徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

北海道での日々

ここまで四日間過ごしている。毎日欠かさず届くお仕事の連絡にうつつを感じながら夢のような日々である。

本州諸君、ぬくぬくと中秋の名月を眺めて風流をついばんでいるのだろう。せせこましい日常の中で、たまには月を眺めるもいいではないか。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

藤原道長でしたっけ。満月のような月をみるとこの句が思い浮かぶ。軋みながら、壊れながら、なんとかかんとか回っている歯車マンからは考えられない傲慢さを風流にぶつけた道長の力量たるや。

 

当方、たかだか多少緯度が高くなっただけの北海道は北見。

ちょっとびっくりするくらいに寒いです。月が綺麗だナってぼんやり空を眺めている間に、垂れ流されていくは体温。指の先、首回りからじわじわと染み出ていく。サーモグラフィにしたら指先とかが黒々となって見えなくなっているに違いない。

 

いい季節に帰るね~って同僚の方々に送り出されてきた。いい季節とはなにを指していたのだろう。紅葉が綺麗なことだろうか。涼しいということだろうか。

もし、涼しさに言及していたとしたら、それは違う。飲んで帰る深夜の気温が2度になるこの季節を、涼しいといえるか。18年間住んだ土地であるがしかし、やはり厳しい土地。四六時中、試されている。

試されたなら、立ち向かわなければならない。

二重サッシをもってしても防ぎきれない冷気が流れ込む実家。名月を眺めずとも奪われていく体温。とかく体温は逃がさないようにするものであるが、言語道断。逃げの姿勢というものだ。試されているのである。勇敢に立ち向かわずにどうする。生み出す。

体温を、生み出す。

いま、実家のデスクトップで執筆している。インターネットエクスプローラーのタブは二つ開いている。一つはブログ、一つは、YouTube。流れているのは、残酷な天使のテーゼ。

そして僕は座ってはいない。

立ち上がって、往年の小室哲哉がキーボードを弾くかの如くタイピングをしている。残酷な天使のテーゼにノリノリになりながら両手に渾身の力を込めている。

めっちゃポカポカしてきている。

 

3代前くらいの昔、北海道を切り拓いた賢人たちがいた。彼らは攻めた。不毛な寒いだけの大地に根を下ろして根性で街を作った。文化を作った。その子孫が毛布にくるまってぬくぬくしていいはずがあるか。

攻める。動く。生み出す。

逃げていく熱は見送り、また新たな熱を作る。去る者は追わず来る者は拒まず。自転車操業と侮るなかれ、熱が生み出されるだけでなく、なんとなくスッキリする。大して降り積もっていないストレスの類が一掃されている気がする。

 

後、3日。

寒がりながら、温まりながら、精一杯楽しみたいと思います。

水のように飲み、泥のように酔う

蝶のように舞い、蜂のように刺したのはモハメドアリであるが、水のように飲み、泥のように酔ったのが昨日の僕である。

幸いにも会社の先輩の結婚式の二次会に呼んでいただいたため、文字通りの酔狂。たくさん飲み、騒ぎ、歌い、手に入れたものは以下。

・忘れ物のiPhone

・忘れ物の引き出物

・忘れ得ぬ可愛い子の連絡先

iPhoneは持ち主がわかり、早急にお届けすることで決着。

忘れ物の引き出物は誰のものか全くわからないので拝借。

連絡先は交換したまではいいものの、泥酔状態の僕は薄暗闇の中で頭で思ってた子と違う子の連絡先を獲得していたことが敗着となった。もう連絡取ることはないだろう。

 

そして僕は今空の上にいる。帰省である。

盆も正月が忙しいお仕事のため、これが夏休みとなる。

前後不覚の極致にあった昨晩、総武線の終電が遅延していたことは覚えているのだが、どこからどう帰って総武線の終電に乗ったのかわからない。もちろん、家に帰ってからのことも覚えていない。お吸い物を作っていたようだ。少しでも酔いを覚ましたかったのかもしれない。

そんなずっぶずぶのコンディションを引きずってもなお、地元に帰る帰巣本能は強かった。ちゃんと起きた。頭痛に起こされた。

 

空から見るオホーツクは相変わらず綺麗である。山と畑の織りなす景色。東京の密度からは考えられない雄大さがやはりある。

畑で採れた玉ねぎやジャガイモは、遥か都会のポテトサラダとかになるのだろう。川上から川下に行くに従って川幅は広がるのが常なのに、広大な土地で採れたものはどんどんと狭い世界へ収斂されて行く。絡まるお金だけが広がっていく。

