徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

風情は過去から

あの頃はよかったといい続けることがお約束のようになっている人間。懐古の虫だ。的を得ている懐古もあれば、的外れな懐古もきっとあって、どう考えても今のが便利だろと言ってやりたくなることもあるような気がする。そこまで語気を強めるほど問題意識は強くない。

SNSがやたらめったら隆盛している現代だ。人にメッセージを伝えることは物凄く容易くなった。ツイッターなんか、特定のあなたへのメッセージじゃなく、もうそれは大多数の人に対するメッセージを一個人が投げることができる。フェイスブックもそう。ラインだって似たようなもの。

すると、どうやら世の中では「SNSでの個人的なやり取り<メールでのやり取り」という図式が成立しているようである。メールがフォーマルなものとして昇華されつつあるのだ。もちろん、「メールでのやり取り<電話でのやり取り」であることは間違いないのだが。

遺産とか古代文明に畏怖の念を抱くように、我々は古いテクノロジーを持ち上げる傾向があるらしい。それは今から離れれば離れるほど強くなる。ピラミッドやマチュピチュの存在感はそういうところからきていると思うわけだ。

この畏怖の念は、より便利なものが開発されたときに発生する。そして、その感情は、最初は畏怖ほど強いものはない。風流に近いものだろう。

年賀状を考えてみる。最近はそれこそネット上で新年のあいさつが手軽にできるのだが、あえて年賀状を出すことで、年始の雰囲気を味わうことができる。年賀状より便利な連絡手段が開発されても、年賀状という媒体で新年を祝うことで、よろしくの気持ちをより強く表せる。風流なことだなぁと思う。

新幹線があるのに鈍行で旅行する場合だってそう。速くいこうと思えば行けるけれど、金もかかるし、あえてのんびり旅をするのもいいではないか。風流である。

今最新のテクノロジーも、いずれは100%過去のものになる。SNSだって不断に新しいシステムが生み出されるだろう。どこでもドアみたいなのが出来て、すべての交通手段が無に帰す時代が始まるかもしれない。そうしたとき、過去の技術が廃れるかといったらそうではない。風流なこと、上品なこととして、ある程度引き継がれていく。手紙も、自転車も。

ツイッターが過去のものになるとき、ツイッターでメッセージを送ることがフォーマルなことになる未来が来るかもしれない。

 

何が言いたいかって、メールって大してフォーマルでもなんでもないよねってことを考えてたら勝手に指が動いた次第でした。