徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

オリジナルとコピー

オリジナルソングを作って、歌っていますというと、大体の人が驚く。どんな時に作ってんの?どんなふうに作るの?とかって食いついてくれるとってもありがたい方々もいれば、一応ビックリしてくれるだけのありがたい方々もいる。

世間一般にはどうやら、作曲とか作詞とかって行為はなかなかに珍しい行為として認知されているらしい。珍しい上に難しいと思われている節もある。それを生業としている訳ではないにしろ、かじっている者としては悪くない気分だ。自尊心がくすぐられる。にやけちゃう。

 

けど、実際やってみると、オリジナルよりもコピーの方に難しさを感じることが多い。というか一度オリジナルを作り出すとコピーがしんどくなる。

 

具体的にはだなぁ。

コピーにはお手本がいる。絶対的な原本がいる。声の高さも質もギターのテクも癖も全部違う他人が原本を務めている。それに近づけよう近づけようとしていく作業がコピーである。楽器の演奏はさておき、歌に関しては凄く無理が生じることが多々ある。音域なんて人それぞれ極まりないものを無理に何とかしようとして聞き苦しくなる。なにより歌い苦しくなる。

そしてどんなにうまくなっても、それはコピーの域を出ない。本物よりも好きです…!みたいなYoutubeコメントは多いが、本人の趣向如何でそういうことは起こったとしても、根本的にはオリジナルこそが唯一無二のアッラーだ。

この縛りがだんだんと苦しくなるのだ。お分かりになると思う。

どんなに頑張っても完璧になれないし、そもそも本物と同じ曲をやっているのに違う山に登っている感覚から逃れられない。

 

そこで思うのだ。

本物になればいいじゃん。

 

この転換で救われる部分と堕落する部分がある。

救われるのは自尊心というか、プライドである。本物になれる優越感と比べられることがなくなる安心感。これは何をもってしても代えがたい。

しかし堕落するのは向上心だ。もっとうまくギターを弾きたい。もっとうまく歌を歌いたい。こういう気持ちはコピーをすることによって生まれるし、コピーをすることによって上達していく。一度オリジナルに舵を切ると、自分のテクニックの範囲、自分の音域の範囲でしか曲を作らなくなってしまう。これはプレイヤーとして最悪のパターンだ。できること少ないのに無理して作ろうとすると、前奏とかソロとかが似たり寄ったりになる。そうして、「同じような曲多いね」っていう辛酸をなめるのだ。

 

その点、クラシックは巧妙に作られていると思う。

クラシックの世界には、アッラーではなく、楽譜というバイブルが存在する。偉大な作曲家たちの才能と努力と汗と涙がにじんだスコア。バイブルそのものだ。

原則、作曲家の意図に沿って弾いていくため、楽譜通りに間違えずに弾けば皆が同じ演奏になるはずで、後世までその作曲家の演奏が残っていくこととなる。

しかし、ここで面白いのが、絶対的なバイブルが存在しても絶対的なお手本は存在しない点である。

バイブル通りに弾いてもそれぞれの解釈によって聞こえ方が全く変わってくるのがクラシック。解釈の違いがなぜ生まれるかというと、本物の演奏が残っていないからだ。演奏の音源が残っていてしまうとそれに引きずられる。現在のクラシックほどに多様な解釈は生まれなかったろう。

解釈云々の域まで達するには、最低限余裕をもってその曲を弾けるだけのテクニックがないといけない。だからコピーを頑張る。そうしてテクニックが身につき、うまくなっていくのである。

 

最近、ギターのテクニックの無さが何と無く何処と無く露呈しつつある。あぁ…練習しなきゃなって、心から思う。しかし一度オリジナルの楽さに気が付いてしまった人間が、がっぷり四つで一人コピーに勤しむには相当のモチベーションがないとできない。

あの、楽譜とにらめっこを続けて、一生懸命にコピーしていた当時の根気を取り戻したい。切実な願いである。さじ加減ひとつだけど。