徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

お歳暮商戦について、多少携わっている身として考えていること

お歳暮を贈られたことがあるでしょうか。

僕はあります。ほんの数回ですが。

 

縁あって、お仕事の一環でお歳暮に携わることと相成っている。

セイボといえば聖母マリア。キリスト系の幼稚園をでた身としては、ナザレの聖母、ベツレヘムの馬小屋を想起してしまいがちなセイボであるが、今は全く関係のない話。

 

 

お歳暮とは

小売り各社がここぞと声を大にする「お歳暮商戦」

つまり何なのかというと、「年に一度の大プレゼント交換会」である。

年末のご挨拶として、お世話になった方やご近所さん、遠方の親戚なんかに品物を贈る。多くの場合はお互いに贈り合う。

元を正せば先祖の霊に供物を捧げた御霊祭の名残が云々ということらしいが、この際どうでもいい。

 

 

お歳暮が苦しい

今でも年に一度(中元も合わせると年に2度)のプレゼント交換会として、存在感を見せるお歳暮ではあるが、ここ数年、露骨にお歳暮の受注が減っている。

売り上げ規模から行っても、縮小傾向にあることは間違いない。

その昔は1兆円を優に超える市場だったようだが、もう1兆円には届かない市場となった。

 

www.yano.co.jp

 

こんな素敵な調査がありました。*1

しかし、足元の売り上げも本当に落ちてる。

 

なぜ減っているか。当たり前のようにそれは、贈り、贈られる人の減少による。

つまり、プレゼント交換の輪の中から抜けていく人が多く、新規に参加してくれる人が少ない。

「文化の希薄化」と言ってしまえばそれまでなんですがしかし、それじゃ商売が面白くないだろう。

お歳暮に関わる身としては、やっぱりなんとかしてプレゼント交換会の輪を広げていきたい。

じゃあどうすればいいのか。

頭のいい人たちが色々と策を講じているようなんだけれども、市井の人として、貧の者として、ぼんやり考えていることをまとめてみたい。

 

 

なぜお歳暮を贈らなくなっているのか

なんでなのか。

考えるに、原因はいくつかある。

  • お歳暮を贈っていた人たちの高齢化(贈り主・贈り先の減少)
  • 贈ったら贈り返さなきゃいけない煩わしさからの逃避(贈り合うのはもう止めにしましょう合意の締結)
  • 年一とかではなく、カジュアルに繋がれるようになってしまった(SNSの隆盛)
  • モノが満ち足りた(物欲から承認欲へ)

どんなもんでしょうか。

 

お歳暮をタグ付けすると、多分「しきたり」とか「文化」とかだろう。

脈々と続いてきた文化やしきたりがここ最近でめちゃくそスクラップ&ビルドされている。

ひな祭り、端午の節句あたりも、少子化をの影響をもろに食らっている。

同じように、歳暮も高齢化の影響が直撃している。お歳暮のボリュームゾーンがこぞって高齢化している。自然と、母数が減っていく。

文化の担い手・文化の主役の母数が減ると、やっぱり文化の存続って厳しい。

 

また、贈り贈られなきゃいけないプレッシャーや煩わしさもあろう。

お祝いのお返しとかも、なんとなく頭の片隅にこびりついて離れない。

「やらなきゃいけないこと」が日常に発生すると、僕らは息苦しさを覚える。

できる限り快適な生活をと思うばかり、お歳暮を贈らなくなる。

お互いにもう贈るのやめましょう協定を結んだり、フェードアウトしたり、

手を替え品を替えお歳暮の総数を減らそうとする。

 

さらにはご挨拶が簡単にできるようになってしまった。

手紙の代わりのライン、お歳暮の代わりの「スタンプを贈る」

そんな文化が出て来ているだかいないだか。カジュアルに繋がれる・ゆるく繋がれる世界に堅苦しいご挨拶は煩わしいだけのでしょうか。

 

また、結局のところモノが満ち足りている世の中だとも言えるだろう。

昔はモノが価値の権化として君臨していたけれど、今は写真だとか体験だとか、モノじゃないものが価値を高めて来ている。モノより思い出とはよく言ったものだ。

するとプレゼント交換会という仕組み自体が前時代的に見られるのかもしれない。

いや、モノは足りてるし。欲しいものだけ買えればいいし。

そんな声が聞こえる。

 

 

お歳暮の売上を増やすために

簡単な話で、売上を増やすためには以下しかない。

  1. 贈る人を増やす(客数を増やす)
  2. 贈り先を増やす(客単価を上げる)
  3. 贈りものの単価を上げる(これも客単価を上げる)

売上が客数と客単価の掛け算で成り立っている以上、それ以外の選択肢はない。

贈り物の単価を上げるというのは、人と人との関わりの深さに委ねられてしまうので、お歳暮を提供する側とするとどうにもしようがない。

すると、我々の介在する余地があるのは、

贈る人を増やす・贈り先を増やすの二点になる。

お歳暮がプレゼント交換会の特性を持っている以上、この二点はほぼ同義だ。プレゼント交換会のプレイヤーを増やす。そういうことである。

 

 

お歳暮の牌をどう増やすか

贈る人を増やしたい、プレゼント交換会の参加者を増やしたい、と考えたとき、顧客像として二つの存在が仮定される。

  • お歳暮文化圏にいる人
  • 非お歳暮文化圏にいる人

お歳暮文化圏にいる人

つまり、すでにお歳暮を送る習慣がある人。プレゼント交換をしあっている人。

変な話、この層は黙っていてもお歳暮を贈る。どこから贈るかの違いはあれど、贈る。

しかし一方、

非お歳暮文化圏にいる人

この層は贈らない。年の瀬になったらお歳暮を贈ろうというアタマがそもそもない。

 

その上で会社規模で、お歳暮の牌を増やすためには以下が考えられる。

  • 他の会社から贈っていた人を我が社に引き寄せてくる(お歳暮文化圏内でのシェア増加)
  • これまでお歳暮を送っていなかった人が贈るように仕向ける(非お歳暮文化圏の開拓)

 

