徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ハンプレッダーズ「銀河高速」

これを聴いて、僕は歳をとったなぁと思いました。

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175Rや、ロードオブメジャーなのだ。彼らは。難しいコードを使わず、特に英詞を歌うわけでもない。みんながわかる言葉を、ギターを学び出して1週間で覚えられるコードで歌う。ど真ん中ストレート。誰の気分を害することのないロックチューン。

たまたまオススメの動画で上がってきた。今の10代はこういうバンドに夢中になっているのだろうか。確実に、歴史は繰り返している。それも、たった10年の間で、ぐるぐると回っている。

歳をとったと感じたのは、どことない既視感を曲に感じたからか、それとも、あまりにもまっすぐな歌に特別な感動を抱けなくなったからか。端的に、いい曲だなとは思った。とかく、気だるい雰囲気でチルチルするような曲が流行っている。JポップやJロックの土壌で、様々な音楽がひしめき合っている。そんな中で、純度100パーセントのJロックは気持ち良い。でも、それは未知との遭遇ではなかった。昔よく通った道を辿るような、オガクズで燻した香りが漂うものだった。

 

オリンピックを見たって、皆既日食を見たって、自分が歳をとったとは感じないが、「深夜高速」を聴いて、猛烈に加齢を感じた。時間は経つし、星は巡るし、歴史は繰り返す。繰り返す日々のなかで、少しずつ中心から離れながら僕らは周回しているのだろう。同じようなところで気持ちよくなり、同じようなところで苦しみながら。

眉村ちあき「めじゃめじゃもんじゃ」

ゴッドタンで即興ソングを披露し巷に知られるようになったという、眉村ちあき。その、メジャーファーストアルバム「めじゃめじゃもんじゃ」。

 

私事だが、最近iTunesStoreで2週間に1回程度、新しいアルバムを購入するようになった。同じ4000円なら、飲み会一回分の泡沫よりも、1枚のアルバムに資本を。特段飲み会の頻度が減ったわけでもないため、ただただ自らのお金をサクリファイスしているだけなのだが、なんだ、知らない曲に触れることは新鮮でいいことじゃないか。

そういうわけで、特に思い入れがあったわけではなく、雰囲気でポチっためじゃめじゃもんじゃ。まじでいいアルバムである。ここのところこれしか聞いていない。

 

めじゃめじゃもんじゃ

めじゃめじゃもんじゃ

 

 

16曲入。

早く熟した曲からとって出しました!みたいな、特にコンセプトに縛られるわけでもなく、多彩な曲が突っ込まれている。

息をするように曲を作っているのだろう。それは、才能とも言えるのかもしれない。曲を聴いて、その曲を自分の中に取り入れ、自分なりにアレンジして吐き出すのがとても上手い。

ポリシックスを聴いて作ったらしき、「奇跡・神の子・天才犬」

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在日ファンクを聴いて作ったという、「荻窪選手権」

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King Gnuの真似をしたと言っているものの、GOGO1178にも寄っている、「開国だ」

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何か他のアーティストの要素を取り入れても、メロディを掴むセンスが圧倒的にいいから、先人の曲調に引きずられることなく、サビでは自分の曲に持っていく。音楽的体幹が抜群に強い。

 

「書き下ろし主題歌」もすごい

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聴いていて楽しい。好きなことを全部やった様子がよくわかる。

ビヨビヨしたイントロからめっちゃ語感のいいラップ、転調してBメロで一回落ち着いてから、サビへの転調が熱い。半音上がる。ただシャープ一個つくだけなのに、高揚していく。サビのメロがまたキャッチーだ。メロディセンスは天性のものか。羨ましい。

 

ごちゃごちゃした曲もあれば、代表曲とされる「大丈夫」や「なんだっけ」では、天才と言われる自らの心境を赤裸々に綴る。思ったことを素直に言う強さを持っているのは素晴らしいと思う。とかく言葉の陰に隠してしまうものだ。

 

僕が何を語るより、聴いた方が早いと思うので、iTunes Storeで視聴してみたらいかがだろうか。一回の飲み会よりは間違いなくいい投資になると思う。

 

