徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

東京に戻って来たよ雑記

会社的には期跨ぎで連休を取るって結構阿呆な感じなんですけれども、堂々と胸を張って連休取得、北海道に帰っていました。で、戻って来たところですね。

 

実働5日間の北海道であった。知り合いに会い続ける日々。文章を書く間も無く、慌ただしく過ぎていった。朝方まで飲み明かし、朝は母を仕事に送る。連休とはいえ静養の休みではなく、完全に躁に振ったそれだった。やっぱのんびりするには10日間くらい帰らないと時間が足りない。会う人多し。

帰省全編通して、それは涼しい気候であった。適温が上げるQOLは思ったより大きい。とりあえず東京に戻って来てみたものの相変わらずねとっとした空気が充満しており、もう一回慣れるまでは苦しい日々が続きそうだし、僕が東京に慣れる前にさっさと秋来やがれって非常に強く思う。I'm killed by 猛暑。

気がつけばもう9月で、今年もあと四ヶ月だという。このねっとりもあと二ヶ月後には肌寒さに変わっていることは間違いないのだけれど、ねっとりに足を取られている最中に肌寒さを想像するべくもなく。しかし年末ももう間もない。「平成最後の夏」ももう終わってしまい、次のねっとりは新元号だ。平成への思い入れが強いわけでもないけど、西暦以外の暦があるのは悪いことじゃないように思う。昭和が育て、平成に花開いたのが親世代で、今度僕らは平成に育てられ、新元号の元に花開こうとする。開くかどうかはまた別の話だけれども、環境が変わっていきながら人間の営みは大して変わらないんだなぁと感じさせてくれる秀逸な機能として、元号があるんじゃないかと、そんなことを考えている。

 

これからまた社会復帰していくのだけれど、行き先が新職場ということで、果たして何をやってサバイブしてくのかが把握できていない。一周回って清々しい気持ちですらいる。とはいえ結構な蛇の道って聞くので、今くらいの平穏なメンタルで文章が書けるのは最後かもなぁって悪い見積もりを出して、メンタルのシーソーゲームを楽しんでいる23時過ぎの東京。考えたってどうしようもないんでね。やるんすよね。

帰省のたびになんだけれど、久々に立ち入る我が家は他人みたいな顔をして僕を迎え入れる。叙情的な意味合いでの他人みたいな顔も半分、実際には冷蔵庫の中身が何もないあたりに猛烈な他人を感じる。強烈な俺の部屋じゃない感。もう今日は疲れたので明日の朝にでもマイ冷蔵庫にブラッシュアップしてやります。

 

ということでした。

常世の春、常呂

「ところ」と読みます。

サロマ湖にほど近いホタテのメッカ。住人の多くは漁業従事者で、ホタテにサケにマスにと、魚群探知機を巧みに操り、風を読み、オホーツク海のバイキングと化している。そんなバイキングの中でもアクの強い人間が一人、僕の親父の腹心の友である。北見の我が家から車で40分程。僕も幼いころから事あるごとにお邪魔しては、いくら丼を貪った。おかげで健康に育ちました。ありがとうございます。

家族ぐるみで至極親密にやり取りをしている。だから毎度帰省の折には必ず遊びに行き、やはり過食の限りを尽くす。

今日もそうだった。

常呂と言えば、カーリング。それこそ常世の春を味わったであろうLS北見の本拠地がある。

アドヴィックス常呂カーリングホール | 北見市

平昌オリンピックのLS北見躍進の際には、同郷だからって超親しげな風にして話していたんだけど、実のところはカーリングホールにも入ったことのない赤の他人であった。状況脱却の為にカーリングホールに尋ねようとした。しかしその前に近くの食堂で酒を飲む。

再掲するが、オホーツクのジャックスパロウが跋扈する土地だ。海産物が上手くないわけがない。これから漁師の家に行ってしこたま海の幸を食べるというのに海鮮丼を食べた。そういえば、魚を食べると頭が良くなるって教育テレビのなにがしが昔教えてくれた。あぁ、これは天才爆誕だな、四半世紀生きたってまだまだ賢くなれるなぁ、とうそぶきながら舌鼓を打った。相当おいしい。

