初の曲、「のぼって おりて とんじゃった」から「ラ・カンパネラ」まで連なるクラシックピアノ人生。今きらきら星変奏曲を聴くと、小学5年生でこれ弾いたとか天才なんじゃないかと思うんだけど、YouTubeにはほんまもんの天才達が珠玉の演奏を披露しており、あぁ、この世界は自分のいる世界じゃなかったと胸を撫でる。9年間の間、幾度もやめようと思った。ピアノの菅原先生は穏やかながら一度スイッチが入ったら閻魔にもデーモンにもなる素敵な先生であった。恐怖におののきながら練習をしないという怠惰をカマし、やはり叱られるイビルスパイラル。もう辞めたい、行きたくないとゴネる度に親父がじゃあ辞めろよもう!と半ギレになり、息子は息子で辞めろよと言われたら辞めたくなくなるといった茶番劇の果てに継続があった。この継続があったからこそ、今の創作活動がある。当時の忍耐と親父の半ギレには心より感謝したい。
中学に上がると不良に出会う。
それまでは比較的牧歌的な毎日を過ごしていたのだが、中学になって初めて尾崎豊な修羅を生きる連中と邂逅した。言葉より力、対話より圧力。そもそも机に座って大人しく国旗を描いていたい人間が、選挙ポスターを破って燃やすような層の人間と合い入れるわけもなかった。だが、キリスト教系幼稚園を卒園し、小学生の頃もたくさんの学びを得た僕はそれなりに立ち回り、クラスの中でそれなりに生きて行くことに成功する。武官が荒れ狂う中、文官は諌めようと躍起になった。が、結局なんの気なしにイジメに加担もしたし、武の者と言い合いになった際は筆箱を粉々に砕かれたりもした。でも、そんなもんだった。タバコを吸ったり、襟足を伸ばしたり、ワックスをつけたりすることなく、品行方正なまま卒業した。陸上競技と出会ったのもこの頃であった。小学生のころにハードルの授業で褒められたのが興じて部活に入った。楽しく陸上をやりましょう!と、陸上人生の中で最も長閑に楽しく陸上ができた。幼少期から食べまくって飲みまくって貪りまくって養成したしなやかな筋肉が少しずつ目覚め、大した韋駄天でもなかったが、高校でもやりたいと思える程度の余韻を残して終えた。
書き連ねてみると現在にまで至る人間性やら形作るものはこの頃までにほぼ完成したと言える。つまり僕は中学生の頃と大して変わらない価値観の元、動いている。雑魚である。
とりあえず、ゴルゴダの丘を登り切りそうなので今のところはここで筆をおく。出来心で他が為でもなく書き出したが案外と筆が滑るものである。やっぱり自分のことは書きやすいし、書きたいんだろう。次は10時間後ほど後、イースターに筆を再度取ろうと思う。

ガガガSP「線香花火」

これを観た。

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同じ地元の2個上の人間ですげー懸命に生きている人間がいて、彼は知り合いの知り合いとかを除いた自分の友人の中では多分一番懸命に生きていて、僕は懸命な姿を後ろの方から観ている。高校の頃2個上の割に仲良くしていたところカラオケとかにちょくちょく行き、やや10年前の当時は懸命さのハケ口が見つかっていなかった彼はグズグズじくじくした思いをパンクに乗せるしかなかったようでこの線香花火をぶち狂いながら歌っていた。当時バンプしかわからなかったような僕はそこでパンクとこんにちはをした。

大抵の人はこの線香花火を聴くと自分の淡い思い出を思い出したりするんだろうけど、僕に限ってはそいつの歌っている姿がこの曲で、そいつのグズグズじくじくした思いがこの曲で、北見のスリラーカラオケ3階の奥の方の部屋がこの曲だ。

彼は高校生当時長距離選手だったのだけれど、人生においては確実に短距離選手でスプリントをガチガチ走っていっている。あのグズグズじくじくのハケ口が見つかったんだろう。どうしようもないエネルギーがカラオケのたった一室で収まらなくてよかったし、そういう生き方が羨ましくも思う。

線香花火に狂っていた割には線香花火みたいな淑やかな生き方はしていない。

そんなあなたにこの歌を贈ります。

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酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤

昨日革靴の手入れをしようと思いたってホームセンターに行った。靴は顔。サラリーマンにとって、靴は顔。

どうやらホームセンターとか文房具屋とか雑貨屋が好きらしい。今のままの人生を生きていたら絶対に使わないであろう道具を眺める時間ほど全く意味をなさず、静謐な時間はない。ありえない容量が入っている紙やすりとか、世紀末のクラゲみたいにコードがうじゃうじゃ出ているメーターとか、堪らない。フラフラしていると、3キログラム入っている木工用ボンドがあった。思わず手に取る。ぶにゃぶにゃした感触が気持ちよかった。不意に商品名が目に留まる。