競合他社とのつばぜり合いだけ考えると、他社からどうやって顧客をぶんどってくるかというのは大切な事項だろう。

百貨店・スーパー各社がこぞって乗り換えキャンペーンを企てている。

だが結局、それは水が漏れている桶から各社が手酌で水を掬っているようなもので、全体の母数としての顧客は減るばかりだ。

だからなんとしても、非お歳暮文化圏から顧客を引っ張ってこなくてはならない。

お歳暮を新たに贈る人を増やさないと、そのうち死に市場になるのは見えている。

 

 

成功事例としてのハロウィン

あの騒ぎはどうしたものかと思う。本当にすごいことになった。

Facebook、Twitter、Instagramのインフラ化に美しいまでに乗じた文化隆盛。

消費マインドがどうこうとか、個人消費が低迷しているとか、ネガ要素をぶっ飛ばすだけの乱痴気がそこにある。

ハロウィンにおける消費というのは、歳暮とは真逆に位置すると考えている。

歳暮を、特定の人ににモノを贈る行為とすれば、

ハロウィンは、不特定の人と仮装(コト)をする行為。

歳暮が一対一の物々交換であるとすれば、

ハロウィンは、不特定多数との事象共有。

ある程度モノが満ち足りて、全国津々浦々どこでも同じものが手に入るようになった

物欲が踊り場を迎えた世の中で、上位次元の欲求として台頭した承認欲求

ハロウィンではモノを贈るでもなく、仮装した自分の姿をSNSでの披露し、承認欲求が満たされている。流行るわけだ。

すでにハロウィンの消費傾向も変化していて、2015年を潮目にフルチューン仮装から部分仮装へとカジュアル化しているらしい。

文化の変遷があまりにも早い。

だが、どちらにせよしばらくはこの承認欲求をどう満たしていくかが大衆消費をくすぐるキーにはなると思う。

 

 

具体的方策として

まず考えなければならないのは、お歳暮という文脈での贈り物がどこまで通用するかである。

上記の通り、モノへの欲求よりも承認欲求が優位になっている世の中で、モノを贈るシステムが通じるのか。

先出の調査にて、中元歳暮の消費は落ち込んでいる反面、ギフト全体の消費は上昇傾向にあると出ている。カジュアルなギフトは好調らしい。

少なくとも、モノは贈られているようである。

バレンタインデーしかり、父の日母の日しかり。

 

なぜカジュアルなギフトは好調なのだろうか。手軽さによるものか。

多分これ、カジュアルだからこそ工夫の余地があるということなんだろうと思う。

現在の歳暮ギフトの主流といえば、大手メーカーのビールやハム、ジュース、お菓子とか。

テンプレートテンプレートアンドテンプレート。テンプレート同士を贈りあっている状況である。

受注会社によって多少のラインナップの違いはあろうが、どの会社もカタログの半分は同様の品揃えなのではなかろうか。

猛烈に工夫の余地がない。

受注店としては可能なかぎり様々な商品を用意して特徴化を図っているが、結局は会社側が用意したカタログから選ぶ仕組みには変わりない。

対してバレンタインデーはどうだろう。

自作のチョコを贈る。レシピこそテンプレートになりがちかもしれないが、それだって無数に存在する。

どんな形にするか、どんなトッピングを入れるか。無限に工夫の余地がある。

それを写真に撮ってSNSにアップするまでが動線。見えるようだ。

散々いうけど、尚ハロウィンの工夫の余地をや

 

例えば、歳暮に何らかの形で工夫の余地を残したらどうか

お手紙が入れられる程度のものではなく、もっと根本的に、DIYしたものを贈るとか、稲作から関わった米を送るとか、そういうレベルで。

ここのところの動向からして、「私が作った」とか「私だけの」とか「私オリジナル」への渇望は途轍もない。

各々の特製品をお歳暮、ないしは「年末のご挨拶」として贈りあって、それぞれでSNSにアップとかしたら。

Facebookで無限に人の投稿を見てしまうあの心情をくすぐってやれはしないか。

水引アートが話題になるくらいだから、カジュアルお歳暮があっても全く不思議じゃないと思う。

ただ、いざ現在のように、全国規模の大プレゼント交換会をやるとなると、どうやって配送するねんみたいな諸問題が上がってくるだろうけど、たいていはドローンが解決してくれる。大丈夫。


承認欲求とプレゼント交換会の掛け合わせだが、きっと相性は悪くない。けど商売としてお金を発生させていこうとすると、やっぱりハードルが上がる。

売れんの?それ。

に口答えするには相当の気合いが求められる。そして萎える。

 

 

既存のお歳暮屋さんの限界

そうはいっても、今もなおお歳暮商戦は猛烈極まっており、いざスタートが切られてしまうと眼前の繰廻しに精一杯になってしまう。

嘘でも1兆円規模(若干満たない)の市場である。

現場にこれ以上の業務負担を増やすことを考えるとゾッとする。無理だ。

そのためだろう。既存のお歳暮屋さんは新規顧客開拓に消極的である。

既存の顧客等にとって便利なサービスへの注力、競合から顧客を呼び込む施策への注力がもっぱらだ。

でも、黙ってたらどこまでも牌は減っていく。下げ止まることはないだろう。

既存のお歳暮屋さんとしては、特命チームでも作って集客計る以外に道はない。でもそこに人的インフラを割くことはないと思う。

きっと人にもそんな余裕がない。

ほんと難しい。


 




スタートラインに立った時にはもう勝負は決まっている。

高校陸上部の恩師の言葉である。

準備段階で全て勝負は決待っている。スタートラインに立った段階での不確定要素なんて微々たるもの。

 

商売にしたってそうだ。

今日の売り上げ、今日の売り上げと売り上げを確認するのは、結果に過ぎない。それを受けてどうするかである。

もっと混め、もっと人集まれと、その場で念じても混まないし人は来ないし売れない。

来期に何を生かすか。

PDCAと言われるようだけれど、とかく季節労働のようなお歳暮のPDCAサイクル実にゆっくりである。

だからこそ一回一回の検討を大切にしなければならない。一回一回、新規開拓に真剣にならないといけない。

 

会社の末梢神経のような立ち位置にいるから、僕の意は大抵発せられた瞬間に雲散霧消する。

これが絶妙にサラリーマンのやる気を削いていくキーであると思うのだが、まぁそれは仕方ない。サラリーマンはそんなもんらしい。

「偉くなった時にやりましょう。」

いつか言われた言葉。典型的だ。それを隠れ蓑にして生きていくのは簡単だが、悲しい。

 

