徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「ニューエクスプレス アイヌ語」が面白すぎて

この本の話です。

 

CD付 ニューエクスプレス アイヌ語

CD付 ニューエクスプレス アイヌ語

 

 

このところ、資格試験勉強のために図書館に行くことが多い。それなりに学ばないと敵わない試験なので、出勤前やら何やら時間をやりくりしながら勉強に勤しんでいる。

 

1時間2時間と時間が経つと集中力も切れるというものだ。図書館にいる際は適当に書架を眺めて、パラパラと本をめくり、全然違う方向に考えを飛ばしてから勉強に戻る。

そんな折に手に取ったのが本書だった。疲れてアイヌ語の教本を手に取るあたりから、日頃の疲れがよくわかるというものだろう。一種の錯乱状態である。労いの言葉お待ちしています。

 

さておき、北海道出身のよしみでページをめくったのだが、瞬く間に本書のトリコとなってしまった。

 

何故か。

 

本の内容はいたって普通の語学教本である。基本的な文字と発音を冒頭でさらった後に、文法を学ぶ。文法については簡単な会話例をなぞりながら、英語で言うbe動詞とは何かとか、人称ごとの単語の違いとかを学ぶ。なんの変哲も無い内容だ。

しかし、会話例がめちゃくちゃ面白い。

試しにチャプター1、最初の会話例を見てみたい。ちなみに、この例文から学ぶのは、「肯定文・疑問文・否定文・命令文の組み立て方」と「了解(はい)の言い方」である。アイヌ語を書いても訳がわからないと思うので、和訳を記す。

1 これはギョウジャニンニク?

 

娘:お母さん!これはギョウジャニンニク?

お母さん:ギョウジャニンニクだよ。

娘:これはニリンソウ?

お母さん:いいえ、ニリンソウじゃないよ。これはトリカブトだよ。

お父さん:トリカブトはおそろしいものだぞ。さわってはいけないよ。

     よーく、ニリンソウだけ選びなさい。

娘:はい!

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P21)

これが、本書に掲載されている一番最初の会話例文だ。

 

英語やスペイン語の教本の最初の会話例文を考えてみると、学校に入学するシチュエーションとかで、自己紹介をする文章が多いだろう。中学の教科書もそうだった。大学の第二外国語の教科書だってそうだった。

しかし、それは僕らの文化圏での当たり前でしかない。

会話例文には、学ぶ言語の文化が色濃く現れるようである。アイヌの文化に置いて、ギョウジャニンニクの採集、ないしはトリカブトとニリンソウの見分け方は最重要課題なのだ。きっと。にしても、あまりの異文化具合に笑いが止まらなくなった。カルチャーショックである。こんなにもアイヌナイズされた会話なのに、挿絵は一般の家族がハイキングに行っているような挿絵が掲載されているあたりも面白い。

 

チャプター4では、自己紹介が掲載されている。

4 あなたのお名前は?

 

若い娘:あなたのお名前は?

妻:マキといいます。

若い娘:すてきなお名前ですね。

妻:ありがとう。

若い娘:この小刀はあなたの小刀ですか?

夫:僕のですよ。

若い娘:小刀を抜いてもいいですか?

夫:いいけど、歯が鋭いから指を切らないようにね。

若い娘:鞘も柄もあなたが彫ったの?

夫:僕が彫ったんじゃないよ。

妻:私が彫ったのよ。

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P35)

なんの変哲もない自己紹介かと思ったら、突然小刀が登場する。びっくりする。当人たちにとっては当たり前でも、びっくりする。「若い娘」という登場人物も無骨な感じで、文化の香りを感じる。

 

と、ここまでの内容は、アイヌの文化に準ずるものだった。

それぞれ、チャプター1では、山菜採りは女性の主な仕事であり、ギョウジャニンニクは栄養価が豊富で貴重な食料だったこと、チャプター4では、アイヌの男性は刀に精巧な彫刻を施しており、かつては男性が女性に求婚する際に技術を競ったものが、時代が下るにつれて女性も木彫りの技術を追求するようになったことなど、補足の記載もあり、至って勉強になる知識を学べる。

 

しかし、チャプター5。

5 働いて手が痛い

 

若者1:今日は一生懸命働いたので、手が痛い。

若者2:何をして手が痛くなったんだ?

