漏れるまたは漏らすという行為は、社会的かつ文化的な生活の中では非常に忌み嫌われる行為だ。情報が漏れたら岡山県発の某教育系大企業のように謝罪に次ぐ謝罪をせねばならなくなるし、液がもれたらボールペンが使い物にならなくなる。下のことなんて言わずもがなだ。年を食えば食うほど恥になる恐ろしさを秘めている。
さて、ガスが漏れています。
入居初日、いまに電気がついておらず、暗闇の中でダンボールの解体に勤しんだ。汗をかき、手を切り、文字通り血が滲む解体ショーだった。観客はいない。
明日になれば、明日になれば、ガスが通る。風呂に入れる。甘んじて水で手を洗い、顔を洗い、さっぱりの上澄みだけを掠め取って眠りに着いた。
そんな明日への切なる思いをぶち壊すガス漏れ。なかなかのくじ運の良さ。やっぱ持ってる。俺、持ってる。
あぁ、さっぱりしたかった。
このモヤモヤをどこに持って行けばいいのやらわからない。明確な悪者がいない物語ほど、もやっとするものはない。勧善懲悪が人間にウケるのはその分かり易さゆえだろうな。
怒りとも虚しさともつかない感情をダンボールの裁断という極めて事務的かつ不毛な行為にぶつける。そして何故だか口ずさむ。
引っ越ししようと町まで出掛けたら
ガス漏れ気付いて 愉快なサザエさん
文脈のおかしさなんてどうだっていいんだ。サザエさんに言いくるめられたらもうみんな笑うしかない。
きょーはいーてんきー