「酢酸ビニル樹脂エマルジョン系接着剤」

話は飛ぶが、中学の技術と言えば何を思い浮かべるだろうか。僕が卒業した中学校の技術教師はその道の第一人者と言っていい人であったらしい。そのためか、同世代の同窓生たちは他の中学生たちとは違う技術科観を植えつけられている。僕たちはとかく主要科目とは言い辛い技術科に恐怖し、涙し、そして笑った。

思春期の入り口、未発達甚だしい少年少女たちが中学の門を叩く。ゆとりと呼ばれる世代の只中を生きた僕たちは何かと打たれ弱いと言われ、現実確かに打たれ弱く、恐怖に次ぐ恐怖を突きつけてくるような鬼軍曹と出会わずにほやほやと12年間の人生を謳歌していた。

春というと出会いの季節であり、出会いには自己紹介がつきものである。中学教師たちはこぞって最初の授業で自己紹介をしてくれ、私はこんな人ですよ、今年はこんなことやりますよ、一緒に頑張っていきましょうね、と優しく手を差し伸べた。当たり前っちゃ当たり前である。しかし技術科は違った。彼は自己紹介をしなかった。技術科とはどういった授業をするのか紹介もしなかった。ハジメマシテもそこそこにフルスロットルで授業に入っていった。当時の少年少女たちには衝撃的な出来事であった。ほよほよしたオリエンテーションに塗れた中学生活の始まりに劇薬を投与されたのである。ショックだ。

まず、技術室の掟的な標語の暗誦を求められた。校歌すらも覚えていない僕らが技術室の掟を覚えたのである。反抗期が始まりつつある12歳が真面目に標語を覚えるかと思うかもしれないが、これが覚えるのである。何しろ彼は怖かった。指示を出し、少しでも動き出しが遅いと、キビキビ動く!と憤怒の声が飛んだ。独特のハイトーンボイスで顔を紅潮させ髪を振り乱しながらの声。僕らは「キビキビ動く」恐怖症になった。不良っぽい連中もなぜだか彼の声には従った。しかし彼に言わせてみれば怒ってはおらず、叱っているのだった。怒ると叱るの違いについてやはり顔を紅潮させながら訓えてくれた。

僕たちは懸命にキビキビした。キビキビ第三角方による正投影図を引き、キビキビ治具を用いて金属を加工し、キビキビノギスで直径を測った。

物の名称についても非常に厳しく教えられた。例えば「コンデンサーラジオ」なんて言おうもんならはんだごてで焼き切られる。あれは「コンデンサラジオ」である。伸ばし棒なんていらない。「コンピュータ」「エレベータ」カタカナ語の語尾伸ばしをことごとく摘発した。

その一環だったと思う。木工の時間、僕たちは確か小物入れを作っていた。釘とヤスリと、ボンド。そう、ボンド。ボンドはボンドであって、ボンドではない。「コンデンサ」「コンピュータ」と同じ論理で、ボンドのことを「酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤」と教えられた。ボンドといったら叱られた。ボンドを欲しいといっても決して貰えなかった。そのため、

「先生!酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤をください!」

「よし!」

みたいな会話がなんの不可思議もなく技術室では繰り広げられていたのであった。不可思議である。

そんな彼も1年経て、2年生になった僕たちにはエラく気さくな人間に変わった。一年越しの自己紹介をしてくれ、自らの名前のシンメトリーについて熱く語り、製図の知識を用いたUFOキャッチャーのコツをキビキビと教えてくれた。1年目の恐怖政治は作戦だった。大変貌を遂げた彼はそもそもの頭の良さと人柄の良さで人望を集め、卒業する頃には皆に慕われる教師として存在感を放っていた。卒業式にはお互い落涙した。

昨日、ホームセンターで見かけた酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤。それは僕の心をいとも簡単に中学一年生の春に戻した。懐かしさがこみ上げてきた。靴磨きセットを買って家に帰り、淡々と靴を磨きながら単純作業の中で辿った記憶。それは苦く酸っぱく脳裏に引っ付いて離れない。まるで酢酸ビニル樹脂エマルジョン接着剤によって接着されているかのように。

セブンのおでんCM ありがとうおでん「BiSH・おでんの歌」を見て思ったこと

たまたまYouTube見てたら流れてきた。

と、思ったら、それだけの動画もあった。

 