若者1:竹を削って矢を作っていたので、手が痛くなった。

若者2:僕は腰が痛い。

若者3:何をして腰が痛くなったんだ?

若者2:木を切って臼を作っていたので、腰が痛くなった。

若者3:僕も足がしびれた。

若者1:何をして足がしびれたんだい?

若者3:何もしないで一日中座っていたら、足が痺れた。

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P43)

若者3。この若者3である。若者1と若者2はわかる。よく働いた末の痛みだ。働いた後の酒はうまい。きっとこの二人は今日うまい酒を飲むに違いない。だが若者3。お前はどうだ。何もしないで一日中座っていた?何もしないで、一日中座っていただと?働かざるもの食うべからず。ノーワークノーペイ。よくも勤勉な若者1と若者2の前でいけしゃあしゃあと。貴様の足の痺れは怠惰の痺れであり、若者1や2の疲れや痛みとは全く別の種類のものであることを思い知れ。というか、何もしないで一日中座っていたって、何をしていたんだ。木の葉が擦れる音でも聞いていたか。湖のきらめき、川のせせらぎでも聞いていたか。じゃあそれを申告したらいいじゃないか。「川のせせらぎを一日中座って聞いていたから、足が痺れた。」これの方がよほどロマンチックだろう。そういう申告もしないということは、きっと君は本当に何もしないで一日中座っていたんだな、若者3よ。がっかりだ。だが、今日のところは仕方ないとして、明日からは若者1や2のお仕事を手伝ったらいい。この会話の後、若者1・2と3の間がちょっとギクシャクするのは想像に難くない。「こいつ、俺たちが働いている間、何もしないで一日中座って足が痺れたとかぬかしてやがる…」って1と2は思うはずだ。3のことを少し敬遠するかもしれない。その亀裂を埋めるのは3のこれからの努力であって、3の誠意だ。「竹、削るの手伝おうか?」「君が臼を作るなら、僕は杵を作るよ。」この一言が言えたら、3はきっと飛躍的に成長する。暁には、3人でうまい酒を飲むに違いない。幸あれ。

つまり、そういうことである。

アイヌの文化の皮を被った、人間模様。考えてしまう。

 

とまぁ、こういう会話文が散りばめられた20のチャプターがあり、アイヌ語に親しめる本書。脳みそが疲れた時に一陣の風を吹かせてくれる名著である。こうした全く違う文化に不意に触れられるのが本の、図書館のいいところだろう。検索して、情報にめがけて突っ込んでいかなくても、視野を広げて手に取った本で、ここまで心が潤うのだ。

大変に有意義な読書体験だった。

 

余談だがもし、アイヌに興味をお持ちなら、以下の本もおすすめである。

 

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

 

 

大学生の終わりに暇の慰めに読んだけれど、言語的な面から、縄文人・オホーツク人との交易や文化の交わりなど、アイヌという民族の人となりを知ることができる。

 

オホーツク、阿寒の方にはアイヌ文化が色濃く残っている地域もあるので、近くにお越しの際は本書を携えて寄ってみたら面白いかもしれない。

皆でギョウジャニンニクを採集しに行きましょう。

海派と山派と規則と不規則

海派?山派?っていう質問が定番化してどれくらい経つのだろう。犬派?猫派?もなかなか乱暴な質問だが、海山も相当乱暴だと思う。しかし、日本の国土のほとんどが里山で、周囲はぐるりと海に囲われている。海か山かしかないと言えば、確かにそうかもしれない。

北海道の北見は市町村合併によって海がある街になった。もともと山だらけだったところ、海に面した街が合併した。北海道といえば、海の幸。たしかに海産物は美味しいが、海に親しんできたかといえば違う。同じ市とはいえ、海岸線までは40キロほど距離がある。さらにオホーツク海で海水浴をする文化は根付いておらず、海が主役に躍り出るのは流氷接岸の季節が主だ。別に毎年毎年寒い思いして流氷を観に行くわけでもない。そんなわけで、何年も海に行かないことなんてざらである。かといって山にコミットしてるかといえば、山菜を採りに行ったことも、川の上流を目指して山登りしたこともない。なんのことはない、ノンポリである。だから山派か海派かと尋ねられて、答えに窮する。