 

さて、着いたので筆を置く。

吐かなかった自分に賛辞を送りたい。

 

この文章は10月1日午後1時に執筆いたしました。

本当のところ、「やばい」の何がやばいのか

スタバで隣に座った「やばい」コミュニケーションの権化である女子大生と思わしき集団と、どんな主張に対しても「やばー」で済ませてしまう貴方に捧ぐ。

「やばい」

〔「やば」の形容詞化。もと,盗人香具師(やし)などの隠語

身に危険が迫るさま。あぶない。 「 - ・いぞ,逃げろ
不都合予想される。 「この成績では-・いな」
若者言葉で,すごい。自身心情が,ひどく揺さぶられている様子についていう。 「この曲,-・いよ」 〔若者言葉では「格好良い」を意味する肯定的文脈から,「困った」を意味する否定的文脈まで,広く感動詞的に用いられる〕
 
weblio辞書より引用

 

「やばい」とは便利な言葉で、ありとあらゆる心情を表すことができる。しかし、「やばい」がまかり通る世界は相当やばい。「やばい」が今のような絶対的地位を築き出した当初、方々から指摘されていた「やばい」のやばさを、僕はやっと実感してきている。果たして「やばい」の何が本当にやばいのか。考えてみたい。

 

「やばい」が表す範囲

「やばい」はとにかくどんな文脈にでも顔を出す。

先に引用したweblio辞書による「やばい」の説明であるが、weblio辞書でいう③の用法を応用・乱用すると、「やばい」が修飾できる言葉は全て「やばい」で表せてしまう。しかも、「自身の心情がひどく揺さぶられている」という状態を「やばい」とするわけだから、知覚できる言葉全てに「やばい」は修飾しうる。肯定と否定はもちろんのこと、歓喜、消沈、焦燥、快楽、危機。あらゆる感情あらゆる状態を十把一からげにしてしまえる。

やばい(くらいに嬉しい)。

やばい(くらいに悲しい)。

やばい(くらいにトイレ行きたい)。

極端な話、人が行うことや感じることについては、「やばい」で表せないことはない。

また、①の用法は、「(〇〇だから)やばい」という、帰結として用いられる「やばい」であるし、②は出川哲朗氏の「やばい」である。

 

実際の「やばい」の使われ方

辞書的な意味を傍らに日常を見渡した時、「やばい」には大きく二つの使われ方があるように思う。

  • 反射的用法
  • 感想的用法

勝手に名付けた。

 

まず一つ目の反射的用法。

とっさの「やばい」だ。これはwablioでいう①の用法である。

あらゆる感情が「やばい」と結びついてきているのは先述の通りであるが、そういった環境で育った世代は不意に起こった出来事について「やばい」を繰り出す傾向にある。

横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

やばい! 

朝起きて時計を見た。寝坊してた。

やばい!

どちらも「やばい」。どこまでも「やばい」シチュエーションである。

「やばい」の反射的用法では、「やばい」の後の咄嗟が省略されている。「やばい!避けろ!」であったり、「やばい!寝坊した!」であったり。今や、「うわ!」とか「あ!」とかの間投詞(感動詞?)と同じ列で語られる言葉となっており、言葉自体に大きな意味はないように見える。

 

問題は二つ目、感想的用法である。weblioでいう、②と③の用法の混合だろうか。

先述の通り、「やばい」は、何にでも修飾するし、「やばい」の主語は省略できてしまう。すると、お互いが同じ状況を共有している時、「やばい」のみで会話が完結してしまう。

二人で横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

A「やばい!」

B「うわー、今の車まじやばかったね」

A「うん、まじやばかった」

こういう会話は巷でめっちゃ多い。

 

あまりに「やばい」だけで話が通じてしまう。「やばい」さえ用いれればある程度の会話がこなせてしまう。そのような「やばい」コミュニケーションにこそ問題が潜んでいる。

 

「やばい」が伝えるもの

余談となるが、今年「けものフレンズ」というアニメがカルト的な人気を博した。

kemono-friends.jp

放送当初、「IQが溶けるアニメ」として取り上げられていたのをよく覚えている。

IQが溶ける要因は作品が持つゆるい雰囲気と、作品内で登場する語彙量の少なさによるものだった。

「すごーい」

「わーい」

「きみは〇〇が得意なフレンズなんだねー」

あらかたどんな刺激に対しても「すごーい」とレスポンスするキャラクター達。脳みそをストップさせる魔力を秘めていた。

昨今の「やばい」と、けものフレンズにおける「すごーい」は殆ど同じ作用を持っている。何がやばくて何がすごいのか知らなくてもお話は進んで行く。

「やばい」において最も大切なことは「やばい」の後ろに続く言葉である。ひっくり返っても「やばい」は感情の程度を表すだけであり、何が「やばい」のかは説明してくれない。