 

以上が、ここのところ感じていることです。

お歳暮、これからどうなっていくのでしょうか。また、どうなって行ったらいいものでしょうか。

どうしていくべきでしょうか。

*1:サイト内pdfよりご覧いただけるとありがたいです。貼り付けるのは怖いのでやめます。

ここ最近考えていることについて

ほとんど具体的なことは言わないし、言えない。

けど、このブログというものを書き続けている中で、拒食嘔吐気味になっていた反面、本当に嘔吐したいことを吐き出せてなかった感じがしていたので、なんとか書いていきたい。

 

人生を何にぶっこんでいくか

ばあちゃんが死んだことが一つ大きかった。

通夜と葬式でばあちゃんがどれだけ頑張って生きたかがよくわかった。彼女の人生の多くは家業の鉄工所のぶん回しに彩られていて、その関係の人たちが大挙して押し寄せた。つまり、ばあちゃんは家業に人生をぶっこんだということとなる。その家業も、山や谷、時代の追い風や向かい風もあったけど、それなりに誰かの力を借りてやりきってきた。乗り切って来れた。

また、およそ三年前に中四国を回って自分のルーツを探したこと。これも大きい。

肉親というか、遠い先祖に当たる人たちが北海道という未開の地に夢と希望を持って郷里を飛び出してきたという事実。そしてうまく北海道に根付いて、事業を起こしていった事実。

翻って、自分も何かできる気になるし、やっていかなければならない気持ちになる。

色々な人に自分のルーツを探した話をするが、その度に誰よりも心を揺さぶられているのは僕だ。滋賀の田んぼに囲まれて、沼島の絶海のほとりで、北海道を夢見た人間の子孫なんだと自らを奮い立たせた。その景色が今でも現れる。

20代を折り返した程度の人生だが、自分にどれだけ時間が余っているか知れない。

新聞を読んで、自分も何かできるかもしれないと思えるのはいつまでだろうか。やれるうちにやらないと絶対後悔する。

 

だから何に人生を賭けていくのか

ほんと具体的に何ができるのかって話。これが大事なのにも関わらず、ビビるくらいすっからかんでビビる。ビビり散らかす。

しかし今商売をしていて、地べたを持って、店舗で商売していくスタイルの強みと弱みとはなんとなく見えた気がしている。

アマゾンエフェクトアマゾンエフェクトと異口同音に賢そうな人たちが叫ぶ。

家から出ない・財布を出さない・現金を払わないスタイルの商売の強みというのは、ひとえに便利さである。びっくりするくらい便利。あと、現金を払わないから購入までの障壁が一つ減る。ある種の買い物してない感を味わえるために、ポンポン買い物をしてくれる。財布を出し渋る行為がない。脳みそストップショッピングである。

重ね重ね、びっくりするくらい便利なネットショップ略してアマゾンだが、実際に地べたを持って店舗を持って商売している連中に勝てない点があるとすれば、それは実体験である。当たり前だけど。

最近はインバウンドもコト消費に変化してきていると、これまた異口同音に賢そうな人たちが叫んでいる。国内消費も大概同じだろう。旅行客は増えているようだし、相変わらずUSJは絶好調。TDLも続く。そんな中我らが北海道の翼、AIR DOは人手不足で欠航が相次いでいて世も末感を禁じ得ないのだけれど、とりあえず頑張れって思う。

もので言えば化粧品がすごい。

外国人・日本人問わず、百貨店やドラッグストアで化粧品がバカ売れしててウハウハだというのは、化粧品が体験できる消費財かつ美容という女性の本能を揺さぶる代物だからだ。「本能レベルで求める、コトとして消費できるモノ」である。マジで金のなる木。野郎どもが本能で風俗店に出入りするのと同様に、女性は化粧品を求める。表現はクズだけど、どちらも金のなる木。そりゃ儲かるわ。

逆に、日用消耗品はガンガンネットショップで買うようになる。物自体の価値はどこで買っても一緒なので、使い心地を知っているものとか食べ心地・飲み心地を知っているものはネットの範疇。何しろ便利だから。ある種化粧品も「これ」と決まればネットに流れていくのだけど、美への欲求は決め打ちできないらしい。ガンガンみんな試しメイク(タッチアップっていうっぽい)しにいく。で、買う。

結局のところ、今のネットと店舗との関係は

「想像の範疇=ネット、想像の外=店舗」と表せる。

ネットとしたら、どれだけ個人を相手にしたマーケティングを詰めていけるか(オススメの動画機能やあなたへのおすすめ商品機能)に注力しているし、店舗はどんな体験をしてもらえるか(顧客体験型のイベント、それを生かした商品紹介)に注力している。

顧客個人のペルソナを仮定する正確さはネットに軍配があがるが、満塁ホームランのような、こんな商品買おうと思ってなかったけどがっつり心奪われて買っちゃった体験を創出できるのは店舗である。一長一短。

 

さて、僕も人生を賭けて商売はしていく気でいる。

で、何を使って、何を売って何を売らなくて、どこにいるのをやめてどこで生きていくのか。これを選ぶこととなる。

僕にも家業がある。

ひいじいちゃんが北海道に入植してきてから続く本屋が僕の家だ。

小学三年生の頃書いた作文からして家業を継ぐとしたためていたくらいだから、余程教育の仕方がよかったのだろう。実家大好き人間である。

というか、実家・地元が好きでたまらないというよりは、ひいじいちゃんが起こした店を屋号をそう簡単に潰しちゃならないだろうという気持ちでいる。今は100年も前から続いている本屋という形態をとっているが、別にそれがどういう方法であってもうちの店が続いていけばそれでいい。本は売りやすいだろうけども。

じゃあ、本は本として、手前の代で何を為すのか。

これをなんとも定めかねている。

 

一つ、可能性を感じているのは、文化を興すこと。文化商売。

年の瀬になってお歳暮のCMがよく流れる。僕もあの商戦に与している。現場にいて思うのは、文化が持つ購買意欲の高さだ。

お歳暮に関してはもはや購買行動とすら思っていない人が多い。

「お歳暮は送るもの。お付き合いとして不可欠なもの。」そういった方たちがたくさんいらっしゃって、おかげで僕らお歳暮に関わる人間が少しずつ食べていける。贈る人よし、貰う人よし、メーカーよし、仲介業者よし。配送業者は最近苦しいけれど、概ねみんな嬉しい商売である。