僕も、曲を作る端くれとして、瑞々しい気持ちになった。書きたい曲を書く。日々あった面白いこと、つまらないことを、ただただ、曲として昇華する。それだけでよかった時期が僕にもあった。社会人になり、薄給を砕いて小賢しい機材を揃え、曲も一定のクオリティでアウトプットできるようになった。けど、面倒くさい作業が発生することを学んでしまった手前、レコーディングへの敷居が高くなってしまって、曲作りにポジティブではなくなっている。

でもいいのだ、最初はギター一本、ピアノ一台である。そこで歌いたいことを歌えばいい。いい曲の切れ端ができたら、きっと一目散に曲を作り出すに違いない。

 

 

ともあれ、すごい熱量で曲を作っている人の紹介でした。

社会の生き方

能力のバラツキとか、デコボコとか。ダイバーシティが叫ばれる世の中においてはよく話題に出る。ADHD、ASD、自閉症はスペクトラム状。みんなが働きやすい世の中がいいよね!障害者の雇用立とかを国から定められながら、銘々、企業は多様化を取り入れている。

健常者と呼ばれる人間でも、もちろん能力にバラツキはある。学校の授業レベルからそうだ。算数ができなかったり、国語が得意だったり、体育は走るのが速くても水泳はダメだったり。十人十色、みんな違ってみんな良い。

しかしこう、高校大学社会人と、資本主義の淘汰に身を委ねて、ハッと気がついたら周りがまじで優等生かつスーパーマンしかいなくなっている。心底、ビビる。能力のバラツキが少なく、しかもそれぞれ能力値が高いように見える人間ばかり。何度浄水器にかけたらこんな水出てくるんだってくらい、清廉な水。清廉な人間だらけである。みんな無理してるのかもしれないけれど、取り繕ったふりするのすら上手い。


一方、僕といえばなのですが、スケジュールの管理がどうやら凄く苦手らしいのと、すごーく小さくて面倒なことを棚上げしまくる性質を持っているらしいので、結構頻繁に失敗をする。

なんでできないんだろうね、どうしたらできるようになるんだろうね、みんな心配しているよ、僕の、私の、指導が悪いね、大丈夫?

みたいな、心があるようで心がないようなご心配を賜り誠に有難うって感じなんだけど、心配されたって仕方がないから、なんとかしようと、さまざまなツールを使って使って、それでも漏れていくものが山ほどある。どうしろと。


誰彼にヤイヤイ言われようと、ヤイヤイ言っている人よりたくさん曲作ってるし、かけっこじゃ負けないし、囲碁で戦わせたら絶対勝つ。自分の能力の中でダイバーシティを担保できてるから、別に気にもならない。けど、社会でちゃんと生きていく能力を身につけるというのはなかなかどうして大変なことらしい。改めて実感している。当たり前にしなきゃいけないことが多すぎやしないか。手帳に予定を書く癖をつけようね、とか、面倒くさいことでもちゃんとやらないと困る人がいるからやろうね、とか、簡単な人には簡単なんだろうけど、僕にとってはもう一大事なのである。


個人的には、愛すべき能力のデコボコなんだけれど、どうやら大変ご迷惑をかけている側面もあるようなので、長短の短の部分には真摯に取り組ませていただく。そもそも、かけっこを含めたその他の部分で、大勢には大きく勝ち越しているのだ。これで短が埋まってしまったらいよいよスーパーマンが誕生してしまうのでは…?と思う。冗談です。


そういうわけで、辛い思いをしながら働いている社会人一同には、ぜひ自分の総合能力を考えてみることをオススメしたい。社会人はとかく、一長も一短も、同じ部分で伸ばしたり凹んだりしている節がある。そんなんで何がダイバーシティだって話だ。一長の長の部分が、社会人偏差に届かなかったからって、それだけの話。大したことじゃない。連中が短してる部分で勝ち越してやれば良いだけだろう。