ただ、話だけは通じてしまう。

すると僕たちは錯覚を起こす。「やばい」でコミュニケーションをとっている。「やばい」に意味が含まれる。そう考える。「やばい」の隠れ蓑に包まれた伝えるべき気持ちは見過ごされたままに。

 

言葉で考える僕たちにとっての「やばい」

よほど特殊な人(天才とかの類)でない限り、僕らは言葉を用い、言葉で考える。いくらデザイン思考が叫ばれる世の中でも、思考の枠組みは言葉で決められている。

そんな僕たちが、である。「やばい」のその先を考えなくなったとしたら。

別に通じればいいじゃんって言われたらそれまでだし、正直、コミュニケーションを取るだけであれば「やばい」で事足りてしまう。

ただ、仮に対人関係は「やばい」で切り抜けられたとしても、自分の中で考えをまとめるとき、「やばい」だけではどうしようもない。

今の「やばい」はどこがどう「やばい」のか。

これを考えければならない。

なんとなく「やばい」で済ませてしまうと本当にやばい。虚無である。空っぽである。もはや言葉を用いる動物の特権である思考を放棄しているに等しい。

確かに、「やばい」しか感想を抱けないことはあるだろう。

圧倒的に頭の回転の速い人間に出会って、淀みなく異論の返しようのない話をぶちかまされたときとか、「やばい」でしかなくなる。不慣れな映画を観て、何がいいんだかの正体がわからないまま感動はしたときなんかは、「やばい」である。

しかし、食らいつく。食らいつかなければならない。頭の回転速いマンの話を一生懸命反芻して「こういうこと?」って訊いてみなければならない。また、映画を観た後、訳の分からない「やばい」の原因を辿らなければならない。

訊ねること、原因を辿ることこそが思考であり、思考こそが「やばい」に隠された本当の気持ちと出会う唯一の手段である。

 

「やばい」を暴け

コミュニケーション上の「やばい」は類を見ないほどに優秀であることは書いてきた通りで、僕もその恩恵に預かっている。

だがやはり、使い分けが肝心である。

「やばい」で完結させてしまっていい部分と、「やばい」から一歩先んじて考えなければいけない部分。両者をしっかりと見極めねばならない。

「やばい」で終わらせてはいけないことを「やばい」で丸め込んでしまうこと。思考をストップさせる力を持っていることこそが「やばい」のやばさなのである。

 

こうやって書いているブログであるが、「やばい」的視点からすれば、「やばい」の正体を暴こうともがいている醜態だと言える。

洗濯物干すのやばい

買い物行くのまじやばい

電車からの風景やばい

この曲やばい

この本やばい

今感じた「やばい」ってなんだ。ほとばしる「やばい」の理由はどこにあるんだ。日々の「やばい」を切り取って、「やばい」で済ませないように立ち向かっている。酷く内省的な作業を恥じらいながらも大っぴらに行っている。

 

別に「やばい」の先を考える手段としてブログがいいとも思わない。考えられるのであればなんだっていいと思う。

 

大事なことは考えること。「やばい」で終わらせないことだ。

 

 

ヤバみ

ヤバみ

 

 

僕とイクラとコレステロール

北海道は北見。オホーツク海とサロマ湖を傍らに据えた極寒の土地。海には流氷、湖は全面結氷。田舎は田舎だが、10万人ちょっとの人口を抱える街はそこそこ栄え、特段の不便を感じない。

 

ご飯美味しいんでしょう?北海道はいいよねえ。

 

これまでの人生、方々で言われたが、実際北海道のご飯が特別美味しいとは思わなかった。母の実家は千葉県佐倉市。佐倉のご飯も食べてはいたが、どちらが美味しいとか、あまりわからなかった。

しかし上京後、東京の居酒屋でホッケを注文した時に北海道の偉大さを知った。大きさがまるで違った。脂の乗り方も違った。東京のホッケはイワシ同然のサイズ感に、どうもパサパサした身。チワワとレトリバーを見て、「どっちも同じ犬なのかよ…」と思うのと同様に「どっちも同じホッケなのかよ…」と思った。それくらいに違った。

 

