徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

揚げないフライドチキン

これってどうなんだろうか。

最近流行りのノンフライヤーである。高温の桃色吐息で君のお肉を揚げちゃうっ!ってあれである。

ヘルシーだ。全くヘルシー。健康的この上ない。

何しろ揚げるという行為を考えてみるとぞっとする。脂質の塊というか、脂質の海にものを鎮めるのだ。

美味しくはなる。確かに。

ただ代償は大きい。手頃にできる諸刃の剣だ。美味しさとヘルシーさの一挙両得なんてそんなうまい話は存在しない。チキンは美味いというに。

 

人間のテクノロジーとヘルシー志向が発展した賜物で、揚げないフライドチキン、揚げないフライドポテトが存在しうるようになった。

同じように焼かない焼き魚や、茹でないゆで卵も理論的には十分成立しうるのは自明である。

 

なんだか本来あり得ない現象が起きているのである。

 

人間の歴史は短縮の歴史だ。ってどっかの本に書いてあった。忘れたけど。

移動も短縮するし、連絡手段も短縮する。話し言葉もやたら簡潔になっていけば、技術の粋を活かして買い物に出かけることも短縮している。

 

つまり人間は無駄なものという無駄なものを省きまくって、必要だったはずのものを不必要としていると言える。

 

その矛盾の頂点に君臨する事象脳死だろう。生死の矛盾。

本来であれば確実に死んでいるはずの命が生きている。死んでいて死んでないとも言えるし、死せずして死んでいるとも言える。

これも脳という生存に必要不可欠なものを省略する術を得た人間の為せる技だ。

 

かねてからこの脳死について疑問を持っていた。

新しい死なんて言われてるけど、死に新しいも古いもない、一律のものだろうと。

むしろここまで来たらそろそろ人間死ななくなるんじゃ無いのと。

 

ここでノンフライの話に戻る。

世の中にはレンジでチンしたら唐揚げができるビビデバビデブウな粉がある。ノンフライ商品の先駆けのような存在だ。

コマーシャルでもなんでも、あれは唐揚げとして紹介されている。揚げないで唐揚げができると。

 

であれば、その論理を脳死に当てはめたらどうなる。揚げない唐揚げが唐揚げならば、死なない死は死だ。

つまり脳死は死なのだ。

 

確かに血は通っている。人造人間なんかよりはよほど温かみもある。

けれど、ノンフライロジックから言えば死んでいるのだ。

 

短縮の歴史は、死へのプロセスだけを延長させている。なーんてかっこいいことも言えるんじゃないすか。

脳死に関してはなんか本読んでまとめたいなぁ。

いまだかなわぬ代理母問題のそれと合わせて。