酒もそこそこに飯を食って、カーリングホールに向かう。たまたまLS北見のメンバーがみんな揃っている、大変に運がいい日だった。本州での僕は彼女らと大変親しい間柄なはずなのだが、いざ目の前にすると圧倒的に他人であり、圧倒的に選手と一般人であった。観客席から彼女らの同行を見つめ、大学生の練習を見つめた。カーリング場にも行ったこともLSメンバーと会ったこともない元北見市民が、カーリング場に行ってLSメンバーを眺めたことのある元北見市民にランクアップした瞬間であった。

その後、LS北見所縁の喫茶店に行き、ごっついココアフロートを食べた後、漁師友人宅へ。

胃袋を休ませるとか、お腹がすいたとか、そういった価値観での食事ではなく、「おいしいものがそこにあるから食べる」という贅沢極まりない食事に次ぐ食事。漁師宅には酒のつまみだらけであり、やはりホタテの刺身は美味しく、サケの内臓を甘塩っぱくして炒めた漁師賄飯が飛び切りおいしかった(サーモントリッパって名づけたら、確かに美しいかもしれない)。

 

常呂の漁師は横のつながりがとても強い。部落の中の多くが遠戚関係におり、親戚同士家を行き来しあって飲み会を開いている。漁師宅で飲んでいると、今日もどこからともなく親戚が集まってきて、そこそこな人数の宴会となった。中には赤ちゃんも二人いて、おじいちゃん世代とお父さん世代と子供世代が入り乱れる。大人たちが話している間、子供を誰かがあやし、子供が飽きたころにお母さんのところへ戻っていって、宴会の中心に子供が躍り出る。

核家族化がこうまで進む前の家族の形を垣間見たような気がする。飲み会の席という刹那の瞬間だったとしても、何世帯もが折り重なって生活をなしていく。そんな文化が流れていたのなら、どれだけ生きやすいだろうか。子育てのストレスや結婚生活で折り重なるストレス。その源流が人手不足だとしたら、それをを第三者に外注することで解決するのではなく、知り合いや遠戚で解決していく。古き良きシステム。平たく家庭が欲しくなったし、今日のような環境下で育てられるのなら子供がいてもいいなと思った。

 

そうはいっても本当にお腹がいっぱいで、お腹がいっぱいだとどうしても眠気がやってくる。抗いようのない魔物は瞼の奥からひたひたと忍び寄り、一瞬で瞼を吊っていたロープを切り落とす。閉幕の合図である。

飲み会続きで疲れている脳みそを、今晩くらいは休ませてあげたいと思う。

台風と、仕事が、すぐそこで待っている。

僕らが結婚できない理由

「僕ら」ってまとめんじゃねぇと言われるかもしれないけど、そんなの知りませんから。

実家にいったん戻ってきて2日。「いい人いないのかい」的な話をよくされる。これに関して、ハラスメントだとか旧部落的な考えだとかLGBTがどうだこうだというような気持ちは全くなく、気にかけてくれている人たちがいる幸せと、気にかけてくれているのであれば誰か紹介してねという気持ちが半々くらいである。誰か紹介してね。

普通に女の子と付き合ったり別れたりしながら、普通に生きている。しかし、結婚はしていない。良識ある同い年くらいのお友達たちは次々人生の伴侶を認めているというのに、僕はどこまでも孤高の戦士でありつづけている。そして、同じような人は少なくない。普通に生きている普通の人間なのに、なぜか結婚が出来ない。そういう話にならない、踏ん切りがつかない。