比べてみたらイケてる海の幸事情を痛感したのが、イクラであった。

世の中では、イクラって高いんですね。

我が家では、伯母が季節になると必ずイクラの醤油漬けを作ってくれて、僕はそのイクラご飯をこよなく愛した。また、父親の友人が漁師で、そこからもイクラの醤油漬けがふんだんに提供されていた。遠慮もせずにイクラを食べまくった。

回転寿司に行って、イクラが2カン250円くらいの列に並んでいたのを見て、なんでこんなにイクラは高いんだろうかと疑問を抱いたことがあった。が、実家にいる限りはほぼ自動的にイクラが湧いてきたため、物事の本質を考えるまで至らなかった。

改めて、上京。百貨店の催しで北海道展なるものがあることを知った。

北海道ってみんな好きって聞いてたけど本当に好きなんだねー。

呑気に眺めている場合じゃなかった。そこで巻き起こるイクラ狂想曲の旋律に戦慄した。

実家では湧いてきて然るべきはずのイクラを求めて、長蛇の列。しかもイクラ高い。イクラはいくら?ってダジャレで小学二年生当時の教室を爆笑の渦に巻き込んだ僕であったが、いくら?って気軽に聞いたら怪我をするような研ぎ澄まされた値段に群がる人々。イクラ、お前こんなに人気だったのか。貪ってごめん、雑に扱ってすまん。

割と数の子とかにも恵まれていた実家の台所事情。魚卵の尊さを知らずに育った僕のカルチャーショックであった。

 

季節が巡り、今年も伯母からイクラの醤油漬が送られてきた。昨日、必着日と必着時間に合わせて炊き上がったホッカホカのあきたこまちにイクラをかけて食べた。どこぞの物産展でどんなイクラを売っているのか知らないが、伯母のイクラは研ぎ澄まされた値段がついてるイクラよりもきっと美味しい。比べてないが、変な確信がある。イクラ嫌いの母親が伯母のイクラだけは食べられるのだ。相当美味しい。

 

今日も今日とてイクラを頬張ったが、世間的にはコレステロールが大変なことになるらしい。コレステロールとは何か。僕は知らないが、生命を頂くと上がる数値と考えている。卵の類は即ち、生命と栄養をまるっと食べていることとなる。贅沢甚だしい。

しかし、生きるための身体を頂いているのだ。栄養が不足しているわけなかろう。僕はイクラが好きで、数の子が好きで、ひいてはオムレツ玉子焼きオムライス全部好きだ。

たぶん、コレステロールとは罪の数なのだろう。生命を頂く愚かしさ。それを生々しく突きつけてくれる。

コレステロールがオーバーフローするとどうなるのだろうか。なんとなく血液がドロドロになる気がする。血管が詰まる気がする。

コレステロールの英才教育を受けた身として、捨て身でも生命を頂き続けようと思う。

何しろ、イクラが美味しいのだ。

昨年よりもひとパック多く貰えたイクラ。大切に食べていこうと思う。

にしても美味かった。サンキューおばちゃん。

もうちょっと寝る

今日はお休みだからもうちょっと寝る。

これができない人間だった。酒に酔っているわけでもない朝、一度起きたらおいそれともう一度寝られないタイプの人間だった。ここで起きたが百年目。いそいそと弁当を作るなり、休みだったら起きだして飯食って掃除しだすなり、そういう人間だった。

過日、友人の怠惰な一日を聞いた。

8時起床、もうちょっと寝られるな、14時。勿体無いことしたな。ソファに座る。まどろむ。16時。出かけたいけど外は雨、ぼんやりする。20時。ご飯食べる。21時。テレビ見る。24時。寝る。

疲れてたんでしょう。多忙な毎日ですものね。同情を禁じ得ないほどに寝てしかいない一日を目の当たりにして、なるほど人とはここまで寝られるものなのかと知った。さらに友人自身、勿体無いことをしたと思いながらも、ちょっと身長が伸びたとイタく満足げであった。

 

一度寝てみよう。がっつり二度寝をしてみよう。興味が湧いた。

そういうわけで、寝てみた。本日休日。最初の起床はいつも通り6時。さあ、起きるか、どうするか。僕は心を鬼にして再び眼を瞑った。7時。ここが分水嶺である。起きてしまえばいつもの僕である。やはり、常に新しい地平を切り開かねばならない。未踏の地に踏み出していかねばならない。7時に起きて、なんとなく瞼の上がモヤモヤした休日を過ごす。それは日々過ごしてきた休日である。気合い入れて寝て、どこまですっきりするのか。戦うべきであった。戦わなければならなかった。