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いよいよ売れにかかってきているようである。

CMの内容は単純。おでんのCMにおけるおでん讃歌だ。

おでんのヘルシーさにがっつりフォーカスし、生活習慣に悩みを抱える日本国民たちにおでんを食べましょうと投げかける。食べたら諸悩万端解決するよ。

ありがとう、おでん。

 

このCMをまじまじ見てやはり思った。僕は楽曲を含めた彼女らが好きなのだ。

いつか読んだ文章の中に、松隈ケンタ氏が楽曲提供を手がけるアイドルグループたちの楽曲がアイドルっぽくないのは合唱をしないからだという文言があってなるほどなと思った。

ももクロにしろ、48グループ、46グループにしろ、サビは大抵みんなで歌う。あの全部の声がごちゃ混ぜになった声がアイドルらしさを助長していると。言われてみればその通りだと思う。

 

アイドルっぽくないアイドルがアイドルらしいことをしている。

BiSHのアイドル性に惹かれて好きになった層にはこれほど嬉しいことはないだろうが、BiSHのアイドル性をさして重要視していなかった層は割と冷静に受け止めているはずだ。

売れてきたね!良かった!と少し離れたところからCMを眺めている気持ち。

 

例えば「Mr.Childrenが好き」と、「桜井和寿が好き」には大きな隔たりがある。桜井和寿は0.05mmの隔たりに愛を歌ったがこの際そんなことはどうでもいい。

楽曲を含めたアーティストに対する愛はアーティストの楽曲への愛だ。「Mr.Childrenが好き」は、「音楽ひいてはJ-POPの中でMr.Childrenの楽曲が好き」の意訳に過ぎない。しかし、「桜井和寿が好き」はもはや楽曲をすっ飛ばしている。「Mr.Childrenが好き」が興じて、「Mr.Childrenの楽曲を作る桜井和寿が好き」となり、「桜井和寿が好き」になる過程は理解できるのだが、まじで別物である。「カレーが好き」と「じゃがいもが好き」くらいに別。

「Mr.Childrenが好き」な人はミスチルを聴き、ミスチルに鼓舞され、ミスチルに癒される。「この曲のここの部分いいよね!この歌詞!このギター!このベース!」そういう好き方をする。対して「桜井和寿が好き」な人は、桜井和寿に詳しくなる。「桜井さんは何歳の時にこういうきっかけでギターを持った。」そんな知識に喜びを覚える。もはや楽曲関係ない。「桜井和寿の歩いた道」を歩きたいとか、そうなってくる。

 

余計な例えをしてしまった気もするんだけれど、BiSHにも同じことが言えると思っている。

彼女らがアイドルというジャンルに棲んでいるからややこしいのだが、多分「BiSHが好き」には「Mr.Childrenが好き」なタイプの人と「桜井和寿が好き」なタイプの人が混在している。

この2者の好き方の差異はなんともわからない。もしかすると「Mr.Childrenが好き」タイプの好き方の上位互換が「桜井和寿が好き」タイプなのかもしれないし、全く別次元の好き方なのかもしれない。

ただ確実に言えることは僕の今現在の好き方は「Mr.Childrenが好き」タイプであり、「桜井和寿が好き」タイプではない。だから今回のCMは嬉しいけど狂喜乱舞するほどのことではなかった。これが言いたかった。

ともあれ、おめでとうBiSH。引き続き敬虔な態度で拝聴し続けます。

 

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

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ピーターポール&マリーを改めて聴いてみて

月末と期初だというのにお休みをいただいている。連休である。日頃積もった諸事を片付けている一環に免許の更新があった。

視力測って写真撮って、初回のため2時間の講習を受けて帰って来た。講習は初老のおじちゃんが鼻詰まりしたようなズーズー弁で交通事故の悲惨さを滔々と語ってくださった。道交法の変更点も教えてくれた。勉強になった。

講習の最後、おじちゃんはさだまさしの「償い」という歌を流した。交通事故で人を殺めてしまった男の実話を歌にしたものだという。さだまさしの澄んだ歌声で朴訥と紡がれる物語は迫真そのもので恐怖を覚えた。事実のみを淡々と挙げ列ねて心を揺さぶる歌を歌わせたらさだまさしの右に出る者はいないだろう。そんな歌を聴きながら、なぜだかどうしてもピーターポール&マリーが聴きたくなった。

ピーターポール&マリーとの出会いは古い。レモンツリーという曲がその昔教育番組で流れており、お気に入りだった。それで買ったのかわからないが、うちにはピーターポール&マリーのアルバムが置いてあり、何かにつけて流していた。