さらに、文化には多くの人が参加する。人が集まってこその文化。

パンクバンドのライブで、アーティストが客に向かってダイブするのを見たことがあるだろう。あれは、たくさんの人が支えてくれる前提で飛び込む。仮に一人が支えてくれなくても、大密集した人間がそれとなく支える。大コケがなくなるのだ。

チリツモの究極系のような売れ方。それが文化稼業。

自社的にもある程度売上の見込みが立つメリットもあれば、多くの人のお金を掘り起こすメリットもある。

最近はやりのビットコイン。ビットコインを稼ぐ(増やす)ことをマイニングと表現するのは有名だろう。「掘り起こす」という意味の単語となる。実際は暗号を解いてブロックチェーンを繋げる行為のようなんだけど、「掘り起こす」という単語はすごくいいと思う。

一人の100万円と100万人の一円。額は一緒でも後者の方が効果としては大きい。100万人が一気に手を引くことも考えにくければ、100万人のうちの50万人が五円出してもいいかなって思う可能性がある。100万人の財布を掘り起こす。それが文化だ。

何かしらそういった商売を企てたいんだけど、具体的な話が全く思いつかない。

なんかないかなーって考えながら生きてたらきっと不意に何かを捕まえられると信じて生きてる。真っ最中である。

 

全然シラフなんだけどめっちゃ眠いから一旦筆を置いて明日の朝にでも恥ずかしがってみる。では。

チャットモンチーの解散に寄せて

ゆとり世代の僕らが過ごした思春期を紐解いた時、彼女たちの楽曲は必ずどこかで鳴っている。

 

初めて「チャットモンチー」の名前を聞いた瞬間を僕ははっきり覚えている。

中学二年生、学校、階段の踊り場。どこの世にも中学生くらいで夜更かしを覚えるやつが出てくる。そんなマセた友人が、前日のカウントダウンTVの話をしてくれた。

チャットモンチーのシャングリラがいい。

僕はその時点でチャットモンチーを知らなかった。「チャットモンキー」と誤認して、家に帰り、覚え始めたパソコンでPVを探した。youtubeが普及していない中、どう考えても違法にアップされている文字化けだらけのサイトでチャットモンチーを初めて聴いた。

チャットモンキーじゃないじゃん…モンチーじゃん…

聞き間違えの恥ずかしさを抱えながら聴いたシャングリラ。ORANGE RANGEとBUMP OF CHICKENが全てだった僕には音楽を測る定規がなかった。それなりに、ただそれなりに、曲を聴いていた。

なんとなくマイナーなコードで進むシャングリラは、強烈な名曲だと思わなかった。

ただ、ボーカルの声が可愛かった。

 

高校に入って、バンドをやるようになった。お遊びと言われてしかるべき、ちゃっちいバンドだった。

けど、ボーカルの子がチャットモンチーが好きだったので、シャングリラをコピーした。どうせならしっかり聴こうと思い。アルバム「生命力」を借りた。

 

生命力

生命力

 

 

今でも聴いている。名盤である。

スリーピースバンドで、無理せず鳴らせる音のみで構成された楽曲群。余計な音がないから、メロの良さとか特徴的な声、演奏が際立つ。

定期テストで上から何番に入ったら買ってやるって言われて、必死こいて勉強して買ってもらったエレキギターでシャングリラを弾いた。びっくりするくらいにシンプルなギターソロに涙流すほど苦労した。懐かしい思い出。

 

文化祭では「ヒラヒラヒラク秘密ノ扉」を友達が演っているのを聴いて、やっぱいい曲だってアルバム「告白」を買った。

 

告白

告白

 

 

これには「風吹けば恋」も入っている。

風吹けば恋は良い。もう、良い。

Aメロの絶妙な不安定さからサビへの開放感。サビのキャッチーなことキャッチーなこと。

だけどもうだめみたいだ なんだか近頃おかしいんだ

だけどもうだめみたいだ なんだか近頃おかしいんだ

走り出した足が止まらない 行け!行け!あの人のところまで

思春期のグズグズした葛藤や鬱屈した思いがぜーんぶ解き放たれるようなサビへの展開。大好き。ほんと好き。

 

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最初のドラム入っただけで愛しさと切なさと心強さがないまぜになった途轍もない感情に襲われる。こんな感情ををエモいと呼び出した奴は天才だと思うし、もれなくエモい。

なんとなくMVの絵面に時代を感じる。今や10年前の曲。十年一昔。あゝ無情。

 

「生命力」と「告白」を無限回リピートしていた頃、後輩が無類のチャットモンチー人間だったことが発覚し、彼から「表情」を借りた。

 

表情<Coupling Collection>

表情

 

 

「湯気」である。湯気の湯気による湯気のためのアルバム。

 

www.youtube.com

 

歌詞が先にできてたんだなぁ、あとからメロに突っ込んだんだなぁって、ありありと作成環境が目に浮かぶメロと歌詞。

 

歌詞だけ読んだら文学でしかないのに、普通にロックチューンに乗っけちゃうもんだから

ちんぷんかんぷんの数学

なんていう歌詞で謎のキメが入ったりする。

でも、全部含めて良い。

 

 

思春期に思春期としてチャットモンチーをたくさん取り入れ、思春期を過ぎた後はタイムマシンとしてよく聴いた。くみこんの脱退、ツーピースバンド、恒さん等の加入。ロキノンを読みながら、脇目でチャットモンチーを眺めていたが、あの頃のように夢中になって聴くことはなかった。

都合よくチャットモンチーを消費して、解散に触れて都合よく悲しい気持ちになる都合のいい人間だ。

こうして書いている間も、iTunesで生命力を流している。

雪の中の通学路や真夏のグラウンドが簡単にフィードバックしてくる。曲の内容よりも、景色が浮かぶ。気持ちが浮かぶ。良い気分である。

 

 

ゆとり世代の僕らが過ごした思春期を紐解いた時、彼女たちの楽曲は必ずどこかで鳴っている。

大変、お世話になりました。ありがとうございました。

今日したこと〜次回の引っ越しのために〜

健忘の健忘による健忘のための備忘行きます。

 

 

いる?いらない?を問答無用に捨てていく@タンス

 