次に起きた時、9時50分であった。ほぼ10時。

十分であった。普段であればバキバキに動き散らかしている時間。なんなら買い出しすらも済んでいる時間にのこのこと起きた。勿体無いことしたなと思った。しかし、一度目を覚まして見ると普段との瞼の軽さに驚いた。

初めてメガネをかけて学校へ行った時の感覚に近いかもしれない。

あまりメガネをかけたくなくって、必死こいて眼を凝らしまくった視力検査。なんならランドルト環の空いている方を記憶してまで視力を保ったふりをしていたが、遺伝には抗えず、小学四年生にてついにメガネ族の仲間入りを果たした。

黒板ってこんなにみやすいのか。あの衝撃は忘れ得ぬものである。

 

今朝の衝撃も同値だった。瞼ってこんなに軽いのか。スッキリするものなのか。

僕は常日頃、「短時間睡眠はスリープモード、長時間睡眠は再起動説」を唱えている。短時間睡眠であれば立ち上がりは早いが、ずっとゴリ押すと動作が鈍ってくる。たまに再起動をすると立ち上がりは遅いが、動作にキレが戻る。

此度、再起動に近い睡眠を貪ったが、割とスッキリ起きられた。何かが功を奏したに違いない。

寝てみて、10時ごろ起きたわけだが、割とまだ寝られるなと感じた。若いからいつまでも寝られるでしょうと諸先輩がたに言われてもなかなか実感できずにいたこれまでだが、いつまででも寝られそうである。

穏やかな休日が始まりました。

顎・輪郭線にできたデキモノが憎い

著しくQOLを低下させられている。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

歴史は繰り返すという。磯田道史の著書を読んでもなるほどなと思う。人間の本質なんてそう簡単に変わりはしない。

ポルノグラフィティも謳う。

僕らが生まれてくるずっとずっと前にはもう アポロ11号は月に行ったっていうのに

僕らはこの街がまだジャングルだった頃から 変わらない愛の形探している

僕は顎の輪郭線にできるニキビの治し方を探している。二年前も、今も。

 

特段美しい顔を持ち、それで商売をしているわけではないので、多少の凸凹が顔にできても別に構わないと思っている。だが、目下腫れている状況だと、とにかく患部が気になって仕方ない。輪郭に喉仏ができたみたいになっている。

ニキビの原因は皮脂の詰まりが原因だという。皮脂が毛穴に詰まって、ニキビができて、炎症を起こしたりして腫れ出す。現段階を顧みると、相当腫れてしまっている。どうやら僕の輪郭付近の毛穴は皮脂で詰まりまくっているようだ。

なぜ輪郭か。輪郭だけをおろそかにしていたのだろうか。顔を洗うときに輪郭だけちょっと洗いきれていなかったとか、そんなことあるのだろうか。

奥歯が虫歯になるメカニズムはよくわかる。奥歯は得てして食べカスが詰まりやすいだろうし、ブラッシングの手が届きにくい。液体ハミガキは全口腔内にくまなく行き届くからおすすめだよ!という話。

いいとして、翻って輪郭線はどうだ。特別に皮脂が詰まりやすい構造をしているわけでもあるまい。ジメジメもしていない。風通しもいい。新しい地図でも描けそうである。さらに髭剃り過程で必ず輪郭には洗顔の手がいく。これほどまでにニキビ醸成に適さなそうな場所に、エラい爆弾を抱えてしまっている。

 

触るなという。むちゃくちゃを言うな。

目の前に富士山があるとする。どうする?見るだろう。仰ぎ見て、あぁ、富士の峰だ。峰不二子だ。と、シンメトリーの美学に眼福するだろう。じゃあ、顎の輪郭線に富士の峰を抱えたとして、無視していられるだろうか。否。確実に触る。存在感が無視させない。僕を捉えて離さない。

気がつくと中尾彬のようなポーズをとっている。顎を撫ぜるふりしてニキビにちょっかいをかけている。気がつくと頬杖を付いている。物憂げに思索に耽けるふりをして、ニキビにちょっかいをかけている。手のひらで包み込めば少し暖かく、指先で触れば絶妙な弾力で跳ね返してくる。興味が尽きない。

そうしてまた育つ。顎の富士がじわじわと膨れていく。

噴火は近い。

僕がSNSを苦手とする理由

昨日、以下のようなセッションがあった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

概ね、初めまして同士がコンタクトを取り合うのだが、四の五の言う前に皆様がスマホを取り出してFacebookで友達申請を送ったことに僕は心の腰が抜けた。ヘナヘナ。

古くは、村から出ないまま村の中のコミュニティのみで生涯を閉じるものが多かったと聞いている。せいぜい、藩の中。一生に一度の遠出が、御陰参り。代々継ぎ足し継ぎ足しされてきた濃厚ソースのような熟成っぷりを見せていた人間関係だが、ここのところ爆発的な広がりを見せている。

