徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

感情を出すべきか、出さないべきか。

おととい、酔いがほろほろを少し通り過ごしたころ、感情が先に立って行動するやつってどうなんだって話をした。酔っぱらいの戯言の極みみたいな話だ。でもそういう話に限って、普段からぼちぼち考えていることが生身で飛び出してくるから面白い。自分の舌の回りようと頭の回りようにびっくりする。

要は、キレる人が苦手なんだ。苦手というより、敬遠する。仲良くなれないだろうなぁと思う。友達にはなっても、わかりあえない。言ってしまうと、少し軽蔑する。

小さなころから体が大きかったせいで、母親に絶対にけんかになっても手を出すなと教わってきた。その代わりに言葉で説明しろと。小さなころはこの縛りが本当に厄介なものだった。歳を重ねたって上手く表せない自分の気持ちを、幼稚園小学校の子どもが表せるわけもなく、何度悔しい思いをしたことかわからない。いじわるされっぱなしの悔しさは多分一生忘れない。

辛い気持ちを抱いた対価として、自分の気持ちを表現する力は凄く身についた。相手に自分の気持ちを伝える伝えないは別として、自分自身で、自分がどういう気持ちを抱いているのかが分かるようになった。これはよかったなぁと思う。

感情が溢れるときって、大体が自分の中で感情が処理できなくなったときだ。悲しすぎてその悲しみをどう消化していいやらわからないから泣くし、イライラしてそのイライラを自分で消化できないから外に当たる。自分がどういう気持ちかを把握できるようになれば、ある程度感情の満ち引きをコントロールできるようになる。操るべき相手の姿が見えるから。操作できなくとも、コントロールしなければいけない感情か、コントロールしなくてもいい感情かがわかる。

感情の爆発ってーのは、人を動かす力をもつ。大喜びは幸せを分けるし、大泣きは涙を誘う。だからして、本来慎重に行わなければいけない作業なのだ。感情を表に出すというのは。中でも、人を圧倒的に不愉快にさせる確率が高い感情が、怒りなわけで。それをしゃあしゃあとまき散らしてしまう人が信じられない。

もしかしたら自分がしたくてもできない感情の爆発を自然とやってのける人たちに嫉妬の気持ちがあるのかと自問してみたけれど、そんなややこしいことではなさそうだった。心から嫌だの気持ちだった。どうやら母の教えの所為で、自分の理想が穏やか人間になっており、逆の極致にいる人間に対して溜息が止まらないらしい。

実際どっちがいいとかはないのだろう。価値観なんて軸足の置き方ひとつで高尚も卑近も変わる。たまたま僕自身の軸足が穏やか人間だったからこう思うだけで、自分に素直でいたい芸人たちは全く違うスタンスを取るに違いない。

でもきっと、生涯わかりあえないだろな。