ひょんなことから、海を見る機会があった。プランクトンが豊富な黒々した海でも、羽田に面したような工業化された海でもない。魚もすまないような澄み過ぎた海だ。しばらく水面を臨んでいた。いよいよもって綺麗だった。

波はどこから来るのだろうか、わからない。けど、絶え間なく波が寄せ、西に傾いた日を四方八方に照らし、散らしていた。ストロボのような光線がたまに目を焼く。

自然は合理的にできていると聞く。向日葵が太陽の方を向き続けるように、広葉樹の葉がめいいっぱい陽の光を浴びられるように広がるように、とかく計算高く設計されているらしい。けど、あの波に関しては何の作為も感じられなかった。無為に、衒いなく、ただ波が寄せ、光を撥ね返す。作為はそれを見ている僕と、波に果敢に向かうサーファーだけだった。


不規則や不合理な美しさに目がいく一方で、生活には規則性を求めてしまう。決まった時間に決まった場所に行き、予定されていた仕事をし、できるだけ決まった時間に帰る。決まった夜と決まった朝を過ごす。

だからこそ、不規則への憧れでもあるのだろうか。決まった日々から抜け出すように、人は旅をし、観たことのない映画や劇に足を運び、自分から出てくる不規則な知らない面を確かめるように創作をする。サーファーは不規則な波を楽しみ、僕は不規則な光をぼんやりみつめる。


人それぞれ、規則と不規則が心地よい割合があって、それによって毎日に適応できたり、苦しくなったりするのかもしれない。好きな規則、嫌いな規則、好きな不規則、嫌いな不規則を無意識に判別しながら毎日を生きているのかもしれない。

海は本当に綺麗だった。でもきっと、山に行って風に揺れる葉から溢れる光をみつめても、同じ気持ちになっていただろう。どんなに忙しい、日常と規則が待ち構えていても、少し離れた場所ではこんなにも時間が緩い不規則が転がっていることに安心していただろう。


海派も山派も根っこは同じなんじゃないかと思った。

表現と理屈とたっぷりな勇ましさ

クラシックピアノは、音楽記号に則った演奏が原則となる。音楽記号の端々に作者の思いが込められているからである。しかし、この音楽記号というのが曲者で、具体的にどんな感じで弾けという指示があるわけではない。アクセントは強調するんだけど、どのくらいの強さで!と言った指示があるわけではない。


さらに、そこにピアノの先生の指導が加わる。

もっとたっぷりとした感じで!

もっと勇ましく!

1の指がうるさいから、しっとり弾いてもらえる?ひそやかな感じで!そう!


ここに、具体的な指示はない。一般企業に勤めてしまった今からすると、たっぷりとはどういったことですか?具体的に溜めるべき秒数を教えてください。そもそもなぜここでたっぷり弾かなければならないのですか?理由を教えてください。そのたっぷりとという指示は先生自身の見解ですか?それとも作者の残した書籍等からなんらかの明示があった上での見解ですか?みたいな一般化と理由探しの議論がおっ始まる予感がして恐怖がたっぷりだ。細かいことは気にしないでください。いいと思ったからいいんです。そこに理屈はないんです。


耳元から東京フィルが演奏するすぎやまこういちのサントラが流れている。これが、とにかく勇ましく、寂しく、切ない。

かたや世の中では人が少なくなって、仕事の一般化ないしは人材のマルチプレイヤー化を進めていかなければならない話で持ちきりだ。けどこの情感は一般化していいものだろうか。突然曲にブレーキがかかってタメが作られたと思ったら次の展開に広がっていく。一般化された世界では、いくらでもDTMで出来てしまう表現なのだろう。でも、フィルが、指揮者が指示して行う生の表現をオートメーションで行うのは難しい。不可能ではないのだろうが。