すると、だいぶ気持ちが楽になる。

そうして開き直りをぶちかまし続けたら、僕のように社会の癌化するのですけどね。

やれる範囲でやっていきましょう、現代。

午前三時は朝か夜か

僕の家路は、寂れた商店街になっている。昔はもっと栄えていたと言うが、見る影は大変に薄い。中途半端に距離が長いから、店と店の間が開いてしまっており、商店街感を今ひとつ損ねてしまっている。そして、寂れた商店街に生きるのはお年寄りが多い。僕の地元もそうだ。新陳代謝が適切に行われなくなると老いていくのは、人間も街も変わらないらしい。

おじちゃんおばちゃんたちの朝は早い。どの世の中でもそうだろう。だからなのか、土曜の朝に商店街は朝市を催している。のっぺりと広い商店街にポツポツとある八百屋さんやお魚屋さんが、朝早くから店前で出店をだす。少しだけ、商店街が活気付く瞬間である。

 

今日の家路で商店街を通ったら、すでに朝市の横断幕が垂れ下がっていた。準備がいいなぁ、前の晩からもう幕を準備しちゃうんだなぁ。ぼんやりと考えながら家に帰った。

道すがら、ふと疑問が湧いた。何時からが朝なのだろうか。

前日の21時前に見た「朝市」の垂れ幕は、明らかにフライングだった。では、当日の何時からだと、朝だなぁと思えるのだろう。子供のなぜなにレベルの疑問である。

この問題、昼と夕方の間や夕方と夜の間は、比較的わかりやすい。

午後3時は昼だ。夕方ではない。しかし、午後4時となると一気に夕方の様相が深まる。午後6時は夕方だけれど、午後7時は夜。日本の社会通念的な時刻感覚なのではなかろうか。

 

でも、朝と夜、これは互いにとろけあっている。

午前2時は深夜である。

午前2時踏切に望遠鏡を担いで行った

これは、誰がどう聞いても深夜の描写だと感じるはずだ。朝早くに望遠鏡担いで行ったんだね〜〜とは思わない。午前2時に朝市の垂れ幕を見たら、夜なのに…と思うだろう。

一方午前4時はどことなく早朝の匂いが強くなる。始発が出る頃だからだろうか。夏の日の出がその頃だからか。朝市の垂れ幕もそこまで違和感はない。

間の午前3時は、どうだろう。午前3時に食べるご飯は朝食か、夜食か。夜食っぽい。けど、午前3時に見上げる朝市の垂れ幕は朝市っぽくもある。明確に朝とも、明確に夜とも言えない時間、午前3時。夜更かしも3時に寝ればなんとか明日も戦えそうだが、4時になってしまうと途端に弱気になってくる。朝の音が遠くから迫ってきている深夜であり、夜の淵から抜け出したての朝だ。

 

真夏日を観測した東京都。まだ乾燥した夏である。日が長くなってくれる分には、本当に嬉しい。明日も晴れるようである。朝市が賑わうといい。

朝キャバ帰りのお姉ちゃん

大田区の方に引っ越してきて1年半ほどになるが、蒲田は治安が悪い割りにキャバクラが少ないように思う。錦糸町はすごかった。アブナイ感じのお店から危なくない感じのお店まで、ありとあらゆるキャバクラがあった。いろんなお姉ちゃんがいた。

キャバクラのお姉ちゃんは、その空間においては女優である。おっさんの金を夢に変えなきゃいけない。1人の人間としてではなく、キャバクラのお姉ちゃんとして。だから、露出の多いドレスを着ていたとしても、人間性の露出は少ない。キャバクラのお姉ちゃんをずっと演じている。


この間横断歩道の赤信号を待っていたら、朝キャバ帰りのお姉ちゃんが隣に並んだ。ボディコンキメキメのドレスに、秋口の北海道を原付で走ったら雪虫が大量付着しそうな髪の毛。絵に描いたようなキャバクラのお姉ちゃんだった。

青信号に変わり、お姉ちゃんが先に歩き出した、その足元はエアージョーダン。

僕はお姉ちゃんが愛おしくてたまらなくなった。足首から上と足首から下がまるで別人である。ヒールが辛かったのであろう。僕たちサラリーマンがネクタイを外すがごとく、彼女はヒールを脱いでエアージョーダンに履き替えたに違いない。演じ終えた女優の素顔。すっぴんのエアージョーダン。かかとのくたびれ方からして、相当履きこんでいると見えた。やはり実利。花より団子ですね。