これ、なんなんだろうかって、人生の選択肢が多くなってしまっていることが原因にあるのではないかと考えている。決して自分のせいにはしないのが健康的だろう。

その昔、高度経済成長に浮かれていた当時の日本と言えば、終身雇用である。会社一筋40年。あとは年金悠々自適。幸せのマイホームを持ち、しこたま働いた後、盆栽でも育てながらのんびり暮らす。あまりにもわかりやすいモデルライフがそこかしこに転がっていた。黙っていてもお金は舞い込んできて、黙っていても年金で暮らしていける。会社に放り出されることもなければ、会社以外で生きる道を探す必要もない。経済的に人生を固める術が定まっていると、自然とエネルギーは伴侶探しに向かっていくというものだ。

しかし、今は違う。よく言えば道が開けているし、悪く言えば全く先行きが見えない。「好きなことで生きていく」人たちもいれば、「まったく好きでもない仕事を無限時間残業するも仕事から逃げられず世を儚む」人たちもいる。副業オッケー、高度プロフェッショナルな人材はみなし労働、プログラミングを読めない人間に価値はあるのか、Amazon以外の小売りとは、町の商店街のミライとは。とりあえず、不安なんだろう。不安で、先行きがわからない。先行きがわからないから、独立独歩を意識しなければいけない。そういう時代に、男性にしろ女性にしろ果たして伴侶を選択する精神的余裕があるのだろうか。人生の片一方で猛烈な数の選択肢があるなかで、さらに猛烈な数の選択肢が考えられる伴侶探しにまで仕事の手が回るのだろうか。

 

少子高齢化対策として、手厚い子育て支援みたいな政策を掲げるけれど、きっと一番効果的な施策は伴侶探し以外の選択肢を極力少なくすることだと思う。

朝の時間を考えてみて欲しい。

髪型も色々な選択肢がある。服装も色々な選択肢がある。朝ごはんも色々な選択肢がある。眼鏡も、靴も…となると、どれだけ朝の時間があっても足りない。だから誰もが朝の時間はシステマティックに動く。朝ごはんはいつものメニューにしたり、髪型を定めたり、服装は前の夜に決めておいたりする。選択ほどエネルギーと時間を費やすものはないのだ。

 

僕が「いい人」を見つけるのはもしかすると何かしらの足場が固まった時かもしれないし、記録的大当たりをかまして「いい人」を見つけた暁には経済的な挑戦をしだすかもしれない。「いい人」にはいい迷惑だろうけど。

でも、選択肢の雨に打たれるのも実は楽しくて、まだモラトリアムを抜け出せてないだけだったりする。ガキである。

以上、です。何か一つ付け加えるとするならば、誰か紹介してね。

飛行機の中の所信表明

北海道の翼、AIR Doに乗り一路北見へFly away.何度も帰省はしているけれど、まさか自分が労務管理の本と弊社の就業規則を持って実家に帰る日が来るとは思ってもいなかった。どんな力学の元だろうと、風の吹き回しだろうと、それが自分の意思を踏まえたものであろうとなかろうと、同じ温度のお湯に浸かって安穏と日々を過ごすよりかは色んな筋肉を痛めつけられてた方がよほど人生面白いなぁと、恥ずかしげもなく労務入門書を開きながら思う。大きな組織に属していると黙ってても様々な力学が作用しがちである。もしこれからどんな小さな組織に属するにしても、波風立たせて生きていたいですね。セ・ラ・ヴィ!

さておき、人には必ず得手不得手がある。ただ能力はわからないもので、現ポストでも十分得手だと思われていたけど他のポジションやらせてみたらそれどころじゃなくいい動きをするような場合もあったりする。これをカタルーニャ地方ではマスチェラーノ現象と呼ばれているらしい。いいとして、やってみないとわからないことだらけだし、わかっていてもやらないことだらけだ。偉い人たちのいたずら心と期待と時流がごちゃまぜになった異動だとしても、自分の考えと視界の範疇を超えたところからの提案に全力に答えていくことは悪いことじゃない。埋蔵金みたいに能力の鉱脈が広がってたら嬉しいし、広がってなかったらクレーターが増えるだけだけどそれもまたいい思い出です。