芸術は属人的で刹那的だから美しく、だからこそ先が少しずつ細っていく。勇ましさの理由と、勇ましさの定義を探せる人間が優秀とされる。優秀には違いない。勇ましさを再現し、PDCAを回し、より勇ましく、より勇ましくと発展させていける人間こそ求められる人材である。

けど味がなくなっちゃうよな、ブラックボックスにしておいた方が美しいこともきっとあるよな。


東京は雪、ふるさとは氷点下29度。

みなさま、御自愛ください。

再起動睡眠

睡眠にはスリープモードと再起動の二種類がある。数年前から標榜している持論である。浅い眠りだが立ち上がりはよく、一方で続けすぎると途中から動作が重くなるのがスリープモード。一旦シャットダウンするため起動には時間がかかるが、アップデートをするには不可欠な動作かつリフレッシュできるのが再起動。睡眠にも同様のことが言える。5時間睡眠でも生きていけるけど確実にダメージは溜まっていく。たまに8時間寝ると寝起きはどんよりしているが、立ち上がってからは調子が良くなる。

世の社会人はスリープモードだらけだろう。寝不足を感じないほどの寝不足がじわじわと蓄積し、なんか疲れた、なんか怠い、なんか…と違和感程度の動作不良を起こす。自分の時間と睡眠時間を天秤にかけたり、仕事で時間が圧迫されたり、公私ともに大変ですね、大人は。

つまり何かと言えば、たまの再起動は本当に重要ですよと。


瀬尾まいこに、「天国はまだ遠く」という作品がある。典型的な再起動小説だ。

仕事で押しつぶされて死ぬことに決めた主人公が人里離れた村に行き、しこたま睡眠薬を飲んで、死んだと思ったら3日ほど眠りこけてなんでもなく起床する。

そこから物語が始まる。

村の人との関わりで主人公が救われていく過程が描かれていくのだけれど、思うに、大半のモヤモヤは冒頭の服薬再起動で解決してしまっているのではないか。死んだと思ったら生きていたという体験もそうだし、ただひたすらに眠りこけて脳みそがガシガシとアップデートされてったのではなかろうかと思う。

もしかしたら、気づかない中でもOSのアップデートって脳みそに訪れていて、更新の機会をみすみす逃している可能性だってある。もったいない。溜まってますよ、あなたのアップデート。


皆の衆、寝よう。現代社会はとかく寝させてくれないが、聞いちゃない。適切適度の睡眠をもって、生き抜いていこうじゃないか。

墓でつかんだ悔しさと清々しさ

墓に沈んでから2日。無事にむくむくと復活しつつある。最盛期でさえ苦手だった長距離走は、心肺機能さえも低下している現在、素人以下の代物と成り果てていた。僕の一生懸命は、大多数のジョギングだった。悔しい。無力さと惨めさに打ち拉がれながら大の字に寝転んだ日産スタジアムのタータンの上。楕円に広がるスタジアムの屋根から覗く快晴。久しぶりの清々しさを感じたのもまた事実だった。エンジンも小さくなり、給油もできなくなった身体は、昔よりも早くに限界を迎え、昔と同じような苦しさに襲われ、北見のグラウンドで、北見の坂道で、網走のグラウンドで、八幡山のグラウンドで、高尾の山の上で、あの頃感じたのと同じ風に吹かれた。苦しみさえ簡単に感傷に変わる、安い感受性を持っていてよかったと、心から思った。

走る頃が目的にならずとも、あの風に吹かれることは目的になるかもしれないと思っている。来年リベンジしたい気持ちもある。長距離走が得意になってみたい気持ちもある。けど、身近に目標もないし、自ら率先してエントリーするほど好きかといえば、本質的に長距離は好きじゃない。だけど、あの苦しさの先の世捨て感は大好きだ。今世界が終わっても別に構わないと思えるような、苦しさと清々しさ。それだけを目的に走るのも悪くないかもしれない。

世の中、大の字で寝転べるような場所も少ない。どこか公園で寝そべったって変な人である。かといって競技場に行くにも近くにない。どうするかはアレだけど、細胞レベルで感じられる気持ちよさを追いかけてみようと思う。

