徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

銭湯の音

風邪が快方に向かうとともに、鼻水が止まらなくなっている。ロサンゼルスから友人がやってきていて、昨晩、品川で飯を食ったのだが、途中から滝のように鼻水がでて、歓待もへったくれもない状態になった。申し訳ない。


しかし、熱っぽさはあらかた改善されたため、この休みに銭湯に行った。大田区は銭湯だらけの街で、蒲田近辺にもごまんと銭湯がある。閉店した湯も多いようだが、それでも他の地区よりはよほど多いと聞く。

丸一年と少し前、2017年も終わりに差し迫った頃、やはり僕は風邪をひき、荒療治を称して銭湯に通った。患うとお湯に浸かりたがるらしい。しばらく前の記憶だが、あの湯も良かった。普段体育座りをしてやっと浸かる湯船。銭湯の大きな湯船、なみなみと注がれた熱いお湯に、足を伸ばし悠々と入るのはどうしたって気持ちのいいものだ。心臓が脈打ち、血液がグルングルン回り、体温の上昇とともに汗が吹き出る。溜まり溜まった体内のゴミが汗腺から出てくる。これがデトックスというのだろう。ホットヨガも同様の体験が得られるなら、そりゃ流行るに違いない。


はたして、今日の入浴の話である。

京急蒲田にほど近い場所にある銭湯。我が家から自転車で5分。なんの変哲もない、いたって普通の銭湯。中ぐらいの湯船がふたつ並んでいる。壁面には富士の嶺。やはりお湯はしんしんと熱く、浸かってしばらくすると心臓が本気を出してくる。

こんな経験はないだろうか。

音楽を聴きながら勉強をしている時、勉強に集中すると音楽が全く気にならなくなり、逆に音楽に集中すると勉強に身が入らなくなる。よほど器用な人でない限り、人間は一つのことしか集中できないようになっているらしい。

お湯に浸かり、目を閉じ、自分の鼓動と血行を感じている時、他のことはもう何も気にならなくなる。お腹が空いたも、眠いもない、ただ、身体の循環、今、ここにある生しか気にならない。気が散ったとしても、そこに響くのは湯が流れる音だけだ。

北国では、吹雪の日にホワイトアウトが起こる。前後左右を猛吹雪に見舞われると、今自分がどの方向に向かっているのか、煙の中のように全くわからなくなる。

同じように、銭湯の中では、音のホワイトアウトが起きている。湯の音が浴室に広がり、跳ね返り、全方向からけたたましい音が鳴る。目を閉じると、自分がどの音を聞いているのかわからない。大瀑布のほど近くにいるような錯覚にすら陥る。さらに湯船に身体を投げ出すと、五感のあらかたが宙に浮いたように感じる。本当に気持ちのいい時、人は何も考えられなくなるのだろう。無に夢中になり、無に集中する。

熱さに負けて湯船のヘリに腰掛け、しばらくしたらまた入る。繰り返しているうち、太古の海に想いを馳せていた。海にしか生物がおらず、陸には植物しかなかった時代。両生類か爬虫類か魚類かわからない、肺を持った生物が海から始めて這い出した時、果たしてどんな気持ちだったろうか。なぜ陸を目指したのか。海に天敵がいたのか。陸地というブルーオーシャンを我が物としたかったのか。わからない。しかし、陸地への偉大な一歩があったからこそ、今の人類までつながる壮大な命のリレーが繋がっているのだ。

冷めたら入り、のぼせそうになったら腰掛ける。

考えているとわからなくなる。僕ら人間は万物の霊長を拝命している。立派すぎる、身に余る称号だ。よくもまぁ自分たちで霊長とか言ったものだ。でも、事実、僕らは考え、知恵を振り絞り、生存競争に勝ってきた。牙でも爪でもない、脳みそを使って食物連鎖の鎖を千切った。であれば、考えることが人間の使命であり、生存の掟であると言える。でも、お湯に浸かったり出たりしてると、こうしていることこそ生物らしいのかもしれないとも思えてくる。裸で水に入ったり出たり。生き物だ。これぞ生き物だ。知恵を絞るのが人間であれば、お湯に浸かるのが生き物。人間に疲れたら生き物に戻ればいい。人間、生き物では長くいられない。どうしても、人間になってしまう。その時にはまたいそいそと人間を始めたらいいのだ。