改めて今流しっぱなしにしているピーターポール&マリーは、心地よさそのものだ。メロディがとにかくいい。どうやら彼らが書いた曲よりもカバーソングの方が多いらしいのだがこの際どうでもいい。メロディがいい。でも彼らのヒットソングの多くは反戦歌で、美メロに包まれた悲しみが滲み出している。

「悲惨な戦争」が一番有名か。直球極まりないタイトル。綺麗なハーモニー。綺麗すぎて、有名すぎて、美しさよりも悲しい。ジョニーだけは戦争に行って欲しくない。「花はどこへいった」も強烈にメロディがいい。そして悲しい。全部どこかへいってしまう。花は摘まれ、男は戦場に行き、戦士は墓に行き、摘まれた花が墓を覆う。戦争のせいで。

何かと戦争についての議論がよく聞かれる。ここのところ特に。アメリカと北朝鮮が喧嘩しそうだとか、傍らにはロシアと中国がさもありなん風に脇目で見ているとか、国際情勢はざわざわ森に突入しているようである。敗戦国として、唯一の被爆国として、北朝鮮の隣国として、戦争はだめ!と頑なに拒む姿勢を取っているらしい日本ではあるものの、引きで見ているとその怖さも辛さもわかったもんじゃない。将軍様まじやばい怖いのはそうなんだけど、引火してくる恐怖や辛さがリアルじゃない。戦争の恐怖よりも小指の角をタンスにぶつける恐怖の方が余程リアルなのが平成。

ピーターポール&マリーを聞くと恐怖が如実に伝わってくる。綺麗なハーモニーと美メロという最高の体裁を保ったまま恐怖と悲しみがダイレクトアタックを仕掛けてくる。それはジョンレノンが歌うような概念的話ではなく、ただ一人の人が経験したたった一つの物語。それがとにかくリアルで、苦しい。さだまさしを聴いた時にピーターポール&マリーを思ったのはさだまさしも誰でもない一人の物語を歌うからだろう。身の丈の恐怖と身の丈の悲しさに心を打たれる。

こんな文を書いているうちにYoutubeで流れていたピーターポール&マリーはビリージョエルへと変わった。シェアスタジアムでピアノマンを歌っている。十中八九のメッツファン達が大声でピアノマンを合唱している。ピーターポール&マリーが望んだ小さな幸せが集まっているのだろう。誰も戦場を知らないままである種呑気に楽しくピアノマンを歌える世の中が続かなきゃならない。ジョニーが戦争に行く必要がない世の中を。

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思えば遠くまで来たものよ

往年の曲を録音し直した。

往年

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今日

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その間、四年。

宅録というのは本当に奥が深く、人様の曲を聴くとどうやって撮っているのでしょうかと思うほどに音質が良いものばかり。その度に情けない気持ちになる。

iMacを買ってからというもの、懸命に何がどうなったらそれっぽく聴こえるのかを検証して来た。道半ばも道半ばだが、曲ができるたびに満足して、聴いていくうちに不満が出て、また作ってを繰り返し、少しずつ少しずつ良くなって来ていると感じている。

そして今日、部活の先輩からの依頼もあり、ミックスグリルなる曲を録り直した。

今日の出来栄えが抜群とは言わない。まだまだである。まだまだまだだ。しかし、四年前を振り返るとやはり遠くまで来たものよと感慨が芽生える。四年前の同曲は全く人様に聴かせられうる曲ではない。それでも、四年前は四年前で胸を張ってこんな曲作った!!と宣言していた。厚顔無恥なくらいが程よいのかもしれない。なので今回も厚顔無恥に曲をあげる。

四年後どうなっているのか楽しみでもある。未来の自分にしょっぱい曲作ってんな〜って思われたい。

Wi-Fi難民

平日夕方のスターバックスコーヒーの年齢層は若い。干支が3回巡っていると長老になれてしまいそうなほどの若年加減。左手では学生だろうか、向かい合いながら身の上を話している。元彼と元カノの話に大輪の花を咲かせている。一方で、1人でゲームをしている。あれはニンテンドースイッチだ。羨ましい。さらに奥には1人で化粧品を開封している女子。多分彼女はいつまで経っても女子だろう。女性ではない。女子だ。その隣に座っているギャル2人は語尾だけ関西弁の標準語を使いこなしている。たった今から君の言語をギャル弁と名付けよう。