つって、今日はひどい雨でしたね東京。昼過ぎからの清々しさは見事なものでしたが。

次の晴れの日、次の晴れの日を狙って。

墓標が呼んでいる

本日は日曜日。神が与えしお休みであるのに、早朝より起床し猛烈に支度をしている。故郷には流氷が接岸し、底抜けの寒さが降り注ぐ。東京も温さはまだ残しているもののそれなりに寒く、風は冷たい。冬が極まる朝6時から何が楽しくて行動開始しているかといえば、走るためである。

本日日産スタジアムにてマラソンフェスティバルみたいなお祭りが開催される。縁あって、僕も出場することとなった。

冬晴れの如月、気持ちのいい朝に外を走ると言えば聞こえがいいが、5時間耐久リレーマラソンなるチャーミング極まりないネーミングや、日頃の運動不足を鑑みた時、気持ちよく汗を流すはずのマラソン大会は趣向が大きく変わってくる。会場に向かう電車はすなわち僕を死線に送り出す弾頭であり、日産スタジアムは大仙陵古墳よろしく僕の墓標である。

生きて帰れる算段がまるで立たない。


そもそも、長距離走が苦手である。

僕のロングディスタンスの全盛期は小学一年生のマラソン大会だった。1キロコースを5分で走り、学年で4番か5番に入賞した。その後、何度マラソンをやってもキロ5分ペースに終始し、それから20年経ったいまはキロ5分ですら走れなくなっている。アスリートを語った時期もあったが、長い目で見れば経年劣化でしかない。

かつて、競技場に向かう車内ではギラギラとしていたものだった。風の様子、レース展開、スタートリスト。耳元からは自らを鼓舞するプレイリストが流れていた。今は違う。車内にジャージを着た人がいたところで全く気にならない。心配は我が身のみ。無事に明日を迎えられるか、無事に数時間の旅を終えられるか。ごく個人的な逡巡だけがぐるぐると巡る。耳元からはドラクエIIIのサントラが流れている。鼓舞ではなくただの回顧である。なんと矮小な人間だろう。


それでも出場を決めたモチベーションは、踊る阿呆と見る阿呆精神だ。キツそうだね…からは何も生まれない。キツい、もう動けない、身体痛い、辛い。このネガティブなカオスからこそ新しい感情が生まれる。血が巡り、乳酸が溜まり、心臓の音が脳髄でドクドク聞こえるあの境地からこそ芽生えるポジティブがある。それを残念ながら僕は経験的に知っている。

せっかく誘われたから、絶対に1人じゃ飛び込まない限界の淵にダイブしてみることと決めた。


まだまだこの動揺と煩悶を綴れるのだが、墓標が僕を呼んでいるので筆を置く。

では、埋められて参ります。

米津玄師しか売れないなんて

日頃、米津玄師は僕のパクリであるに違いないと思っているんだけど、それは置いておいて、帰り道の音楽タイムで感じたことを書き綴る。

BUMP OF CHICKENにダンデライオンという曲がある。

2003年とかに発売した彼らの3枚目のアルバム、ジュピター。この最後を飾るのがダンデライオンだ。1990年付近の生まれで音楽が好きな人間であれば、おおよその者が聞いたことあるだろう曲。シャッフル再生で懐かしの曲がかかって、感情がブルブル震えながら家路についていた。

ふと思った。

これが受け入れられるなら俺もなんとかなるんじゃないか。

いや、藤原基央は圧倒的天才である。これに関しては全くの異論はない。細身で前髪で目元を隠しながら独自の世界観を綴っている彼のおかげで、後進たちは皆同じ方向を向いてしまった。始祖とも言える。曲が綺羅星のように輝く一方で、音質については当時のものだ。なんなら今朝の通勤時にはフォークの雄、風の曲を聞いていたが、やはり音質は70年代のそれだった。

面倒臭がりなたちなので編曲やアレンジは得意じゃない。けど、集中して作業すればこのレベルの録音はできるはずである。俺もなんとかなるんじゃないか。

ちょっといい気分で帰宅しながら、何曲か後に流れてきた米津玄師を聞いて、僕は全てを思い直した。衝撃的なまでに曲が作り込まれていた。ぐうの音も出ないレベルで、曲は完成されていた。