お湯に浸かったり、出たり。出たり、浸かったり。


ガラガラだった銭湯も、少しずつ人が増えてきて、僕は我に返って浴室から出た。火照った身体には赤いまだら模様ができ、日頃の血行の悪さを物語っているようだった。

番台でポカリを買い、飲みながらこれを書いている。

やっぱり、さっきまでの生き物は人間となった。

内科のコスパ

昨日、浮世から離れて仕事をしていた。浮世離れといえば何とものんびりした、貴族のようなそれを想像するが、この度の浮世離れは体調不調によるものである。絶対熱ある。絶対体調おかしい。顔と耳がギャンギャンと熱くなっているのを感じながら業務に当たっていた。回る景色に点滅するパソコンの画面。動体視力がオーバーフローでもしているかのような景色。過敏になったような鈍磨したような感覚が、牙を剥いて襲いかかってきていた。早退しようと心に決めていたのに眠っていたお仕事が溢れてきて帰れず、何なら超勤をかましてやっとこ退勤、どうしようもなくしんどかったので病院に行くことにした。

普段、ほとんど病院に行くことはない。病院は病気の人が行く場所だ。僕は体調不良にはなれど、病気にはならない。そう信じて疑っていない。しかし、昨日は病気カウントせざるを得なかった。市販の風邪薬、いわゆる第二種医薬品ではこのダメ感はぬぐいきれないだろう。そう判断しての受診。近所までとりあえず帰り、運よく家から遠からぬ所に20時までやっている病院を見つけ、診察を受けた。

コッテコテの町の病院だった。令和が始まろうというのに昭和の香がのガツンと効いた外観と内装。映画のセットでもこんな病院作らんぞと思う。20分ほど待ち、清潔感に難のある老齢医師の問診を受けた。鳥類のような目でまじまじ見られながらの診察。見つめられて心地の良い目ではない。なるたけ目を合わせたくなくてぼんやりしていた。ぼんやりした視界の先にある医師のフケがすごい。ホワイトパウダーが盛っている。なんとかしてあげたいなぁ、美容室、紹介してあげたいなぁ。諸々考えていたら、診察が終わった。

結果、インフルではないが、咽頭ががっつり腫れてるから、とりあえず抗生剤と対症療法的な薬を処方してもらう事となった。

 

それはそれとしてである。

今回、初診で1500円くらい、薬で700円くらい、トータルで2200円程度の出費だったわけだが、これ、案外コスパがいいのではないのか。それこそ、ルルみたいな風邪薬が三日分で1700円とかである。それに何とか頑張るための栄養ドリンクを足したりすると2000円はいとも簡単に超えていく。確かに、病院は開いている時間が限られているし、待つし、他の患者からのおこぼれウイルスをもらう危険性だってある。けれど、フケだらけの医師でも医師な訳で、診察を受けて一応の安心感を得られる事と、市販の風邪薬とどの程度効き目に差があるのかはわからないとしても、それなりの薬を処方してもらえる事を考えると、診察悪くない。

頑なに病気を否定し、病院を忌み嫌っていたこれまでだったけど、病気じゃなくとも病院に行ってもいいかもしれない。ポジティブ通院。

 

とりあえず本日は休めるので、休みます。

What is 大臣の資質

桜田大臣が辞任をしたと。度重なる失言の責をとっての辞任らしい。朝のテレビ、昼のテレビはここぞとばかりにここまで連なり来た失言の数々を取り上げ、各々感想を持ち出し、異口同音に大臣の資質を疑い、問う。言い間違い、知識不足、失言、思想が及ばなければ、資質不足。ダーティーなお金の流れがあればそれも資質不足。国費をなんだと思っているか。こんな人に退職金をやるのか。任命責任はどうなんだ。顔中のニキビが爆発したみたいである。