 

SNS

 

ゆるい繋がり、遠浅の繋がり。TwitterやFacebookのお陰で世界は繋がる。

しかし、僕は心底SNSが苦手である。ブログでは割と雄弁なのだが、いざTwitter、いざFacebookとなると尻込みが止まらない。なぜだろう。なぜなのだろう。以下である。

 

僕が持つSNSへの固定観念

第一に、SNSとは自らの動向、主義、主張、趣味、趣向を他者に発信するツールであると考えている。自らの情報を不特定多数にさらけ出して、何らかのアクションを貰う。似通った考えの人たちが、それこそゆるーく繋がる。誰かの賛同を得る快感たるや、筆舌に尽くせない。

現代において、SNSに参画しオンラインで繋がるということ。それは発信者からすると自分の中身を曝け出し、受信者からすると他人の中身を垣間見ることと同義であろう。

 

顔見知りに自分の中身を曝け出すということ

TwitterもFacebookも、大抵は知り合い同士で繋がる。そして知り合い同士の主義主張を伝え合うこととなる。

僕はそもそも顔見知りが苦手である。遠い昔に一期一会した気がする…くらいの、浅くて古い友人が苦手だ。地元に帰って、街ですれ違うだけでもドギマギするのに、そんな人たちに主義主張を曝け出すことが怖い。恐怖である。

かたや、ブログは違う。自分の所属するコミュニティとは別方向に開けている。自分のことを知らない人に自分を曝け出す楽さったらない。旅の恥はかき捨て理論。

 

自己顕示欲と自信のなさのせめぎ合い

自分のことを知られたくない気持ち。それは自信のなさの表れである。間違いない。

僕、こんなことしてます!こんなこと考えてます!こんな記事に興味持ちました!この記事に出てる人、僕の知り合いです!

主義主張に自信があるから、叫べる。趣味趣向に自信があるから、繋がれる。

僕は自分にそこまでの自信が持てない。なんとなく、相手の反応とか考えてしまう。だから僕はSNSに誕生日を登録するのをやめたのだ。生まれた日をゆるい繋がりの人に機械的に祝われることに自信がない。

でも、顕示欲は止まらない。

だからブログを書く。読んで欲しい人には、ブログを教える。が、基本的には見ず知らずの人が読んでいる。楽。昔の村社会が一家伝承秘伝のソースだとしたら、SNS連中は中濃ソース、ブログはウスターソース。そんな感じのイメージを持っている。各々やれる範囲の顕示欲解消法を見出して生きているのだろう。僕は、ブログ程度のシャバシャバな付き合いであれば自己顕示できる。そういうことだ。

 

実際に繋がって何かを起こすためには

昨日拝見した限りでは、Facebookから仕事が生まれるようである。オンラインからオフラインの仕事が生まれたり、オフラインで出会って、オンラインで繋がってそのまま仕事が生まれたりする。仕事となるとシャバシャバな付き合いじゃ困る。ある程度の濃度の関係になるには、互いの主義主張趣味趣向を伝え合うリスクくらい必要なのだろう。なんとなくわかった気がする。

 

 

結局、何を求めるかである。SNSに。

誰かと何かを実らせたいなら日頃からオンラインとオフラインを行き来しながらコミュニケーションを築かなきゃいけないし、ただひたすらに書き殴りたいだけなら文章をしこたま書いてしこたま落としていけばいい。スタンスの違いだ。

そう、つまり、昨日はオンラインで実らせまくっている方々との邂逅だったわけで、当たり前のようにオンライン開帳をやり合っていたのだった。

別にこのブログで何が起こるわけでもなかろうが、案外興味を持ってもらえたり貰えなかったりしたので、少し顕示欲の幅と関わりの濃度を上げてもいいかなと思った。

 

こんだけ書かないと消化できないほど、SNSが苦手なのです。

同郷コン 〜シーシャバーでシーシャも飲まんと二酸化炭素を吐き出した夜長〜

そんなようなことをしてきた。

シーシャバーで同郷の人たちと今の仕事を踏まえてみた故郷を話してきた。
 
同窓の先輩がゴリゴリと開拓していった轍を後ろからトボトボ通って辿り着いたが水道橋の駅のホーム。見渡す限りの酔っ払い。酔っ払いのことを避けて通る酔っ払い。それを白い目で見る酔っ払い。
 