厳しい上司が飲み会で砕けた時のような、卒業後に先生と宴席を囲む時のような、あの感じ。公から少し私がはみ出した時の愛おしさったらない。

誤解を恐れず、また会いたい。

たった今不動産販売の飛び込み営業とお話しして感じたこと。

一週間のうち、もっとも静謐な時間はいつだろうか。月曜日の朝か。土曜日のお出かけを控えた金曜日の夜か。いや、それは、セイコーゴールデングランプリをじっくり観戦したのち川崎まで出かけて、映画館で「名探偵ピカチュウ」を観て、自宅付近の銭湯でとっぷりお湯に浸かった後、コンビニでおかずを買い、日本酒をちびちび飲みながら晩御飯を食べる日曜日の夜である。

そう、今のことだ。

激情の作家・三島由紀夫氏が山本常朝の葉隠が好きすぎて葉隠のブックレビューを書いたら60回くらい重版がかかってしまった曰くの書、葉隠入門を片手に、豚モツ煮込みをつまみながら粋一選の大吟醸を飲んで、山本常朝の原文に合いの手を入れまくる三島の殊勝な姿勢に感心をするとともに、日頃の自らの行動を省みていた時、不意にピンポンが鳴った。

アマゾンを頼んでいた記憶はない。しかも時刻は21時を回っている。

皆の衆、考えてほしい。仮に、僕が銭湯上がりのぽかぽかな状態で酒飲みながら三島を読むという稀有な幸せを享受していなかったとしても、常識的に、日曜日の夜って静謐な時間だろう。確かにここは単身者が多く住むマンションであるが、明日から仕事の人間が多くいるはずだ。単身とはいえサザエさん症候群に罹患している人もあるかもしれない。よくもまあ、そんな時間に。どうせ在宅率しか見ていないのだろう。そちらの都合で仕事をするな。こちとら三島を読んでいるんだ。葉隠してやろうか。

まぁいい。逃げも隠れもせずに、僕はインターホンに出た。

結論、そのベルの主は不動産の営業のものだった。

開口一番、社名を名乗り、このエリアの担当をしているなにがしですが…ご挨拶周りに伺いました…と言う。そこで相手のターンは終わりのようだった。

僕は、社名も名前も心当たりはなかった。この時点では、「知らない会社の知らない人がエリアの担当を名乗りご挨拶周りにピンポンをしてきた。」という状況である。

エリアの担当とは…?エリアの担当…?なぜご挨拶周り…?

私「なになに会社のなになにさんは、このエリアの担当で、なぜ僕に挨拶をしにきたのでしょうか。」

エリアの担当「不動産で節税対策の関係でのご挨拶を…」

ここで飛び込み営業と気がつく。その辺の空き部屋を節税を謳いながら買わせる魂胆らしい。僕はこの部屋の家賃でデフォルトを起こしそうだというのに、よくもまあ数多ある部屋からハズレくじを引いたものだ。残念だったな。

しかし、しかしこの時点で、宗教や思想ではなく、財力というわかりやすい観点から僕にそぐわないものであり、背伸びしてもどうにもならないし、どうしようとも思わない類の営業だと判明したので、一旦通してあげようと思った。

私「ご挨拶しましょう」

とりあえずオートロック開けてあげると精悍そうな男性が一人、ドアの前に立っていた。話に寄れば齢30らしい。同年代ですね。デジモンとか、好きでしたか。

名刺をもらってご挨拶をしたところで終わりかと思ったら、どうやら違うようで、僕にもろもろ質問をしてくる。世間話のふりをした値踏みだ。恐ろしい。

何歳か。この部屋に住んで長いか。勤務先はどこか。業種は。一部上場ですか。大手か。大手ですね。大手と見ました。年収ってこれくらいですよね。ですね。違いますか。でも誤差の範囲ですよね。