若年層に囲まれた若年の僕はスターバックスに何を求めてきたかというとWi-Fiである。

通信制限にがんじがらめにされ、アイアンメイデンを食らっている現在。自宅にWi-Fiが飛んでいないため、自力のデータ通信量で生きてきている。なかなか苦しい。

心のうちとしては、データ通信量なんかに縛られたオンラインズブズブの生活を送りたくないからWi-Fiやらデータ通信量の拡大を拒んでいる。通信量強者が湯水の如く動画と画像に溺れている間、僕は黙々とひとり取水制限を続けているのだ。

そうして月末、いよいよ苦しくなってスターバックスに逃げ込んできた。僕にとってのスターバックスラテはただのスターバックスラテではなく、Wi-Fi込みのスターバックスラテ。マイナスイオンよろしく満ち満ちているWi-Fiが僕を潤す。がしかし、データ通信量に禁欲的な生活を続けていると何していいのかわからなくなる。動画を見るわけでもなく、画像を見るわけでもなく、なぜかどこでも書ける文章なぞをWi-Fiの楽園にてしたためている。勿体無い。データ通信量貧乏性である。

せめてと思って、音楽をストリーミングで聴いてみる。どうだ、今僕はデータ通信量を貪っている!データ通信量の贅を尽くしている!

心の遠吠えは虚しくギャル弁に吸い込まれていった。

カラオケで騒ぐのはストレスを抱えているからなのか

カラオケが好きだ。特に絶賛されるような歌声の持ち主ではない。しかし教育番組に夢中になっていた時分から音楽に乗って体を動かす行為が好きであった。その延長線上に今もいて、人の歌も自分の歌も気分が乗ってきたら全力でタンバリンを叩いて体を動かす。

夜更けにダンスにもならない不規則な飛び跳ねを披露しながら歌い踊っていると、必ずと言っていいほどストレスを抱えているのかと尋ねられる。最近辛いことあった?大丈夫?

大抵大丈夫です。

カラオケがストレスのはけ口になりやすい事象なのはよくわかる。わかりやすい発散をもたらしてくれている。問題の根本は全く解決しないものとして、とりあえず訳もなく気持ちよくなれるツールではある。しかし、僕自身の見解としてはストレスがない方が余程カラオケは楽しい。アホになりたいから踊っているのではない。そもそもアホでだから踊っているのである。ストレスは阻害要因でしかなく、ノーストレスでカラオケに行った時の方が臆面も気兼ねもなくアホになれる。ちなみに同席している人は選ばない。大抵の分別のある方々たちは大して知らない曲でも全力でタンバリン叩きながら狂喜乱舞歌唱する青年を見ると笑ってくれる。きちっとやりきることが何より重要である。きちっとアホになるのである。いや、否。そもそもアホであるから、ありのままを受け入れてもらうだけでいい。ただそこに不安が過ってもみろ。裸芸にベールが巻かれるようなものだ。裸だから面白かったのに、面白くなくなる。アホだから面白かったのに、アホじゃなれなくなる。鬱々を吹き飛ばすためのアホではない。鬱々はアホに覆いかぶさり十全にアホをやり解けなくさせる。迷惑千万。

だからどちらかというとストレスを酒で吹き飛ばしてからストレスの忘れた状態でカラオケに行くのが一番いい。前後不覚の状態こそ、精神的な裸に近い。元気にタンバリンを叩き、みんなに笑ってもらう。それでいい。ありのままの僕を笑ってください。

以上

生活力の低下

昼には弁当を作り、水筒を持ち歩き、家ではパック麦茶を常備させている。野菜は八百屋で。肉は業務用を。晴れた日には遮二無二洗濯、洗い物はすぐ片付ける。

生活力に定評があり、生活力が高いことをアイデンティティとしている昨今。生活力強者にお姉様方は惹かれる傾向にもあり、大変助かっている。

しかしどうにも生活が乱れる時分がある。今朝がそうだった。

普段であれば気合い一発で片付ける洗い物は出しっ放しで、麦茶も底を尽きたけど洗い物すらも面倒だから作ることはなく、ニトリのソファにめり込んで動けなかった。スーパー低反発マットに沈み込んで行っている気持ちで世を儚みながら、時が過ぎた。いつもは出勤時間に前のりして会社に行くところも、めり込んでしまってる手前動き出せずに定時ビタビタの電車に乗り込んだ。及第点だったのは出社したことくらいだったろう。

片付けるとか洗うとか、その類の家事って割と力を使うのかもしれない。エイヤッ!エイヤッ!って退治していく日々だったが、エイヤッも積もれば山だ。休もう。とは思うものの散らかってるのこそストレスなんでやーめたって出来ない。いい性格に生まれました。

エイヤッ!に飲まれる日々は続く。