僕はレジのことをお勘定場って呼ぶ文化圏で仕事をしている。しかし、シーシャを吸う大義のもと集まった青年たちは結構カタカナを振り回して戦う文化圏で生きていたため、足りない頭を振り絞るのに苦心した。
火を見るより明らかなのは、これからの世の中を泳ぐためにはデジタルとかその界隈の知識が必要なことである。三歩歩いた後の鳥でもわかる。わかってはいるものの、お勘定場人間は知識が必要なことから先がわからない
 
何ができるのか。どう動いているのか。
デジタルマーケティングやデザインの世界でとにかく使われる言葉は「伝える」だった。少なくとも、デジタルは「伝える」ことはできる。さらに、得意らしい。
 
確かに、伝えなければ話にならない。
 
例えば野良猫が吉村作治ばりにエジプト文明の真理を悟っていても、奴らは猫語しか喋らないんでわからない。伝えられない。
しかし、グーグルやフェイスブック連中が生み出したネット広告のシステムによれば、猫語を解読した上でエジプト文明の真理を知りたがっている人々に対して猫が悟った真理を「伝える」ことができるらしい。コスト的にも猫の餌一食分程度のものだという。めっちゃ安い。
 
これは流石にすごい。結局、「名もなき●●」の情報が「●●」自体が好きな人たちに伝えられるという話である。格安で。
 
伝えられることを知った猫はめっちゃおいしい。伝えるサービスを使ってエジプト文明を知りたい集団にエジプト文明の真理を伝えられる。しかし、世の中そんな猫ばかりじゃない。伝えられることを知らない猫もいる。さらにその猫はメソポタミア文明の謎を解き明かしているらしい。じゃあ、「伝える」連中はどうするかというと、伝えられない猫に自分たちが「伝えられる」ことを「伝える」。
つまり、双方向に伝え続ける必要に迫られる。
 
けど、世の中猫語だけで回っているわけじゃなく、鹿語でインダス文明の秘密に迫った鹿もいるだろうし、ウサギ語で中国4000年の歴史を紐解いたウサギもいる。そしてどんなニッチな業界でも、掘りまくっていけばインダスや中国の歴史に恋い焦がれている人がいる。
知っている者、知っていることを知られていない者、知っている者がいることを知らない者。それぞれを繋げることが「伝える」活動であり、伝えたいから皆アドセンスに夢をみる。
 
ぶっちゃけこう書いていると、どんな営業もそんなもんだよなと思う。メーカーを探して、販路を開拓する。双方向への営業活動である。ただ、デジタルのマーケティングはどうやらその精度が高いようだし、検証もしやすいようで、より仕事してる感と世の中動いている感が得られるのだろう。実際話を聞いててめっちゃ魅力的だった。
一方で、広告界も飽和していてメガ企業たちが既存のパイを食い合い出しているらしい。そこで我々同郷の連中が郷土の何某に伝えられることを伝えられれば一つの掘り起こしになんじゃないのと、中小企業スピリッツに若干の火がついたところでお開きになった会であった。
 
まぁなんだ、劇的にこれから物語が動いていくとかそういうのは別にして、安穏とお勘定をしているような我が業界には中々いないタイプの方々に出会えたことが一つの収穫だと思うし、それこそグラウンドの砂を数えていたような凝り固まった頭がイスカンダルの彼方に飛んでいったような清々しさを覚えているので、なんだ、本当に良かったと思う。
よくぞ場を取り持ってくれた先輩にはまぁ身近な功労者として感謝申し上げると共に、関係各所の皆様にも渾身の謝辞をお伝えしたいと思う。
お伝え。

みなし残業と飲み放題

【結論】

みなし残業は働き放題と名称を変えるべき


【根拠】

・残業が発生すると申告する(みなす)主体は労働者である。

・仮に労働時間を規定しづらい職種だとしても、やはり労働者側こそ残業申請の主体であるべき。

・会社側が残業時間を一定時間数決める場合と、居酒屋側が客側の飲酒量を一定量と決めて飲み放題を提供する場合は酷似している(多くの場合会社または居酒屋が得をする仕組み)


【背景】

働き放題制度のもと働いている某製薬会社営業の友人が、「うちみなしなんだ…」と切ない顔をしていたのが不意に頭をよぎったと同時に、2時間800円という望外の格安飲み放題を提供している居酒屋の前を通りがかったところから、みなしってただの残業放題じゃん、働き放題じゃん、なんで勝手に残業時間を会社がみなしてんだろうか、飲み放題が「みなし飲酒制度」とかって名称だったらわかりにくくてしかたないだろ、などといったとっ散らかった思いに駆られ筆をとった。