思い出していただきたい。僕は今し方まで日本酒をちびちびしながら三島を読んでいた。重ね重ね、静謐な時間をそこそこなプライベート質問ラッシュで埋め尽くされる日曜日の21時。そこそこなQOLの死に具合である。飛び込みとはいえ家を知られている以上、知らないのは名前と携帯電話の番号くらいじゃないか。恐ろしい。しかしよくもまあズケズケと初めましての瞬間に世間話を装った僕の話をしてくるものだな。君は名乗っただけなのにな。

とはいえ、一度こんにちはしてしまったものだから、嘘とも本当ともつかない会話で濁していたのだが、いい加減相手のターンが長かったので、端的に要件を伺った。が、やはりマンション一部屋どうですかビジネスだったので、金は持っているふりをしながら丁重にお断りを入れ、帰ってもらった。

で、またちびちびと粋一選している。

 

果たして、静謐な日曜の夜が帰ってきたのだが、とりあえず飛び込み営業を受けてみて、あれほどまでに勝ち筋の見えない営業はないなと改めて感じた。

まず、在宅か留守かで分岐点。ここの確率をあげるための日曜夜なのだろう。ずるい。

在宅だとして、出るか出ないかで分岐点。なんとなく清潔感があるお兄ちゃんであるところで、なんとか確率を上げてきているようだ。しかし、今のご時世、この時間に不意にピンポンされてのこのこと出て行くお人好しがどれだけいるだろうか。40世帯ほど入居している弊マンションだが、1割もいないんじゃないか。

出たところから、やっと土俵である。

あくまでご挨拶周りという名目だから、僕はもしかすると彼にとっての成功事例となるのかもしれない。が、何度も言う、この静謐な時間に水を差した彼の責は重い。彼にとっての成功は僕にとっての迷惑でしかない。なのでこの先巨万の富を築き、マンションを買って節税したいなーとか思ったとしても彼には頼まない。

しかも、エリア担当と言っていた。

ご存知ないかもしれないが、僕が住む京急蒲田から徒歩15分ちょっとのエリアは、もはや住宅街で、僕のような単身者が住むマンションが多くあるかといえばそうではない。このエリアを受け持っている時点でなかなか勝率低いと思う。いばらの道を歩まれているのだなぁと、しみじみ思ってしまった。こんな夜中に、美味しい食べ物でもない不動産商品のご案内。いや、ご挨拶周りだ。金にすらならない。できれば将来の金に繋げたかったのだろうが、少なくとも僕は2000字ちょっとの文章を叩く程度にマイナス方向へ感情が動いている。積みゲーの様相である。

 

僕にもっと余裕があれば、開口一番の言葉をどうしたらよかっただろうかとか、もっと勝率をあげるにはどうしたらいいのだろうかとか、色々話してみたいなとは思った。

僕は絶対買わないけれど。

働き方改革と公立高校のハングリー魂について

今、右手のテレビではミライモンスターなる番組をやっている。ゴルフ界注目の双子ゴルファー。二人の通っている高校が埼玉栄だった。泣く子も黙るスポーツ界の雄である。恐怖のオレンジ軍団。オランダかな?

 

サニブラウンが9秒台出したり、世界リレーをはじめとしたトラックシーズンが開幕したり、陸上の話題が世にでるようになってきている季節。どうしても青い記憶が蘇りがちになる。いい歳のお兄ちゃんになりつつあるのに、未だ10年前のレースの景色などをありありと思い出して感傷に耽る。馬鹿らしいけど楽しいものだ。

青い感情がひたひたの土壌に、埼玉栄に代表される私学のエッセンスが加わった時、僕の心に芽生えたのは当時燃やしていた私立に負けるか精神であった。懐かしい。

スポーツの強豪校と言われる学校、北海道だと当時の室蘭大谷だとか、北海道栄、白樺は、もう部活にじゃぶじゃぶ時間を使うで噂だった。朝から部活、昼から部活、夜まで部活。高校生段階でもう筋肉武装である。恐ろしい。