正直、今の会社には商売をしたくて入った。これまでは営業部に属され、商材の変遷はあったもののモノを買って売っていたので、ある程度考えているようなことができていた。ここ一年くらいは顧客対応マシーンみたいなポジションにいたけど、それはそれで重宝されていたように感じるし、経済活動は感情に左右される部分がとても大きいことを学べたのはとてもよかった。

いよいよもってぐるりと方向を変え、実際にお金を生み出す機能を有する部署から離れた。調整業務が主になる。組織を捉え、仕組みを把握し、労使を取り持つ。営業や購買を司る部門が稲刈りや田植えの機能だとすると、これからの職務は田畑を耕したり農機具を整えたり農協にもっといい値段で書いとるように交渉したりする機能。10円で買って20円で売る作業を突き詰めることはなかったけれど、別の視点から商売を見つめる契機とはなりそうだ。

 

現事業所内では有数に苦しい部署と言われ、将来に役立つから…勉強だと思って…何年も居るポジションじゃないから…心だけは病まないで…と脅しとも心配とも取れる餞の言葉を頂いている。まあ、多分苦しいことにはなって行くんだけど、将来に役立つとか勉強になるという動機付けって多分相当弱い。普段そこまで将来を展望してるわけでもないし、勉強になるってそもそも何ための何だよって話である。

可能な限り、そのものを面白がってやっていきたいなぁと考える次第。やってもいないことだからまだなんだって言えるよね!ケ・セラ・セラ!

これから僕は労務をやるらしいのと、疲れたという話

人事部の労務を担当するそうです。

これまでは弊業種ならではの部署にいたのだけれど、今度はある程度の大きさの会社であれば必須の機能を司る部署にやってきた。とはいえ、ぶっちゃけまじで何やるかわからないので勉強しようと思います。 

はじめての人のための 世界一やさしい 労務管理がよくわかる本

はじめての人のための 世界一やさしい 労務管理がよくわかる本

 

バカでも理解しやすそうだったからぽちぽちしました。

 

青天の霹靂の異動だった。僕はまだ前職でいる気満々だったので、大繁忙期に備えて英気を養おうと思って本日から連休を取得している。この半年ちょっと、連休はあっても冠婚葬祭に尽くしていたりなんなりで、ゆっくりはできていなかった。

休まない方がいいかと異動先に聞いてみたが、そのまま取得していいと言われたので、九月一日からの異動だというのにその日を僕は北見の実家で過ごすことにした。

休みの時こそ、気合い入れてテキパキ家事して有意義に過ごす人間だったはずなのだが、どうも趣向が変わったのか、ただひたすらに疲れが溜まっていただけなのか、膨大な空白がそこに広がっていると思うと何もする気になれず、ぼんやりしている。やっとこさパソコンに向かって文章を書いている。

大して綺麗でもない部屋、散らかった机の上、干された洗濯物に、止まった洗濯機。

超ソフトなディストピアを感じながら、連休をスタートさせている。

明日から北海道である。体一つくらいで行こうと思う。お腹すいた。

どこにいくか知らないけどまた異動らしい

現職一年半にて異動になった。弊社大移動の月は3月と決まっているのだが、比較的異例の9月の異動となりにけり。

一つのエコシステムが形成されている程度には大きな会社であるがために、異動すなわち転職くらいの振り幅がある。そのため、異動すなわち一大事と捉えられがちなのだけれど、それって多分相当弊社的な考えだ。ぶっちゃけたかが異動である。海外のシンクタンクに転職するわけでもないし、新進気鋭のベンチャー企業でSEをするわけでもない。何も大冒険じゃない。

現職一年半にての異動をどう捉えるかは人それぞれである。余程求められたか、余程使えなかったか。でもそんなん考えたってどうしようもないし、上司に聞いたって、真実はどうあっても「求められた」としか言わないのはわかっている。置かれた場所で頑張るしかないのだ。日本語だって通じるし、同じ業態なのだから頑張りもしやすいだろう。