細やかな部分まで気遣いができて、いつだって正しく、豊富な知識があり、大きなお金を的確に投入して国をうまく回していく人でなければ、大臣にはならない。大臣はそうでなくてはいけない。そう思うと、適任なんてとてもじゃないけど早々見つかって堪るかと思う。神かよ。しかし日本も狭いようで広く、稼げていない国へと転落しつつありながらも先進国として構えているため、優秀な人材を優秀な人材として登用する仕組みがあるので、スーパーマンたちがそつなくやっている部署もある。だからこそ、桜田大臣のこの度が叱責の的となっている。


晒しに晒され、国会答弁はしどろもどろになり、自責もしただろう。公開の渦の中でも次々仕事は降ってきて、喋らねばならず、知識も追いつかず、ひとまず読み、しかし漢字が難しく、また叱責、自責、謝罪、ようやく地方の応援に出て、気が休まり、饒舌に話したと思ったらまた失言、失言。

辛いなあと思う。辛い。槍玉として突き刺しまくっている人は、全くもってこの苦しみを察しないのだろうか。それとも、察した上で、大臣としてやらなきゃいけないこととして、厳しく追及しているのだろうか。市井の人が行政の人を追求する機能はあるべきだと思うけれど、屍に等しい人をさらに屠るのはどうなんだ。その程度のアゲンストで音を上げてるようでは務まらないのかもしれない。ワンチャンスをものにできず、ドベドベと失態を重ねるのがいけないのか。その手厳しさはなんなんだ、自分はその矛先は向かないのか、向いていたとしたらどれだけストイックなんだ。


ポストトゥルースと呼ばれて久しい。世論の本当のところがわからない世の中である。みんな僕と同じようなことを考えているかもしれないし、本当に桜田大臣に憤りまくっているのかもしれない。わからない。だからこそ、受動的な聴き手が多いメディアと、能動的な聴き手が多い個人やソーシャルメディアの声がひたすら大きくなる。いつ自分に矛先が向くかもわからないのに。その恐怖に慄いてるやつなんてお呼びじゃないのだろう。そうだとわかっていても、強く当たれない。その自信がない。

笑うは易い。貶すも易いが、自分はどうか。責も立場も全く違う人間の何を問うことができるか。


少なくとも僕はできないと思う。という話でした。

約束のネバーランドを一気に観てみた

ジャンプを買わなくなって10年ほど経つ。当時、ハイキュー!!も始まっていなかった。ワンピースはシャボンディ諸島を抜けたところだった。BLEACHもナルトも絶賛連載中。古き良き2010年代が始まった頃のジャンプである。

化石のごときジャンプの記憶しか残っていない僕に、約束のネバーランドなど知る由もなかった。2年前ほどに連載開始されたジャンプ漫画で、巷では大変な人気を誇っているとのこと。

Amazon primeに乗っかっていたのと、評判は聞いていたので、アニメで見てみた。そういえばジャンプ漫画のアニメ化ってほとんどがテレ東でやるから、地の果てオホーツクではみられなかったんですよね。ジャンプ漫画界の急先鋒ワンピースのみがフジテレビ。もはや局という概念すら無くなりつつある。便利な世の中になったものである。


さて、約束のネバーランドなのだが。

ジャンプっぽい漫画じゃないよねって、多分言われているのだろうと思う。デスノートしかり、アスクレピオスしかり、どことなく暗くて不協和音がずーっと流れているような漫画っていわゆるジャンプっぽい漫画ではない。

あらすじをかいつまむと、孤児院で安穏と暮らしていた少年少女たちがある日自分たちが外の世界の怪物たちの食料として飼われていただけだと知り、孤児院からの脱出を企てる話。