一方、我々が通った北海道はオホーツクの公立高校は、文武両道・質実剛健を掲げ、全部やってこそ本校の生徒であると、事あるごとに生徒たちの脳内に刷り込む大変優秀な学校であった。ピュアな心情を抱えて入学した中学生に毛が生えた高校生たちは、素直に素直に文武両道・質実剛健を履行。するとどうなるかというと、私立の奴らの部活の仕方は許せない…みたいな、ある種倒錯した価値観を抱くに至るのであった。

 

24時間働けますか。

昼夜を徹しての業務が囃し立てられた時代から早幾年。今や生産性と業務効率化が世界を回している。昔ながらの仕事の仕方と、今やらなければいけない仕事の仕方。これは、ある種私立の部活と公立の部活に置き換えられるのではないかと、まぁなんだ、ぼんやり思ったわけだ。

あの、限られた時間の中で部活をしなきゃいけなかった高校時代。雪に閉ざされた環境下でこそ培われた体幹やらその他諸々の能力。どう考えてもハンデとしか思えない状況を、なんとか味方につけて私立の連中をやっつけていくことに、面白みを覚えていたものだった。

長時間必要な業務を、どうアプローチして短時間のそれでなぎ倒していくか。テーマが違うだけで、高校当時やっていたこととなんら変わらないらしい。

埼玉栄のオレンジが想起して奮い立ったこの気持ちが、明日まで持っていたらいいなと思う。雪解けのごとく消えてしまわぬよう。

喉痛い体熱い風邪ひいた

原因はわかっている。昨晩窓開けっ放しで寝てしまった。僕の寝床は窓際にあるからして、夜風に7時間ほど当たり続けた僕の体は見事に冷え、外気を吸い込み続けた咽頭は赤く腫れた。最近不意に寝てしまうんですよね、疲れですかね。不調に感づいたリンパは今も頑張っている。全力で仕事をしてくれている。主張し過ぎなくらいだ。

この間、ついひと月前もそこそこな体調不良に襲われた。1ヶ月ぶりのこの感じ。前回の体調不良時に、くたびれた鳥類のような顔をした医者にもらった薬が余っているので、ひとまず抗生剤をぶち込んでいるが、どこまで抗生できるものやらわからない。

 

あなたの風邪はどこから?僕は喉から。そう、喉から風邪に転落していくのだが、26年この体で生きていると、ヤバイ感というか、風邪引くフラグは敏感に察知できる。これキテるな、やられるな。イガイガする。ゴロゴロする。喉の痛みのとっかかりを感じた時、喉に刺激物を与える癖がある。ニキビをつぶすように、筋肉痛の部位を動かしてしまうように。熱々のコーヒー、お茶。逆に氷。メントス食べた瞬間に水。熱々とスースーの交代浴に晒された僕の喉は、うたかたの清涼感を得た後、刺激に耐えかね、静かに風邪の扉を開いていく。

もう、アホである。どう転んでも風邪引くんだからわざわざ痛みのるつぼに飛び込んで行かなくたっていいのだ。しかし、けれども、痛みに痛みを重ねることをやめられない。熱病に罹って水風呂に飛び込んだ平清盛の気持ちがわかる気がする。冷静に考えたらどう考えても逆効果なのに、やめられない。刺激を求めてしまう。

清盛は熱で冷水をお湯に変えたという。徹頭徹尾、スケールが大きい。奢れるものはひさしからず。喉の痛みもひさしからずで結構だというのに。

えにし

結婚式があり、この土曜日に行ってきた。

大学の同級生同士が結婚したのだが、新郎に対しても新婦に対しても、それぞれに死にかけの巨大恒星ほどの思い入れが同じくらいにあって、我が事のように喜んだ。何しろプロポーズにも立ち会い、婚姻の証人にもなったのだ。メモリーから行政まで。滅多にないえにしの深さである。


これまで参列した結婚式や披露宴は、仲が良くなればなるほど飲酒の様相は深まり、瓶ビールがルクソールあたりのオベリスクのごとく突き立てられ、紅白のワインが満ちては欠け、記憶が欠け、気付いた時には朝なんてことが往々にしてであった。しかし、此度の宴会は違った。僕が大学生の頃。そう、それは年に数回の酷い深酒以外は飲酒をしなかった極めて潔白な時代。当時に良く良く付き合った友人同士の結婚だ。極論、酒など必要ない。嗜む程度に口にしたが、その程度である。