大きな組織にいると様々な力学に晒されて、自分の意向は星屑のように数光年彼方に消え去りがちだ。今回もそんな感じなのだけど、全くもって構わないと思っている。確かにやりたいことはあるし、好き勝手にプランを組ませてもらえるなら自分の好きに組んで生きて行くでもいい。でもそこにイレギュラー要素がブイブイと絡んでくるからこそ面白いのだろう。

一人暮らしで食生活が偏るように、独りよがりの人生設計は自分本位に偏る。自分の想像の範囲の中で、自分が思っている程度の未来しか訪れない。ただ、全く及びつかない力が働くと、好き嫌いを超えた何かと出くわす。吉と出るか凶と出るかは知らないが、どっちにしたって僕のメニューにはない料理である。食べてみる価値はある。

 

六畳一間の部屋にこもって生きているだけじゃ波風が立たない。波風が立たなければ感情もブレない。感情のブレがなければ曲もかけないし文章も思い浮かばない。それじゃ人生面白くない。しんどいも楽しいも、振り返えればまずまずいい思い出になる。いい思い出にするために、なんとかかんとか着地を決めようと努力するのである。

人生面白くなったもん勝ち。ぼちぼちやっていく。

足の速い人たち

連日盛り上がりを見せているアジア大会も、おかげさまでおらが陸上競技が始まっている。これ!これ俺の友達!くらいの距離感で見られる陸上はやっぱり燃えるものがある。オリンピックでも、世界陸上でも、アジア大会でも。

たったいま山縣があまりにもナイスなレースでめっちゃ足が速いところを全国に見せつけたのだけれど、この足が速いって実はすごいことなのだ。技術的なことではなく、本能に近いレベルの話で。

 

これから、想像の話をする。

僕らがまだ野生の猿に近い存在だった頃、何をして生きていたかって木の実とかを食べていたに違いない。あと、もしかするとウザギとかを追いかけて簡単な狩猟もしてたはずだ。そう、狩猟である。道具使うほど頭が良くない僕らの祖先は、めっちゃ必死になってウサギを追いかけていたはずなのだ。たとえ火の中水の中草の中。原始的なハントに大事なのは何かと言えば、無論走力となる。単純なかけっことはいえ、明日の飯に繋がっていた過去が存在する。その頃から僕等はどれだけの進化を遂げたか知らないが、DNAの奥深くに「足の速さに対する羨望の眼差し」的な何かがインプットされていて、100m走はもちろん、ひたすら走っているだけのマラソンや駅伝の類にも惹きつけられてしまう。一方足の速い張本人たちは生存競争に勝っていけるスーパーマン達である。我々凡人はひれ伏すしかない。あわよくばなんとかお近づきになって彼らが獲ってきたウサギを分けてもらいたいなぁとかも考える。そういった情けないメンタルの持ち主がまぁ僕なんだけれど、知ったこっちゃないよね。

どうあれ、あと2、3日は強い遺伝子達が巻き起こす全力のかけっこ大会を楽しめる。ソフトな時差で見られて大変嬉しいです。

人付き合いと酒と結婚

お酒を覚えてからしばらく経つ。こと、社会に出てからというもの、コミュニケーションの場には必ず酒がある。飲むのも飲まれるのも好きなので、大いに食らい大いに失敗をする日々である。学ばない。とにかく学ばない。

改めて、誰と会うにも何にかこつけても酒だ。組織の潤滑油に…ってありがちな面接パンチラインをしゃべくるくらいだったら僕はお酒ですくらいに大きく出た方がウケいいんじゃないか。間違いなく世の中は酒で回っている。