ただの孤児院が様相を変える衝撃はなかなかのものだったし、3人の天才児童がゴリゴリ脱出に向けて手立てを考えていくのを見てるとジャンプっぽさは確実にそこにあった。


この手の物語をみてどうしても考えさせられるのが、養殖についてだ。人間は自分たちのご飯にするべく平気で養殖するけれど、人間を食料とする知的な生物がいたとすると逆に養殖される場合も考えられるわけである。なんでもなく想定される事実ではあるがしかし、実際に描写されると違和感を覚える。

肉にしろ魚にしろ、なんだって命なわけで、動物の世界や魚の世界にもある程度の社会性がもしあったなら、約束のネバーランド的な物語が巻き起こっているやもしれない。そう考えると、やはり僕らは生命をいただいて生きているのだなぁと、改めて思い知らされる。


生命なしに生きてはいけない我々である。せめて、心よりのいただきますを捧げようと思った。

漫画版はまだまだ続いているようである。第2期に期待。

元号が変わるくらいで人間は変わらない

こう、文章を度々書いていると、自分にまつわるあれそれを客観視できるという。文章は自分の分身みたいなものなので、わからないでもない。ただ、本当に辛いとか、本当にきついとか、身に迫ることはなかなか書けたもんじゃないから、苦しみは心の隅の方に巻きついたままでいたりする。

 

かつて、お悩み相談をやっている人間は悩みがあるのかと考えたことがある。競馬の予想屋が競馬当てられるのかみたいな話。どうせお悩み相談員にも悩みがあって、どうしようどうしようとオタオタすることがあるはずなのだ。昼間はラジオで人の悩みを聴いているお悩み相談員が、夜は居酒屋に入って友達なのか居酒屋のマスターなのかわからないけど、自分の悩みを相談する。相談された、お悩み相談員のお悩み相談員はそれらしく話を聞く。で、またその人にも固有の悩みがあって…とこれが無限に繋がっていく。

と、思えばである。

大体の苦しさとか、悩みとか、そういうものは自分のことであるからして辛く、人ごとだと冷静に考えられる。自分の家庭がこじれたらめちゃめちゃ苦しいが、人の家庭がこじれたところでそれは酒のつまみか昼ドラのネタにしかならない。ましてや相談されていけしゃあしゃあと偉そうな返答までしてしまう。

 

社会は大変なことに溢れている。忙しいのも大変だし、暇なのも大変だ。仕事が終わらないのも苦しければ、社内ニートも苦しいだろう。お金がないとか、会社で責められるとか、様々悩みはあれど、それで死ぬわけじゃない。死ぬときは死ぬから死ぬわけだ。死ぬ以外の理由で死ぬのは悔しい。冷静に考えて逃げ出すのが得策だと思えば逃げ出せば良いし、冷静に考えて戦うのが得策の場合は戦うが良い。やべーなって時こそ、ひとまず自分の人生を自分から切り離して考えてみる。

どれだけ客観視して、自分の人生を俯瞰してみても、最後にやるのは自分であることに変わりはない。どこまでいっても人生は人生でしかない。けど、その手段を考えるときや判断に迷った時の材料として、人生を切り離すのは効果がある。「どうしよう」には「こうした方がいい」という手段が必要だ。「困った」には「どうしたの」と聞いてあげる必要がある。人に話しても如何しようもない、人に話せないほど辛いことほど、自分で手段を差し出し、自分で悩みを聞いてあげなければならない。自分の苦しみからはどうやったって逃げられないし、一定程度苦しみ抜く。でもぶっちゃけ苦しいことに苦しんだって何も生まれない。だから、客観視を決め込んで、人の人生を眺めているつもりで冷静に対処していくというのは処世する中で必要らしい。

 

怪我をしない奴より、怪我をしてから立ち上がった奴の方が強い。0勝0敗の人間より、0勝100敗の人間の方がまだ強い。たくさん打席に立って2割5分の選手はスターだ。社会は極真空手やギアなしのボクシングに似てるけど死にはしない。お天道様に背くようなことをしなければ、社会的な死すらも死じゃない。たくさん戦ってたくさん負けてどっかで勝ち星拾えたらめっけもんくらいな気持ちでやっていく。そのステージそのステージで苦しみはあるでしょうが。やっていきましょう令和。