別に働き放題が悪いわけではないと思うがしかし、働き放題と知らないでみなしの沼に突っ込んでいる人が一定数いるとすると、もうちょっとわかりやすい名前にしてもいいじゃん、みなし。と、考えている。

ピクミンと、一筆書きで家事を終わらせたい気持ち

向こうのスーパー、あっちのクリーニング屋さん、こっちの薬局、逆っ側の八百屋。

縦横無尽、東奔西走。休みの日の家事に余念がないここ最近である。なるたけ自由になる時間を増やしたい。別に自由になってめっちゃ生産するわけでもなんでもないのだが、何かしなきゃいけないプレッシャーに追われるのが嫌で嫌で、一気に終わらせる道を選んで、選んで、疲弊する。

ながらスマホは危険だが、買い出ししながら洗濯機回しは効率がいい。ながら東スポはおっさんだが、リステリンしながら食器洗いは効率がいい。そんな感じで、ながらながらながらとゴリゴリ済ましていく。

家の中だとどうせ5歩も歩けばどこへでもいけるし、多分全盛期のカールルイスだったらひとっ飛びで超えられる程度の広さしかないのだが、買い出しとなると全く話が異なる。それこそ東奔西走。縦横無尽。

行きたい場所、買いたいものをどうスムーズに済ませていくか。そこで求められるのは一筆書きの技術である。

向こうに行ったら向こうの諸事を全て終わらせてから向こうを離れる。同じ道は可能な限り二度通らない。重いものの買い出しは最後にする。重いものを持ったら裏通りを通った方が危なくない。諸々加味しながら最短ルートを選択していく。もちろん、家では洗濯が済んでいる。

 

 

ふと、ピクミンを思い出した。 

ピクミン

ピクミン

 

 

ゲームキューブが発売された当初に出てきたソフト。

ストロベリーフラワーが歌った主題歌も人気を博した。

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ピクミンは2、3とシリーズ化されて行ったが、僕は初代だけ持っていた。

初代ピクミンのストーリーをかいつまんで話すと、

見知らぬ星に不時着したキャプテン・オリマー。

故障した飛行船は30個のパーツがバラバラになって星に散らばってしまっているらしい。しかし、猛毒の大気に覆われた星でオリマーが生きられるのは酸素ボンベが保つ30日のみ。絶望の淵に立たされるオリマー。

しかし、その星でピクミンという(オリマーが名付けた)生物と出会う。従順なピクミン。さぁ、ピクミンたちと協力して30日以内に星を脱出しよう!

こんな感じである。

つまり、30日以内になんとか30個のパーツを集めればクリア。できなきゃゲームオーバー。単純な脱出ゲームである。

タイムリミットが決まっている中でパーツをうまく集めるためには。ちびっこのころの僕は考えた。最初は全くパーツを集められなかったが、攻略本の力を借り、クリアをした。そこからはどれだけ短時間で帰れるかのタイムアタックが始まった。攻略本のその先を切り拓いて行った。

確か最後は15日かそこらで全部のパーツを集めきった覚えがある。

クリアに何より大事だったのが段取りだった。

ピクミンが大所帯になると敵に気づかれて余計な時間がかかってしまう可能性がある。最小限のピクミンを連れて最小限の敵だけを倒して壁を壊す。壁を壊している間にピクミンを増やすため倒した敵をオニヨン(ピクミン孵化装置と思ってください)まで運搬する。運搬している間に新たなピクミンを連れていって橋を掛け、壁を開けていたピクミンたちを合流させる。橋を渡ってボスを倒してパーツを回収。先にオニヨンまで戻って孵化したピクミンを連れて、さっき開けた壁の向こうの敵を駆逐、パーツを回収。

とにかく時間とピクミンを無駄にしないオペレーションが求められた。当時の僕の集中力といったら凄かった。鬼気迫るものがあったに違いない。

多分、あのピクミンスピリッツが僕の中のどこかに根ざしていて、料理にしろ買い出しにしろ無駄を削ぎ落としたい人間になったのだろう。多少なりとも仕事にも活きてくれればいいのに。

 

キャプテン・オリマーを所定の半分の時間で星に返した後、キャプテン・オリマーは星で何をして過ごしたのだろうか。有意義な時間を過ごしたろうか。僕は、買い出しを効率よく終わらせた僕は、こうしてブログを訳も分からず書いている。

ちょっと隣に積んである本を貪ってきたいと思う。