痛みに苦しめられている。体中が痛い。痛くない場所を探すのが難しい。祭りの後には寂しさが残るが、人生初めてのハイパースノーフェスティバルの後には途轍もない痛みが待ち受けていた。やはり対価は払わなければならないらしい。
痛みと一概に言うが、痛みには大きくいくつか種類がある。明鏡国語辞典によれば。
- 傷や病気で起こる肉体的な苦しみ。苦痛。
- 精神的な苦しみや悲しみ。
- 器物などが傷むこと。また、野菜に傷がつくこと。損傷。
- 食べ物が腐ること。
この四つが痛みとして挙げられている。
この中で、人が感じる痛みは1と2である。3と4は物が傷むであり、痛むではない。
誰でも1や2の痛みは感じたことがあるはずだ。鉄人じゃない限りは痛みなんて当たり前に感じる。瞬間的にイテッとなっただけで引くものもあれば、ずっと鈍痛疼痛が続くものもある。
現在1の肉体的痛みのまっただ中で、ひしひしと感じていることをつらつら書いていきたい。
痛みは体が異常をきたしているサインである。病気によってそこいら中が痛くなるのは、もうこの臓器無理だよ…って脳みそが教えてくれているのだ。筋肉痛だってそう。筋肉のオーバーワークによる損傷を教えてくれている。
つまり体が、体のご主人様である人間に自分を守ってもらうために必死に送るサインと言える。
自分を守ってもらうためには主人が多少の苦痛を伴ってもいとわない。体の必死さが本当に伝わってくる。
痛みを伴わないということは、体も、主人も、問題なく生活できるということなので、互いにとっての究極の幸せだ。
体の緊急サインは日常生活に大きな支障をきたす。そうでなければサインにならないもんね、そりゃそうだ。
まず、首が如実に日々の諸々に関わっていることが分かった。首なんてそう意識しないけど、実際限界サインが提示されると、こんなにも大事な部位だったかと再認識する。
うがいができない。振り向けない。
坂本九がスノボやったら名曲は「前を向いて歩こう」になったろう。広重が選んだモデルがスノーボーダーだったらただの「美人図」を書いていたはずだ。
基本、前しか向けない。頷くことしかできない。
ポジティブに聞こえるが、ネガティブな原因がそこに根ざすのだ。
自転車に乗れば、腕がハンドルをうまく握れない。胸筋が痛いから両腕を寄せるポーズができない上に、握力が衰えているのだ。どうしようもない。だっちゅーのなんてポーズをすれば死ねる。しかしだっちゅーのがとっくに死語だった。
反れない。腹筋が伸びちゃう。
小田和正の名曲、ラブストーリーは突然にのジャケットのポーズができない。まぁこれはしないからいいや。
何が言いたいって、普段、自分がどれだけ恵まれた体の元で日常を過ごしていたかがよくわかったってことである。
日の常なんて大それている。日常は日の特である。日特。
朝起きて、歯を磨いて、うがいして、顔洗って、髪の毛とかいじくって、ご飯食べたりして、駅へ歩いて、改札通って階段おりたりして、電車乗って、つり革捕まって、て、て、て…
当たり前なんてなんと脆いものかと。普段流れの中で行う行為が今は一つ一つが全力投球だ。
心の痛みもそうじゃないか。
普段なんでもなく考えられるのに何かがつっかえて考えられなくなる。頭の中と心の奥が不安なことでいっぱいになる。
日常の思考がどれだけ特別なことか、不安を抱えて、心が痛んで初めてわかるのだろう。
筋肉痛なんてどうせ2,3日で散って行くし、心を埋める不安なんて大概がどうだっていいことで、気付けば解決していく。
そうなったらもう日常の特別さなんてフェードアウトしていって、また日常は日常に戻る。
普通普段がどれだけありがたいか、本当は忘れちゃならんことなんだろう。
それが酷い筋肉痛なんてくだらない原因であれ、気が付けた今に乾杯。
なーんて本当は乾杯もできない。腕痛くて。