そこに夢はなかった。ただ果てしない程の完成度の差、それだけが存在した。身体一つ、だいたい宅録、同年代。これだけの共通点がありながら、情けないほどの差があり、さらにいえばここまでしないと売りものにならない。夢も希望もないとはこのことである。

 

最近よくyoutubeで数学の問題の解説動画を見る。現役学生の当時すらも解けなかったであろう数式がスラスラ紐解かれていくのを見ているのはとてもスカッとするものなのだが、当然のごとく使われている公式に、僕は絶望する。

ピタゴラスだとか、オイラーとか、彼らは何百年と前の人間である。遥か昔の人間が発見した数式が、定理となって今の世の中でも残っている凄さ。お分りいただけるだろうか。水洗便器もない時代だ。どうして直角三角形の直角を挟む辺の2乗の和と斜辺の2乗が等しいなんて思いつくのか。発想が普通じゃない。すごい。多分僕なんかが当時の世の中にいたら黙々と単純作業を行って、淡々と生涯を全うしていたに違いないなぁ。一市民を生きていたんだろうなぁ。

 

そう、僕は何百年も前の人に勝てないのである。ピタゴラスにもオイラーにも、音楽でいえば名だたる名作曲家たちにも勝てない。爪の皮にも及ばない。いわんや、現代のトップランナーをや。

おこがましかった。今乗っているレールをどれだけ走ったとて、音楽家にはなれない。その時点で、バンプとか風とかに勝てる訳がないのだ。なんとかなる訳がないのだ。どうにかなりたいなら、ひたすら作る。それだけである。

枯渇気味なので、適宜補給しながら日々に勤めたい。

明日を忘れたい夜に

人の心や気持ちなんてものは、思うより絶妙なバランスの上に保たれていて、何不自由なく生きていると思った次の瞬間に不協和音が流れ出すこともあれば、不意な何かが絶望の淵に光を差し込ませたりする。一つ一つが運で、でも運を引き寄せるのは自分で、すると、全てが自分に帰属してしまう。置かれた場所で咲きなさいと言われても、紫陽花は雨の季節じゃなきゃ咲かないし、桜は春に咲いたと思ったらすぐ散っていく。稲は水がひたひたの田んぼ出なければ実らず、野菜は肥沃な畑からのみ採れる。向き不向き、相性。形があるようでないものが社会を形作っている。

胃が痛くならないと胃の存在を意識しないように、ある程度うまく機能しているうちは気にならないものも、不具合が生じたとき、主張を始めるのは、実は体内のシステムも体外のシステムもそれはあまり変わらない。親のありがたみがわかるのは親がいなくなってから。いなくならないと、足りなくならないとわからない。愚かなものだ。

だから、何不自由ない自分をどれだけ見つめたとて、それは元気な胃袋を探るようなもので、本当の姿が見えるわけではない。苦しい思いをしている時こそ、自分がどういう柱に支えられ、何をエネルギーにして生きているのかがよくわかる。苦労は若いうちに…という格言はきっと、自分の価値観や自分の弱さは若いうちに手なづけておけという考えなのだろう。

しかし苦労を一般化するのも、また、ひと苦労だ。自分の特性を掴めたはずが、全然ちがう部分に弱さが見つかったりして、把握と対症療法のいたちごっこを続けていくのが人生なのかもしれない。


古い友人と一昨日飲んだ。彼は今まさにハードなぬかるみに突っ込んでいる最中だった。お互いにお互いの苦労なんてどうせわからないから、労うだけの会話をして、夜を明かした。当たりも障りも、否定も肯定もしないコミュニケーションを通じて、自分を一つ一つ確かめているような夜だった。自分が掴めたとしてもその延長線上にあるのは何も変わらない日常である。「わかる」「わかった気がする」という気休めを抱いて、解散した。