捨てられる?捨てられない?を問答無用に捨てていく@燃やさないゴミ箱

 

一旦入れておこう。一旦しまっておこう。の一旦が積み重なった怠惰のミイラを根こそぎ取り除く@ダッシュボードの下

 

怠惰のミイラ化していた、未使用の各種クレジットカードを解約。解約という別れ話をしているというのに爽やか極まりないエポスカードカスタマーセンターのお姉さんの対応に、猛烈に解約したくなくなる。でも心を鬼にする。

 

引っ越しの見積もりをとる。単身パックでも3万〜7万と大きく相場に開きがあることにビビる。何が違うっていうんだ。3万と7万が隣接していて口コミも大差なかったら3万に流れるだろう。均衡価格とは。

 

人事に電話する。一体どこまで転居の準備をすればいいんですか。逆にどこまでやってくれるんですか。「会社関係のことは大丈夫ですよ〜〜」何が会社関係のことなんですか。「保険とか。マイナンバーとか。」結局よくわからず。住民票とかは僕の領分ですか。どこまでやるものなのでしょうか。後日要再確認。

 

新居でとにかくネットを早く使いたいのでNTTに電話。どんなプランに加入しているのか聞かれてしどろもどろになったり、ocnとNTTの区別が全然ついていないあんぽんたんを炸裂させた結果、お姉さまの声がちょっと曇る。自分のネット環境を把握していない本人が悪いですね。

 

プロバイダとフレッツ光の関係をそれとなく学ぶ。

搾乳を思い浮かべた。

インターネット=牛の乳

プロバイダ=搾乳機

ネット回線=パイプ

デバイス=受け皿

ぶっちゃけ喩えはなんでもよかった。とりあえず、インターネットを開通させるにはプロバイダが必要で、それをパソコンまで繋ぐためにはネット回線が必要。プロバイダとネット回線には相性がある。今はocnとフレッツ光を組み合わせている。特に変える気はない。安い。

 

引っ越すというのにアマゾンで買い物した水筒とか本とかを受け取る。物が増える。

 

住民票を取りに行く@区役所

四つ目通りがあまりにも真っ直ぐで、気持ち良さに任せたチャリンコデスドライブをかます。ケツ筋が逝去する。

 

祖母の四十九日に帰郷していた母を見送りに行く@羽田空港国内線ターミナル

これは全く引っ越しに関係ない。母の家についてひとしきり話す。

 

住民票を持って不動産屋に行く@五反田

入居日は12月16日に決まる。これを過ぎれば、いつでも鍵を渡してもらい、引っ越しができるようである。引っ越しの日を12月17日に定める。鍵もらう暇ないと泣きついたら、不動産屋のお兄ちゃんがなんとかしてくれるようであった。17日強行突破予定。

 

帰ってくる@家

本を読む。寒い。

今、ここである。

 

色々したけど、あんまり進んでない。

移動時間が多かったから色々考えたけど、あんまり実を結びそうにない。

無性にお腹いっぱいしゃぶしゃぶを食べたい気分である。

商売と数字

商売とは自身と他者に利益を生み出す行為である。

顧客には、顧客が欲しいサービスを提供する。

手前では、100円売って10円儲かる商売を11円儲かる商売にしていく。100円しか売れていなかったものを150円、200円と売れるようにしていく。

財務とか会計とか、そういった面に明るい人たちは、財務帳票をみて、キャッシュフローがどうこうと細かいところまで読み解けるのだろうが、現場で眼前の商売に取り憑かれている僕はそこまでの知識がない。学んでもいない。怠惰。

 

たくさん売るためにはどうすればいいか考えて、値入れ率をなるたけよくして、身の回りの経費を節約する。

これが僕にできうる商売。

 

サラリーマンとして薄給を食んでいる身。

生活の糧の出所は、会社の利益

であるからして、僕たちは当然のように会社の売上と利益とを把握しておかなければならない。手前の商売のことだろう、手前がわかっていなくてどうする。

今いくら売れてるから、いくらくらいを目標にしたい。これだけ売っても手元に少ししか残らないから、もっと経費を詰めたい。

現状を知らないことには建設的な話ができないのである。

 

つまり、数字への意識を強く持とうね!と言った話になる。

そして弊社ではこれができない人が多いと、社員教育に従事する人は嘆く。

一人一人が商売人となって云々。一人一人が経営マインドを云々。

ユニクロかと。

 

 

しかしこれ、どだい無理な話だと思うわけだ。

少なくとも、会社が押し付けたところで、社員は我が社の利益・売上を我が身のように考えられるようになるとは思えない。

 

例えば、冬の日の朝。猛烈な寒さで起きたとする。

気温が気になるだろう。この寒さは一体何度なんだ。そして、テレビをつける。

「今朝は今季一番の冷え込み。最低気温は…」

そんな話を聞いて、納得する。

 

この時の僕たちは驚くほどスムーズに数字を確認する

何故なら寒いからだ。「寒い」という強烈な実感。それが数字の確認に走らせる。

 

 

再三だが、サラリーマンとして薄給を食んでいる身。サラリーマンはとにかく守られている。守られる存在として、法律にも規定されている。

さらに組合が強ければ、会社の業績がどうあれ、給料は保証される。

結局、朝の猛烈な寒さなんかを、実感しないまま生きていけてしまう。

春や秋の適温の日の気温を特に気にしないように。

 

すると会社員が会社の業績を切に考える時というのはいつなのだろう。

例えば、会社が傾きかけたときとか、会社の株を買った時、経営する身になった時。

食いっぱぐれるかもしれない

配当が上がるかもしれない

沢山の株主の矢面に立って説明しないといけない

そんな身に迫る思いを抱くと、間違いなく数字を気にする。知らずにはいられなくなる。

 

そうではない、安穏市井のサラリーマンはどうすればいいのか。

これは、目の前の毛細血管の一部のような仕事を全力でやるしかない。

自分がいなくても勝手に回っている商売に体をねじ込んで、さも自分が回しているかのように振る舞うのだ。

可能な限り面白がって、可能な限りの工夫をもって取り組んだ仕事は、いくら売れていくのか必ず気になる。

その売上が、どの程度会社に貢献しているのかと、一生懸命大きな母体に食らいつく。

幾ばくか発想の飛躍が必要だが。

 

 