 

Janne Da Arc解散と令和のどれが本当でどれが嘘か。エイプリルフール

エイプリルフールなんていう嘘を許容する文化があるものだから、本当か嘘かわからなくなってしまうのだけれど、ジャンヌの解散と元号決定は間違いのないことらしい。

 

ともあれ、ジャンヌ解散である。

活動休止がかれこれ10年ちょっと続いていたが、いよいよもっての解散だという。理由は諸々あるらしい。お察しいたします。

活動休止と解散。別居と離婚。休職と退職。質と売却。可逆か不可逆か。一旦お休みと完全にやめることには大きな違いがある。バンドや夫婦のような人間関係に起因することは、時が流れることによって再結成の可能性があるがしかし。

 

中学生の頃、月光花、ダイヤモンドヴァージンと振り向けばが学校内で少しだけ流行ったことがある。今思えば、活動休止間際、散り際のジャンヌダルクだった。GLAY、L'Arc〜en〜Cielが格好いい系のバンドとして認知されていた中、ジャンヌの立ち位置はどうだったかというと、「フロントマン三人は格好いいけど後ろ二人はおっさん。スタジオミュージシャンにいそう。」という、純粋な子供ならではの感性を存分に発揮した残酷極まりないものだった。改めて解散が決まった今、YouTubeでライブ動画を見ているが、やはり後ろ二人はスタジオミュージシャンにいそうな出で立ちだ。感性変わらず。

 

しかし、ジャンヌといえば、yasuだ。稀代のボーカリスト、yasu。ジャンヌの音楽性とか、曲のメッセージ性とか、ぶっちゃけどうでもいい。yasuの声こそジャンヌダルクであり、ジャンヌダルクをジャンヌダルク足らしめるものである。声は生理的かつ原始的な何かに訴えかけてくるものがある。イケボという語が定着して久しいが、yasuは紛れもなく中性的なイケボで、さらに中性的な顔面、hydeと並び立つ体躯を併せ持つ。カリスマ以外の何物でもない。

 

そしてyasuといえば「タチツテト」である。

滑舌なのか、癖なのかわからないのだが、彼の「タチツテト」は独特で、「ツァツィツツェツォ」になる。Aメロだろうとサビだろうと、いつだって、ツァツィツツェツォ。

霞ゆく空背にしてという楽曲がある。

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にどツォ会えないツォしても。

少しだけ早い粉雪 指にツォけて。

 

ヴァンパイア

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あなツァにヅァかれて 胸に爪を立て

こんなに辛いなら愛なんツェ 信じない

 

ABCだけどBlackCherry

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BlackCherry 濡れツェ おツィて わツァしの中へ

ツァねを残し 甦れ

 

舌ったらずなんですかね、でもこれが癖になる。愛おしい。カラオケで歌うときもツァツァっちゃうし、他のアーティストの曲を歌うときもついついツァツァっちゃう。自分の曲を作っても、盛り上がってくるとツァツァっちゃう。多大な影響を与えられている。ツァツァると、歌唱にスピード感がでる気がして、歌っていても気持ちいい。

 

しかし、yasuも療養中でABCも活動しておらず、ジャンヌも解散となると、いよいよ寂しくなる。本家ツァツァが聴けなくなる。四散するメンバーはどうなるのだろうか。本当にスタジオミュージシャンになってしまうのだろうか。

ウィーアージャンヌ。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

 

報酬の有無とやりがいについて

このあいだの昼ごはんの時、同じお部屋で働いている先輩がこんな話をしていた。

集団を2群に分け、2回折り紙を折ってもらう。片方の群は報酬を与えて、もう一方は報酬を与えない。2回目を折る指示を出した時、折らなかった(折るのを面倒くさがった)人が多かったのは報酬を与えた方の群だった。

報酬についての実験の話だ。金銭に代表される報酬は、本質的に動機づけになり得ないことを示唆している。というか、報酬を与えた時点でやる気が下がるみたいな話。仕事とは…と考えさせられる。