ふと考える。僕は酒が好きなのだろうか。それとも人と会うのが好きなのだろうか。

やはりこれを測るには晩酌の有無だろう。誰にも邪魔されない一人の空間でも酒を飲みたいと思うか否か。酒の場から「他人」の条件を取り払った対照実験だ。

僕は、見事に否だ。一人だと酒を飲まない。

どうやら酔っ払う自体が好きなわけではないようである。人との付き合いが好きで、そこには必ず酒が介在しており、飲んだら飲んだで楽しくなっちゃうものだから酒も好き。みたいなそれだ。


さておき、結婚式ラッシュである。

おびただしい数の友人が身を固めまくっている。いいなぁ、羨ましいなぁと嘯きつつ、まだいいや…みたいなガキンチョ思考を拗らせている。

今は人付き合いの取捨選択を殆どしていないので、東奔西走元気に飲酒に勤しんでいる。仮に将来身を固めたとすると、本質的にお酒が好きな人と一緒になるか人付き合いの場飲酒人間と一緒になるかで、今後生涯の飲酒量は大きく変動するだろうなぁと、ぼんやり考えている。

ほんと、どっちでもいい。身を慮るなら程々飲酒人間のほうがいいだろうし、大酒食いが相手でもそれはそれで楽しくやるだろう。素面で思考を研ぎ澄ませていく楽しさも、酩酊しながら泡沫の享楽に浸る楽しさも、絶対値をつければ同じようなものだ。

そんなわけで、本日も。

現状失禁

時折、超躁状態に突入する瞬間がある。ベットベトの汗をシャワーで流して、明日への雑務をなくすべく昨晩洗ったシャツのアイロンがけをせっせとし済ませたあたりで無敵モード!とかよくあるパターンだ。そんな時は中高生の頃によく聴いたエモめな曲をMacからぶち流してワンルーム・ディスコする。ひとしきり踊った後、やはり明日の雑務を減らそうとして回していた洗濯機がピロピロと洗い終わった旨を知らせてくれる。裁縫の糸を針に通す行為の次に洗濯物干しが嫌いなので、一気に躁状態は終わりを告げ、すげすげと洗濯物を干そうとする。でも全く食指が動かず、適当にギターを持ったりピアノを弾いたりしてなんかいい曲できないかなぁって思索に耽る。ダメだ、できない。なんも生まれない。そもそも俺はこれまでどんな風に曲を作っていたんだろうか。過去に作った曲を聴いてみるんだけど、その曲を作った時のテンションが全く思い出せない。メロディに歌詞がバチクソにはまっている箇所とか、どう考えてもトリップしながら曲作っていたとしか思えない。すげーな、すげー曲作ったもんだなと自尊心に火をつけながら、なんとかかんとか洗濯物を片付けようとする。でもやっぱり体は洗濯機に向かわずMacの前に鎮座したままで、ブログでも書くかというのが今の話。爆発的な発散を経て、鎮火した後の残滓メンタルは驚くほど静まり返っている。真冬の北見のようである。雪国にお住まいの方はご存知かもしれないが、雪には音を吸収する作用がある。真冬の夜なんか静寂そのものだ。なるほどサイモン&ガーファンクルも冬の北見をしてSound of Silenceを書いたか。Hello,darkness my old friend.って書いてたら無性にサイモン&ガーファンクルが聴きたくなった。流してみようと思ったけど、iTunesには入っていないようだった。どうやらWindowsからiMacに買い換えた際に移し損ねたらしい。かれこれ一年半もiMacを使っているのに気づいていなかった。Trouble Waterに突き落とされそうである。でもどうしても聴きたい。試しにAmazon Echoに聞いてみたら見事Amazon musicから流してくれた。こういう使い方をするべきなんですねAmazon Echoは。Sound of Silenceを聴くつもりがセシリアを流しているあたり気の利かなさが滲んでいる。ジェフベゾスに報告してやりたいですね。こうして山火事に落とされた一滴の水ほどに役に立たない文章を書いて書いて書いていることに意味はなくて、旧業態的な現職にあって一際タイピングが速くなる程度のメリットでしかない。デメリットは洗濯機の中にひしゃげているであろう洗濯物を一向に救助できないことだったり、明日に仕事を残さずに早く寝ようと思っていたのに筆が滑ってしまって就寝にたどり着くのにまだまだ時間がかかりそうなことだったり、ざっと見るに弊害の方が大きい。というところでやっとSound of Silenceが流れ出した。Sound of Silenceって最初はアコースティックな曲調で編曲されていたところを、エレキ入れてドラム入れてフォークロックっぽくアレンジしたところ爆発的なヒットをしたってどっかの番組で観た。確かにこれでアコギ一本だったらお経みたいになっちゃうなぁと思う。しかしアートガーファンクルの声ばかりはどうしようもなく綺麗だ。ポールサイモンの声が案外ゲショゲショだからより引き立っている。いい加減洗濯機の封印を開けに行こうと思う。やだな、面倒臭いな。晩御飯に食べた、てんやの天丼がいい感じに胃袋で油を撒き散らしてくれる。言い訳にして寝っ転がってしまおうか。ダメです。ダメ。干しに向かおうと思います。干す。干される。「会社で干される」って文脈の干されるって、やっぱり人間の体はほとんどが水分でできていて、干されたら生きていけなくなってしまうから言われるようになったんだろうって、改めて思い当たった。風通しのいい窓際にて強烈な日光の下、仕事という水分も与えられずカペカペになっていく。恐怖でしかない。けど今やらなきゃいけないことには微塵も関係はないので洗濯物干してきます。洗濯物が吸った水分はさっさと飛ばしてあげなきゃいけないので。