当事者意識をもって…

と語るのは簡単だし、瞬間的に感化されるのも簡単だ。

しかし、持続的な思考をするには自らの努力が不可欠となる。極端な話、いい加減どうにもならなかったら、会社もボーナスカットとかすればいいと思う。

止むに止まれず働くだろう。必死こくだろう。

 

身に迫る危機が起こるか、身が潤う事が起こるか、真剣にやるか。

切実になれる道は、どれかしかない。

真剣にやるのが望ましいが、気合いがいる。覚悟がいる。

どうせやるなら気合い入れてやりたいものだし、世の中そうあるべきだと思う。

炒飯もどき

今週のお題「得意料理」

この世に正確な円は存在しないが、円というと誰も様々な円を想起する。

そんなところからイデアを思いついたのがプラトンだった。個別の「もの」だけでなく、「物自体」を司る何か。それがイデアであり、興じてイデア界イデア論と発展していった。

 

毎日毎日弁当を作る身。得意料理の一つや二つあるのだが、炒めるしか脳がないあんぽんたん。弁当の中身といえば生姜焼きか、親子丼か、炒飯。大抵がこのローテーションである。

つまり、以上が僕の得意料理と言える。

中でも作る頻度が高いのが、炒飯である。

 

炒飯が便利なところといえば、一段で済む点にある。

僕はの弁当は仕切りというものを持たない。炒めてドン!ご飯詰めてドン!の二段弁当。すると、洗い物の時も2個分洗わねばならない。極めて面倒臭い。

そこで炒飯。あいつは便利だ。おかず兼主食という、完璧な存在として君臨している。さらに何を入れても炒飯として成り立つという長所も持つ。

高菜、生姜、ウインナー、卵、肉、玉ねぎ、人参、レタス、海鮮。

何が入ろうと、何が抜けようと、炒飯は炒飯。そんな側面がある。

 

便利使いをしまくっていた炒飯だが、はたと気がついた。僕が今食べているのは、作っているのは、果たして炒飯なのだろうか。確かに炒めている飯ではある。炒飯には違いない。でもよくあるパラパラな炒飯とは一線も二線も画する。玉ねぎから出た水分、冷凍していた人参から出た水分、謎の水分がどこからともなく湧いてきて、気づけばべちゃべちゃな雑炊よりの炒飯が出来上がる日もある。

 

でも僕はそれすらも炒飯と言って持って行っている。

果たして、何を持って炒飯というのか。炒飯のイデアとは。

 

しばらく考えて、諦めた。

当方、炒飯のことが熱烈に好きな炒飯マニアではない。生きるため仕方なしに炒飯を作っている退っ引き炒飯マンである。炒飯のイデアを探すほどのフリークにはなれないのである。

 

その瞬間から、僕の得意料理は炒飯もどきとなった。

炒飯ではない。似て非なるもの。

この論理からいくと割と世の中の全ての炒飯が炒飯もどきになりうる。炒飯を食べているようで炒飯もどきを食していたりする。カレーを作っていたつもりがカレーもどきを作っている場合だってある。

むしろ、イデアの世界から見ると、現世にあるもの全てがもどきだ。もどいてしかいない。そのものとして話題に上げることの方がおこがましい。

すなわち、「得意料理」というトピックの下に集まるであろうたくさんの料理たちは全て、「〇〇もどき」でしかない。

僕の炒飯が炒飯もどきであるように、である。

 

 

炒飯炒飯言ってると本当に炒飯食べたくなってきた。

 

 

どうでもいいけど、炒飯のイデアを定義するならこれだと思う。心底美味い。

1ヶ月間洗わないで放置していた炊飯ジャーを開けるときの恐怖

しばらく行っていなかったサークルにもう一度行ってみるときの恐怖

不登校復帰時の恐怖

 

一度蓋を閉めたものを、開ける。目を逸らしたものを、見つめる。

この類の恐怖は、僕が立ち向かう恐怖の中でも有数である。望んでか、望まずかはさておき、一度関わったものからしばし離れると、再度関わりを持つのが至極面倒になる。

面倒、いや、恐怖。恐怖である。

 

例えば、仕事。

やらなきゃならないらしいけど、具体的にいつまでとか言われていない仕事。

関係者からも特に催促されない。これは…やらなくていいのか?やるべきなのか?やれとは言われた。やったほうが望ましい。しかし、その後何も音沙汰がない。どうする。

こうなると、改めてエンジンをかけることはものすごく難しい。

なんとなくうやむやに、蓋を閉めて、見ないふりをして、忘れたふりをする。

大抵、その蓋が自ら開けられることはない。仕事関係者が不意に蓋を開けて確認して、めっちゃ腐っていることがバレて、叱責の対象になる。

仕事できない典型パターンである。

 

結局、すぐやる奴が勝つ。やることを見定め、ドミノにして、「すぐやるドミノ」をパタパタ倒していける奴が最強だ。

一度棚上げした諸事を棚から降ろすことほど面倒なことはない。

クローゼットに突っ込まれた、着るやら着ないやらわからない服を、断捨離とかではなく、日常的に捨てていける判断ができるか、否か。そこが本質。

 

「とりあえず今日のところはジャー洗わないでいいや、明日の朝にしよう」

「いつ出してもいい書類だからとりあえずここに置いておこう」

そういう奴は、平気で一ヶ月ジャー洗わないし、書類を出さない。

 

コツコツ勉強できる子が偉い

定期テストの度に痛感したあの感覚。自らの学力を棚卸しした際の無力感、情けなさ。

夏休みギリギリになって現実を直視した際の絶望感。

 

僕らは、いや、僕は、未だにあの頃と同じ後悔をして、生きている。反省もせずに。

いくつもの物事をいつでもできると視界の端に追いやって、見て見ぬ振りをしている。

 

そろそろやめたい。すぐやる人間を極めたい。

引っ越しを機にって思ってる。というこの思想が、典型的な明日やろうは馬鹿野郎人間の最たる例だ。

落ち葉になって腐葉土と化し、次の芽を育てていきたい。今度こそすぐやる人間になれるよう。

北見市のスーツ屋さんのDMが東京の自宅に届くことについて

某大手スーツ屋さんのDMが、セールの度に我が家に届く。多分、帰省の折に喪服を買った為であると思う。

「お買い上げ金額上位何名までDMを送付する」

という絞り込み方をしているのだろう。すごく気持ちはわかる。

 