どうあれ、間違いないのは、「それそのもの」が楽しい時に人間が出す力は凄まじい。金銭とか、承認とか、何かを介しての楽しさより、直接行為と動機が結びつく方が強くコミットできる。

仕事・サラリーマンの雇用モデルは、どうしてもお金を介するから、本質的な楽しさがそこにあるわけではない。そもそもやる気が生まれにくい土壌であると言える。

だから、入社の時に「やりがい」を訪ねる。

何に惹かれたか。当社で何がしたいか。金銭を通さない動機を持ってる人の方が辞めにくい。会社が儲からなきゃ給与なんていくらでも変動する。本当に頑張らなきゃいけない時に給与が減ってやる気が損なわれる人より、職種の名を借りた行為そのものが動機だから給与がどうなろうと踏ん張れる人の方が、会社としては嬉しい。

生きがいだけで生きていけるかといえばそうではなく、お金はどうしても必要だ。今の世の中、労働が金銭を得る最短距離でもある。しかし、そのせいで労働行為そのものへの興味は減る。のっぴきならない事情の労働は苦しい。


結局、労働はどこまでいってもやりがいと金銭の反発をはらんでいるのだろう。

目的から手段まで全てが好ましい物事なんてほとんど存在しないから、皆々が面倒くささとかストレスとかを抱えながら、やりがいを見失いながら、けど、生きるにはお金が必要だからって一生懸命働いているらしい。すごい世界。


雇う方と雇われる方でも見え方は変わるし、雇う方は雇う方でお金をぶん回す至上命題がある。お金の額に心底コミットできる人間が一番強いのかもしれない。

さて、新社会人の皆々様、頑張りましょう。

そうは言っても社会はそこそこ楽しいです。

飲みに行こうね

幾度、この言葉を放ち、幾度、この言葉で契り、幾度、放りっぱなしにしてきたことか。死後、閻魔大王に舌を引きちぎられるとすれば、その責は飲みに行こうねの一言にある。可能な限りな誠実を誓ってはいるし、飲みに行こうねと口に出した時には本気で飲みに行きたいと考えているものの、どうしたことか、どういうわけか、実現する宴席はごくごくわずかであり、それを嘘つきと言われれば言い訳のしようもない。

みんな人と会うのが仕事ではない。仕事をしながら、日常を転がしながら、たまに会いたい人がいる。しかし何より大切なのは日常であり、日常の余剰分を使って誰かと飲みに行く。飲みに行こうねの主体は、1人ではなく、2人以上となる。だから、お互いの日常の余りを持ち寄って、初めて飲みに行くことができる。そう考えると、飲みに行くという行為自体が奇跡のように感じる。滅多に実現できることではない。

でも、僕らは簡単に口に出す。飲みに行こうね。便利な言葉なのだ。あなたのことを大切に思っていると、それとなく伝えられる言葉なのだ。あなたに、私の日常を、割きます。割きたいです。たった一言で、そこまでの意が伝えられる。その場では行こう行こう!と盛り上がり、翌々日あたりには、密室のロウソクの火のように、酸素が足りなくなって静かに消えていく。「あなたのことは大切で、あなたと会いたいとは思っているけど、日常を割くほどのアレではないので、ごめんなさい。」これが、飲みに行こうねの正体だったりする。

優しい嘘ではないか。なんと、優しい嘘だろう。飲みに行こうねが実現して、それが日常になることもある。僕とあなたの、彼と彼女の、ほんの少しの日々の余りを、持ち寄る気持ち。ほとんどが嘘だとしても、幾ばくかの真実がそこにはある。