以上、現場失禁でした。

「行けたら行く」思考

「行けたら行く」はだいたい来ない。良し悪しはさておき、今や一種の社会通念として根付いてしまった感がある。「行かない」の類義語的立ち位置に追い込まれてしまったからか、若者の会話の中ではめっきり聞かなくなった。

でも「行けたら行く」思考は日常に蔓延ってやまない。僕らの暮らしをダメにしているものこそ、「行けたら行く」思考だ。

休日の、「起きられたら起きる」や、「時間あったら掃除する」。とりあえず本を買ったけど、「読めたら読む」。話題のテレビを「観られたら観る」。考えたら簡単だ。本当にやらなければならないことややりたいことは、「〜〜したら」なんていう仮定を挟まないで黙ってやる。差し迫って猛烈にトイレに行きたいとき、「時間空いたらトイレに行こう」なんて考えないだろう。遮二無二トイレに向かうはずだ。そう言った意味で、僕らはとても自分に甘いし、甘いからこそやらなきゃ行けない事項が際立って見えている。

思うに、習慣として根付いた行動以外は全て「行けたら行くね」思考に追いやられる。それもゴミの日のような毎週しなければならない行動ですら習慣になり得ない。ゴミ箱から溢れない限り、異臭を放たない限りはどことなく「ゴミを出せたら出す」って考えていて、平気で出し忘れたり収集車を逃したりする。まして英語を勉強しようとか、小難しい本を読もうとか、楽器弾けるようになりたいとか、字を上手く書きたいとか、そういう薄っぺらい欲望と克己心の全てが「行けたら行く」思考のマリオネットと化す。

時間は有限だ。習慣を増やそうと思ったらそれまでの習慣のどこかを犠牲にしなければならない。「行けたら行く」思考から抜け出すには、「何が何でもやる」だった行動を一つ辞めて、「行けたら行く」思考枠にあった行動を習慣に格上げしないとならない。大変なことのようだが、僕らの日常はおよそ考えられないほどの無駄があって、「何が何でも時間を無為に過ごす」レベルで溶かしている時間が存在する。意志さえあれば案外習慣を作るのは簡単だったりもする。

 

何が言いたいかって、こういう文章も「時間あったら書こう」とか「書けたら書こう」じゃなく、「何が何でも書く」って習慣づけているから書けているということである。

時間の使い方や趣向の操作って本当に難しいですね。殊にそう思います。