だが果たして、このDMに意味はあるのだろうか。

広告にはほとほと疎いのだが、市井の人間として感じる。

 

 

店舗を持つ業態の小売店には必ず商圏が存在する。

主要顧客の居住地が商圏。おおよそ円状、ないしは、電車の沿線や幹線道路に沿って商圏は広がっている。都会のコンビニだと周囲100m程度の狭さだろうし、北海道のイオンだと周囲100kmにまで及ぶこともあるだろう。

インバウンドをはじめとした旅行客が落としていくお金も大きいが、店舗を持つ小売店においては、売り上げのほとんどが商圏内の顧客によって構成されている。

 

商圏を念頭に置いて売り上げを伸ばそうしたとき、ふた通りの考え方ができる。

  • 商圏内での売上を上げていく
  • 商圏を広げていく

顧客一人の購買額を増やしていくか、顧客自体を増やしていくか

とかく、商圏を広げるというのは難しい。新しい道路ができたとか、路線の乗り入れが始まって交通の便が良くなったとか、再開発でテコ入れして地域自体がスター状態に突入したとか、行政やディベロッパーの力を借りないことには商圏はおいそれと広がらない。

 

だから、商圏内での売上を上げていく方向に皆舵を取りがち。

僕だったらそうするし、多分みんなそうする。

 

商圏内でも、ふた通り、売上を上げる方法があることは想像がつく。

  • 既存顧客の売上を上げていく
  • 新規顧客を開拓する

先の二択とほぼ同じ二択である。

 

そうした中、販促策として今回のDMの機能はどう考えられるか。

誰に何を知らせてどうしたいのか。

「既存の顧客(お買い上げ実績のある顧客)にセールやイベントを知ってもらって、再来店を促す」

多分こんなところだろう。勝手にこんなところとする。

 

まず

「既存の顧客」の絞り込み方。

これがDMの成否を握っている。

 

上にも書いたが恐らく、地元の某スーツ店は顧客の絞り込み方として

「お買い上げ金額上位何名までDMを送付する」

という方法を用いている。想像の範囲だけど。

「ここ1〜2年でたくさん買ってくれた人はきっともう一回買ってくれる可能性が高いはず。だから上からローラーかけてしまえ!」

この考え方は至極正しいと思う。変に奇を衒うよりは、購買実績とこれからの購買行動を比例させて考える方がいい。感覚的に納得がいく。

 

その為、たまたま昨冬のっぴきならない事情で喪服を買って多分ポイントカードかなんかを作った僕の元にDMが届いている

 

しかし、「既存の顧客」に「何を」伝えて「どうしたい」のか。

「何を」と「どうしたい」が変わると、「既存の顧客」の絞り込み方も変わってくる。

 

今回はセールのDMだった。

だから、「セールがあること」を伝えて、「来店して欲しい(買い物して欲しい)」のである。

ではそれが「お買い上げ金額上位何名」で括れるのかという話だ。

 

スーツ屋さんのDMが届いて、店舗に行くまでの顧客心理は以下だろう。

  • 「最近スーツが欲しい+DM宅着『セールやるよ!』=渡りに船!買い物行こう!」
  • 「DM宅着『セールやるよ!』+あ、そういえば最近スーツ足りない感じだった=買い物行こう!」

DMを送ったことで、購買意欲をくすぐるか、購買の後押しをする。

あったりまえだが、「買い物行こう!」に結実しないことにはDM送る意味はない。



僕は今東京に住んでいる。

おもっくそ商圏外である。

おわかりいただけるだろうが、「セールやるよ!」と北見のスーツ屋さんに言われても、「買い物行こう!」とはならないのである。「あぁそう…」と静かにDMを机に置くくらいしかできない。

買い物に結実しないDMはすなわち経費の浪費である。

既存顧客の絞り込み方の中で、「北見市近郊のお買い上げ金額上位何名までDMを送付する」という絞り方はできなものなのだろうか。

どう考えてもセールの度にやってくる北見のスーツ屋さんのDMは僕の購買行動に結びつくとは思えないし、僕にDM送るんだったら北見のどなたかにでもDM送ってやって欲しい。

 

 

今や、アマゾンやFacebookに数多の個人情報を握られてしまっている僕ら。趣味好みの類が丸裸にされ、ドンズバの広告がパソコン上に表示されてくる。

DMのように顧客を購買実績で括る手法や、特定の地域にチラシをばらまく方法は半ば時代遅れになって来ているのかもしれない。

チラシが机の上に置いてあって、なんとなく家族の目に留まる。そんな風景はもう多く存在しない。単身世帯や核家族世帯が増え、自分の興味があるもの以外は全部ゴミ箱or無視の世知辛い世の中だ。

世の中の変化と、手段の多様化。

DMやチラシに絶大な威力が残っている地域もまだまだたくさんある(北見でいうところの経済の伝書鳩というキラー媒体)。

使い方一つ、使い分け一つだろう。

まだまだ効果的なお知らせができるはずだ。

 

以上、朝の頭の運動終わり。

考えさせてくれたDMは大切に机の上に置いてあります。

ポジティブになりたい奴は運動しろという風潮

あながち間違っちゃないと思う。


引っ越しを決め、やること山積の日々にみずから飛び込んだ。が、時期尚早だったか、どうだったか…と逡巡の末にちょっとブルーになっていたのは先般の記事による。

朝から文章を書き、米も炊き、弁当を作り、洗濯物を出す。

ブルーを吹き飛ばすためにわ規則正しい生活をして、目の前のことを一つ一つこなしていこうと決心をしていた。

猛烈に動き回った末、いつも通りの時間に家を出て、会社に少し余裕を持って到着する電車に乗り込もうとした時に、ハタと気がついた。


財布がない


いつもの身振りでSuicaをピッてしようと思ったら、財布がない。

カバンを漁ってみる。一番馬鹿らしいのは、ダッシュで帰って家を探してもなく、結局カバンにありましたというオチだ。

絶対カバンに入ってる。今更そんな初歩的なミスをするはずがない。ない…ない……。

懸命に探せど、財布が登場する気配はなく、瀑布のごとく落ちていく時間。焦る。


ふと、頭をよぎる。


僕はさっき、洗濯物をクリーニング屋に出しやしなかったか。その時、財布はあった。

どうした…その財布をどうした…


クリーニング屋に持っていったカバンの中…!