たくさん、飲みに行こうねと言って、何も動いていないので、懺悔の気持ちがいっぱいです。

でも、日常も大切なのです。

いつかはきっと飲みに行こうね。

児童養護施設の子供達と遊んで感じたこと

労働組合と会社と、労使手を取り合ってやっていきましょう事業の一環で、とある児童養護施設に行ってきた。昼頃から夕刻まで、ひとしきり子供たちと戯れ、日頃小難しい話をされることしかない労働組合の急先鋒と共に無邪気な心でエンジョイしてきた。未就学児から高校生まで幅広い年代の子供たちがいたけれど、下ネタから陸上競技から楽器から、僕の持ちうるものを総動員してコミュった結果、どの年代の子ともめっちゃ仲良くなれたと思う。本当によかった。また行きたいです。

 

とまぁそうなんだ、そうなんだけど、児童養護施設の現状をちらっと園長先生ならびに担当の職員から聞いて、思ったことを書き留めておきたい。

以下、記憶にある話。真偽は現在不明。あとで何かしらの資料を読みたい。

大前提として、日本には養護施設が足りていない。

原因として、そもそもの補助金が足りないのが一つ、あともう一つは、国の方針が里親に注力して養護施設は基本的に縮小させていく方針であることが一つ。

また、里親・養護施設合わせて現在3万人程度の児童を養護しているが、その大半が虐待・ネグレクトであり、本来的な目的である支援のような建設的な事由での養護は少ない。なぜなら養護するためには親子双方の同意が必要であり、そのハードルが極めて高く、そもそもの受け皿の数が足りていなくてケアしきれていないことがあると。

お金がないのはさておき、なぜ国は里親を推進しているかといえば、学者一派が出した見解として、「子供はできる限り家庭に近い条件で養育されるのが望ましい」というのがあるらしく、そうした学識に則った結果であった。当たり前だが、養護施設の方がプロのケアを受けられ、大勢の児童を養護できる訳で、養護施設側からすると国の方針は実態に即していない部分が大きいらしい。

 

なるほどなぁと思った。

施設側の意見として、この状況が一定程度正しいとすると、確かに国からお金が出て、もっと施設にマンパワーと資本を注入できれば、今隠れて虐待を受けている児童や、虐待にはならずとも支援の手を待っている家庭に手を差し伸べられることとなる。

実際金銭面での劇的改善が難しい中で、じゃあどうするかという話なのだろうが、一番求められるのは、子供当人の幸せである。これは間違い無いと思う。学者の意見が正しかろうが正しくなかろうが、子供自身がその時を安寧に落ち着いて過ごし、今この時の生存を懸命に求めるのではなく、ある程度未来・将来まで見据えて人生を捉える余裕が与えられること。希求されるのはこれだ。

そうした環境を作るためにどうするかだけれど、それは学者がどうだから、国がどうだからではなく、児童本人と、本人に親しく接している職員や家族、そして、やはりその道を究めた学者がスクラムを組んで考えていくものであり、少なくともトップダウンで識者がえいやと降ろしていいものではないと感じた。

とは言っても、国は国の論理があるだろう。いちいちヒアリングかけてられないのもわかるし、金はかけていられない。里親を推進するのも、体裁は家庭環境に…という論理だが、本音はハード面での投資が少ないからなのかもしれない。本質的な改善を求めるために民意を集めて!なんて話になりがちだけど、そこまで行ったら政治の話になってしまって全く本質とはずれていく。

 

難しい。

今日触れ合った子供達、そして彼らの今とこれからを真剣に支えている職員。彼らの意気こそが、本当だと思うし、それが活かされなければ嘘だ。

僕は今サラリーマンで人事屋さんである。

だから、目の前のお客様を喜ばせる人たちが働きやすいような仕組みを一生懸命維持して、作って、現場でお客様が大変に満足し、結果会社にお金が集まり、その一部が法人税として国に回り、国の予算委員会か何かで結集した税金の行方が厚労省マターに振り分けられた先に、ようやっと今日の施設がある。

拡大解釈も甚だしいしややこしいけど、確かに僕の日常と彼らの日常は繋がっている。僕の一生懸命は、彼らの一生懸命を助け、彼らの一生懸命が僕の一生懸命を支える。

 