遠くにあるはずの安寧な日々を塞ぐ、日常。それからさらに目を背けるために目隠しをする。日々は流れるし、味が時間は経つ。

前に進むも横にそれるも、自分を動かすにはどうしようもなくエネルギーがいるものだ。目隠しの間に、勝手に時が流れる間に、少しでも動く力が湧いてこればいい。

戦わなくとも。

夜の代償として

僕はめっちゃ夜に弱い。はじまりの街から一歩出たところにほっつき歩いているスライムのほうが幾分か強いだろう。酒の場とか、カラオケとか、誰かがいたり盛り上がっている場のような、どうしようもなく起きていられる理由があれば、スライムはスライムベスくらいの強さになるが、基本、なんの変哲も無いスライムである。

映画を見たり、テレビを見たりして、ついつい遅くまで起きちゃった♡ってお話を方々から聞く。どうやら世の中ではヒトリノ夜ですら夜更かしをしてしまうことがあるらしい。そう少なくない頻度で。

確かに、夜は長い。しばらく起きていたところで朝は来ない。仮に底知れないモチベーションがあったなら、起きているのも不思議ではない。どうしてもサッカーが観たい、テニスが観たい、なんやかんや。でも、「ついついだらだら」とはなにか。燃えたぎるモチベーションはそこにない。かといって、明日が憂鬱で、寝たら明日が来てしまう恐怖で寝られないというわけでもない。ただ、何事もなく、寝ない。動機はなんなのか。睡眠があるではないか。


そういうわけで普段、やることなくなったら寝るのだけれど、一方でやることない幸せもめっちゃわかる。というかむしろ、なんでもできる時間を担保したい欲求はめっちゃ強い。

だから朝早く起きる。

夜早く寝て、朝出勤ギリギリまで睡眠を貪ったら僕だけの時間はどこあるというのか。仕事と食事と睡眠で1日の円グラフが埋められた生活の、どこに僕を見出すというのか。

おそらく巷の大人たちが夜に充当している自由時間を僕は朝に当てる。寝起きにスーパー気合入れて支度していつでも出られる状況まで持っていってから、YouTubeみたりピアノ弾いたりギター弾いたりする。夜の、あの、朝に追い立てられている感じがない自由時間はいいものである。何しろもう「起床」「朝の支度」というバラモスとゾーマかの如きボスキャラを倒してしまっているのだ。あとは「出社・業務」という神龍と闘い、なぶり殺されるのを待つのみなので気は軽い。余裕である。


ではまた、嬲られてきます。

作曲のコスパ

今日もまた曲を書いた。

曲が出てくるきっかけというのはわからないもので、たまたまアプリを立ち上げてドラムをドコドコやっているうちにモニュモニュと形になっていった。日頃感じているもろもろを言葉で遊びながら歌詞に乗っけたらなんとなくできた。まだ録っただけで、ほとんど何もいじってない状態だが、弾いたり弾いたり音変えたり歌詞書いたりなんなり、時間にしておよそ4時間くらいかかっている。

コスパとしてどうなのだろうと考える。

休日の過ごし方にコスパもへったくれもないのだろうが、「歌いたいことを歌う」これだけのために相当の時間を突っ込んできた。もっと言えば「書きたいことを書く」ことにも普通じゃない時間を突っ込んでいる。完全に余っちゃってる表現への志は僕の人生を豊かにしているか。誰かの人生を豊かにしているのだろうか。

とかなんとか言いながら、自分のために自分の歌を作り、自分のことを一生懸命に昇華したその結晶はほぼ自分そのものである。どこの誰が歌ったどこの誰の歌には共感しかしないが、自分が歌った歌には100パーセントの同感が生まれる。それは気持ちのいいものである。

スマブラがめっちゃ上手くなるより、手の込んだ料理を作るより、映画を見て心を握りつぶされるよりもなによりも、音楽に乗せた言葉遊びで心情を上手く言い表すことに喜びを感じるタチに生まれ落ち、然るべき育ち方をして然るべき時間の使い方をしている。こういった文章を書いている間も、今さっき作った曲を聴いている。やっぱ完璧に自分のことを歌っている。もうしばらく時間が経つと、自分が作った感覚が薄れてきて、よくわからないけど自分のことをめっちゃ励ましてくれる曲へともう一段昇華されることだろう。実に悪くない。

願わくばもう少し精度を上げたいものなのだけれど。コスパを考えるとそこまで頑張らないのがいいかもしれない。