無理やり規則正しい生活へのテコを働かせて、慣れない早朝クリーニング屋なんかを決め込んだせいで、いつものリズムが崩れたらしい。

大きなカバンに詰め込んだ洗濯物と財布。

洗濯物を出して、そのまま家に帰り、カバンの中に置き去りにされた、財布。

半信半疑なんかじゃない、絶対的な確信を持って自宅へのダッシュを開始した。


徒歩10分の道のり。

どうしても乗らなきゃいけない電車まではあと13分。

家での探索を含めると6分での往復を余儀なくされていた。

時間の皮算用をしながら走る。走る。

霜月の空の下、錦糸町のどんなラブホテルの一室よりも熱く燃えたぎる男がここにある。


息を乱し、髪を乱し、辿り着いたが自宅。案の定、財布は大きなカバンの中に小さくうずくまっていた。

ひっつかんで折り返す。


あと7分


階段を登るとか、逆行してくる人並みに立ち向かうとか、諸々を考えたら5分で駅に着きたい。


頭を大きく前に倒し、僕はまた走り出した。


一度インターバルを挟んだ後の2本目ほど辛いものはない。経験的に知っている。しかし、辛さを知っているからこそ、立ち向かう勇気も生まれる。

弁当とカバンを持ってだるくなる右腕、ブンブン振る左手は末端から酸素が届かなくなっていく。酸欠だ。なんとなく前頭葉もぼんやりしてきている。


それでも、足を止めない。

辛い思いをしてサイフを取りに戻ったのだ。

こんなところで諦めて電車を逃すような根性ではいけない、いけない。

走れ。走れ!


赤信号と青信号の間を飛び越え続けて、辿り着いた駅。太ももはもう上がらないと言っている。

コントロールできなくなり始めた体をなんとか動かして、慎重にSuicaをピッとする。

定期使用、1,926円。

構内を駆ける。最後、階段が待ち構える。

乗らねばいけない電車から降りてくる人波にぶつかる。

階段の橋を駆け上がる。一足飛び、二足飛び。腕も手すりも全部使って、走る。


飛び込んだ電車は、まもなく扉が閉まった。

場違いなほど息が上がった1人の男。


去来していた感情は、「なんか今日も頑張れるかもしれない」という、ものすごくポジティブなそれであった。



さて、運動には大きく分けたら二つ種類がある。

有酸素運動

無酸素運動

前者がマラソン、後者が短距離走と想像していただけるといい。


よく、無酸素運動は息吸わないと思われるのだが、そんなことはない。

吸った息がヘモグロビンと結びつくヒマもないほどのハードな運動

だと思っていただけるといい。需要過多の状況ですね。


とかく、有酸素運動が健康にいいと騒がれる。ホットヨガブームはまさに有酸素運動のブームである。

訳もなくふらふら歩いていると考えがまとまっていく感覚を得られるのも、血行が促進されて酸素が全身に行き渡るからだと言える。


対する無酸素運動。

こいつは全く気持ちよくない。何しろ酸素が足りなくなるのだ。思考ができなくなり、手足は痺れ、動けなくなる。

本日の運動は、無酸素運動にあたる。

しかし、無酸素運動のメリットは無酸素状態から徐々に解き放たれていく過程だ。

地獄の一丁目一番地のような苦しみから、息を吹き返すと、不思議と世の中なんとかなる気がしてくる。目の前の今が辛すぎて、大抵のことは辛くない気分になってくる。


自ら好んで地獄の淵に立つマゾヒストは多くないだろう。でも、この気持ち良さ・瀕死から這い上がったサイヤ人のような復活をたまに味わうことは、精神衛生上悪くない気がする。


幸か不幸かの全力疾走から考えた諸々でした。

会社までもダッシュになりそうです。

家を決めた。錦糸町生活余命1ヶ月

僕は、この12月、クソ忙しい中を縫って引っ越していくことを決めました。

決め手は、勢いです。

 

経緯を話すと長いので、詳しく知りたい方は以下。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

まとめると、

家賃補助なくなって家賃が爆上がりするので安価なところに引っ越さないといけない。

という話である。

 

止むに止まれぬ・背に腹は変えられない状況だったとはいえ、昼夜が無くなりがちなド繁忙期にエイヤで越してしまっていいものなのかどうなのか、今更になって不安が去来している。

Moved blueである。

備忘録的に使える、有用な記事を今回の引っ越しでは残していこうと心に決めてはおったものの、Moved blueが押し寄せてきているもんだからどうしても感情よりの文章が書きたくなってしまうというか、書かずにはいられなくなっている。

一夜明けても割とblueだ。

 

わかってはいた。覚悟はしていた。

家を見るのは楽しいが、それにまつわる諸事が本当に面倒くさいと。

これまで押入れの中に押し込んでいた無数の垢を、僕は果たして片付けていけるのだろうか。いけるのだろうかじゃない、いかなきゃいけない。

水が滴り出した冷蔵庫、洗濯槽が機能していない洗濯機。家電リサイクル法が脳裏を掠める。捨てられるのか。捨てていけるのか。

 

こう、ぐーっとやれんのか、やれないのか…と考えて、いや待てよ、引っ越しじゃ死なないからどうせ何とかなるなと躁状態にジャンプアップする。

で、しばらくすると、面倒くささがまたむくむくともたげる。

みたいな不毛なシャトルランを先日より繰り返している。

 

家賃も場所も概ね問題ないし、健脚を活かせば駅までの距離は何とかなる。

満足に値する条件をたくさん並べ立てて、自分を鼓舞して行きたい。とりあえずどこからどう手をつけていいやらわからない。本と服さえ片付けば相当楽になる気がするので、直近の休みで手をつける所存である。

 

 

引っ越しすなわち、別れ。

慣れ親しんだ錦糸町ともお別れが迫る。あとひと月。

名残も感傷もへったくれもなさそうな師走の空の下僕は引っ越していく。無我夢中で走り抜けることになるであろう。転居したら、きっとそうは錦糸町には来ない。

よく言った居酒屋や定食屋とも、しばしの別れ。

近所づきあいをよくしてくれた友人後輩一同とも、しばし。

 

どうあれエンジン吹かしてやって行きます。

朝になってようやく書けた。