泡沫の勇気ややる気じゃ世界は変わらず、人口減少フェイズに突入した日本において黙っていたら劇的に福祉が良くなるとか経済が大回転することは確実にない。しかし、この末端で、肌で感じた楽しさと子供たちを支える厳しさは本当で、どうにかするにはまず目の前のことをやっていくしかないのも本当だった。

遣る瀬無さのうちに、明日も頑張って働く。

イチローの引退に感想など抱きようもない

実家の戸棚に眠っているNUMBERの多くは、イチローが表紙だ。渡米しました号、ポストシーズンでいいとこいった号、シーズン262安打おめでとう号。上京してからも、ヤンキースに行った号、マイアミにいった号など、節目節目のイチローを読んできた。


生で引退会見を見ようとしたのだが、見事に寝入ってしまったため、昨日youtubeに上がっていたノーカットバージョンをやっと見た。見逃しに優しい昨今の技術に救われた。


記者からの質問とか、あまり関係のない会見だったように思う。イチローが話を始めるきっかけとして質問が用意されているだけで、イチローはその質問を種に好きに話をするような、フリートークに近い形式での会見だった。

強い奴が勝つんじゃない、勝つ奴が強いんだ。とは、誰の言葉だったろうか。

ルールを守って、結果を出すことが全て。結果を出した奴こそ、強い。過去100年、野球というフィールドに人生をかけた人間の中で、最もヒットを打った男が話す言葉を、僕は全面的に肯定するしかなかった。むしろ、感想をいだくことすらおこがましいと感じた。

1994年から勝つのが当たり前になって(番付が上げられて)プレッシャーが常にかかる日々だったこと、それでも、毎日自分の肉体の限界を少しずつ超える、誰と比べることもできない努力をしてきたこと。契約の折り合いがつかず、神戸でひっそりと選手生活を終える予感がしていたけれど、マリナーズとの縁がまた舞い込んできたこと。全てにおいて、ははぁ…以外の言葉がでない。イチローも人間で、イチローしか感じ得ない苦しみを抱きながら生きている事実にもははぁ…だし、それに飲み込まれながら戦ってきた実績にもははぁ…だ。


一般化しようと思えばいくらでもできる。

毎日に追われるサラリーマンだって、資金繰りに苦しむ経営者だって、雨を待つ農家にだって通ずるように、イチローからみんなへのメッセージとして話を整えて、僕らがそれを受け取ることは容易い。

けど、イチローが話すイチローの苦悩を一般化していいのか。至高のプレッシャーに苦しみながら至高の努力を積んで至高の結果を残してきた人の言葉を、僕らの生活に当てはめて考えていいのか。もう、わからない。


「無粋」「粋じゃない」「野暮」この辺りの言葉を使って、イチローは記者からの質問をいなしていた。それはきっと、イチローが自分の個人的な経験を人に見せることがどういうことかを知っているからなのだと思う。

どこまでいっても、感情は個人的なものだ。

比類する人がいないイチローだからこそそれを強烈に感じたが、同じような仕事、同じような境遇でも心のフィルターの目の粗さは人それぞれだし、感情の残滓から何を受け取るかも、意思の強さも人それぞれ。何一つ一般化できない。ただ、世の中には比類する立場で、比類する圧力に、比類する辛さを感じている人がたくさんいるから、「共感」とかいう便利な言葉で誤魔化せているだけにすぎない。

けれど、会見の終盤、イチローは、最近孤独感を全く感じていないと話していた。

感情は個人的なもので、人と比べられないのかもしれないけれど、そうじゃない、心の別の部分は、人と分かち合うことができる。どうやらそれが、孤独な感情を救ってくれるらしい。


強い奴が勝つんじゃなく、勝つ奴が強い。また強さが正義であるならば、イチローの生き方はイチローにおいて正しい。誰にもケチがつけられない生き方だ。生き方の原石を突きつけられて、僕はどうしていいのかわからない。おかゆのようにぐずぐずに砕かれた安いライフハックではない、極めて特別で、比べるもののない情報を、どう扱えばいいのだろうか。