徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

懐かしさから人生を悟る

今日、卒論協力をいただいた施設に卒論の結果の説明をするため、半年前ほどに足しげく通った施設に行ってきた。その施設は、4年間走り倒した競技場のその向こうにある。つまり久々に競技場までの道をたどった。

それは懐かしい。陸上終了からも5か月。たったそんなもんで懐かしく感じてしまうのだから単純な脳だ。幸せな脳だ。

 

懐かしさを感じるためには、何か物事を日常としてから、しばらく離れることが条件だと思っていた。常日頃から使っていた駅を離れて、違う沿線に住み、ふらっと元の駅に降りた時の懐かしさ。それは、その駅を使うということが日常だったからこそ感じられるのだ。日常じゃなければ懐かしさを感じられない。そう思っていた。

今回、競技場のその先、施設までの道をたどった中で驚いたのが、競技場から施設までの道までもが懐かしいと思われたことだ。

冒頭に足しげくって書いたものの、繁り具合はたかが知れている。陸上に比ぶべくもない。ただ、それすらも懐かしかった。

 

懐かしいって感情に至る条件を満たすことは、難しくないのかもしれない。

 

例えば、非日常の空間。

旅行先で一度言った神社とか、観光地にしばらく時間をおいて訪れた時も、きっと人は懐かしく感じる。初めて訪れた時の思い出を反芻するからだ。

最早日常と間反対の事象でも懐かしさを感じられてしまう。そこで、考えを改めた。

 

初めてのこと日常となっている(日常にしようとしている)こと以外の、記憶に残っていること(場所・行為)をなぞった時、人は懐かしく感じる。

こういうことなんじゃないかと。

 

初めては懐かしさを感じようもないし、日常は懐かしさ構築の最中にいるため、懐かしくもなんともない。

しかしそれ以外の、記憶の断片にでも残っている景色や行動をしたとき、人は懐かしく感じる。

 

人間の行動を考えてみる。

よほど特殊なことを生業としていない限りは、人間のやることなすことは、日常と非日常に分かれる。むしろそれ以外はない。

つまり、死に行くときの日常以外は、すべての事が懐かしさに直結していると言える。

極端な話、人生は懐かしさを作ることなのではないか。

 

懐かしいという感情について、いやな気持を思い浮かべることは少ないだろう。トラウマも懐かしさの一つなら、それはつらいことだ。ただ、大半の諸々は悪くない思い出となって、懐かしさを想起させる。

 

人生が懐かしさを作ることで、懐かしい気持ちが悪いものじゃないなら、人生も悪くないんじゃないか。むちゃくちゃ論理だろうか。

しんどい日々も楽しい日々も、全部が懐かしさになる。どんなことも甘んじて受けよう。人道的なことなら、甘んじて。なんか、これから先の色々を頑張れる気がする。

なんならもう、みんな頑張れ。世の中頑張れ。