徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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思い出ぼろぼろ

記憶とか思い出っていうのは相当に強烈なことが起こったとか以外は、いかに何度も思い出すかによって定着すると思う。何でもない事でもその出来事が起こった直後から頻繁に思い出していればずっと大人になっても覚えていられる。逆になんでもないことだからって言って思い出すことをしなければなんでもない一日ってことで忘れて行ってしまう。

思い出すの大好きっ子は大分昔の記憶まで残っていると思うし、未来志向っ子は幼稚園の記憶なんて知らんがなってなっていると思う。

自分は、親のおかげで思い出す作業を頻繁になされてきた。母親はとにかく出来事の反芻が好きだ。多分息子に小さいころの諸々を忘れてほしくないんだろうけど、事あるごとに三歳の誕生日にどうしたとかって話をする。幼少期を覚えていることについて感謝しているところは大きい。夜更かししているときの人より多く生きている感覚と同じような、お得感を感じる。

だから今になって小さいころの写真とかを見ると、反芻している通りに記憶が蘇ってくる。感覚までも当時の感覚が思い出されるような気がする。喉の渇きとか、太陽のまぶしさとか。

 

けど、あることに気が付いた。

視点が自分視点じゃない。

 

自分がやったことのはずなのに、自分視点じゃない。自分が歩いているはずなのに、その自分を眺めている形で記憶は記憶されている。一緒にいるはずの若い父や母の顔は全く思い出せない。

僕の幼いころの記憶はどうやらあとから作られたもののようだった。本当の記憶は一度忘れられていて、母の思い出話を聞いたときにその都度その都度記憶が構築されてったらしい。

ほとんど昔話を聞くような感覚である。多分桃太郎とか、浦島太郎とかの昔話を聞いたときに、人それぞれ情景を想像する。それぞれの原風景のようないくつかの光景からつぎはぎした光景が物語の舞台になるのだろうけれど、それと全くおんなじことが自分自身の出来事で起こっていた。自分の思い出だと思っていたことが全然違う後から差し込まれた思い出だった。

冤罪が出来上がる仕組みを肌で感じられた気がした。

母はきっと真実を忠実に教えてくれているから、自作の記憶に関しても明後日の方向じゃなくてそれなりの精度で作成されているはずだ。けどもし母が全然違うことを思い出として語っていたとしたら。ありもしないことを語っていたとしたら。多分僕は何も知らずにそれを自分の正史だとして覚え続けていくし、思い出し続けていく。

簡単な話が、母が警察になって記憶の反芻が強迫になったのが昔多かった冤罪事件の仕組みなんだろう。記憶なんて簡単に作り上げられる。忘れる以上に作られるのは簡単なことなのかもしれない。

結局何が本当なのかわからんままです。

永遠なのかー本当かー

 


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