確かな自分で臨む披露宴。えにしの深さも相まって、感動した。涙腺に直撃するような感動ではなく、一つの家庭が生まれる節々に、自分が関われた事実を噛み締め、じわりと味がしみ出すような感動だった。それはきっと、僕たちの人間関係をそのまま表したような感動だ。ドラマティックな出来事が特別にあるわけでなくとも、くだらないやりとりがたっぷり詰まった歴史の地層の断面をゆっくりと振り返ったとき、激情は起こらない。よくもまぁこんなに歴史を重ねたなぁ、くだらないことを積み重ねたなぁ。そんな気持ちがじんわり滲む。

三次会までのロングランではあったものの、どの会もやっぱりどこか日常の延長のようだった。あってもなくても変わらないけど、どこまでも面白い話で笑い、だれも肩肘張らず、だれも寂しい思いをしない。ユートピアのような空間。


かのSF作家、アイザックアシモフはこう言ったそうだ。「人間は無用な知識を喜ぶ唯一の動物だ。」無駄なこと、無意味なこと、生産性のないこと。そういう意味で、2人が作る空間というのは人間らしくて、高尚な空間なのだろうと思う。

少し時間が空きましたが、やっぱり、おめでとう。

わかりやすい敵意

今の今、目の前で小太りのおじちゃんと小太りのお兄さんがぶつかった。お兄ちゃんはよろけて、おじさんはスタスタと歩みを進めた。お兄ちゃんはイライラしたのだろう、振り返りざま追っかけて右足一閃。おじちゃんのリュックを蹴り上げた。おじちゃんはびっくりして後ろを振り返るも、スタスタとやはり立ち去った。お兄ちゃんも怒りが収まったのかわからないが、会社に向かったようであった。あのお兄ちゃんのわかりやすい敵意に燃えた顔はひどく醜くかった。


見ているこちらとしては、ただただ、衝撃的である。まず、怒りの感情と、動作のタイムラグの少なさがすごい。レイテンシーがほぼゼロだ。思い立ったが吉日を体現している。吉日とは…?人のリュックを蹴り上げてまでの吉日とは…?また、自らを顧みることもないらしい。僕も結構カットインしながら歩いちゃったからさ…ごめんよ…みたいな譲り合いの心が見受けられない。オマエが悪いんだーっ!って右足一閃である。さらに、怒りのキャパの少なさ。2006年のW杯決勝、ジダンがマテラッツィに頭突きをした。もう、13年前の話ですか。時の流れとは。あれもキャパが少ないなと傍目からは感じたものだが、W杯決勝の延長、アドレナリンの洪水の中で、お母さんを侮蔑される言葉をキャンキャン言われたらそりゃ頭にも来る。納得である。しかし今朝は出勤時である。10連休明けの憂鬱がそんなに心のキャパを埋め尽くしていたか。理解できなくもないがやっぱり理解できない。そして、後先の考えなさである。僕がよく行く下町の銭湯には、全身にお絵描きがされているおじちゃんが度々やってくる。何でもなく入浴して帰る。万が一、そうした筋の方だったりみたいなことを考えないのか。すてみタックルにも程があろう。反動で大ダメージ食らうぞ。


一人っ子でぬくぬく育ってしまったからか、僕自身、人に敵意を剥き出しにするのがひどく苦手だ。自分がさっさと折れてしまう。容易い生き方を学んで育ってきてしまった。だからこそ、人の敵意をまざまざと見せつけられると、大変に困惑するし、悲しい気持ちになる。

今の会社にも、ちゃんとした人が多い。情操を育み、感情のコントロールができる人が働いている。余計に、免疫がなくなる。


書かないと心が荒みそうだったので書きました。

お兄ちゃんも、おじちゃんも、朝はお互いに嫌な思いをしたでしょうが、いい連休明けになるといいですね。僕も、朝少し苦しい気持ちになりましたが、いい一日になるといいなと思います。

幸あれ。