徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

客観を却下することへの客観的見地

自分の声だと思っている声と自分の声は実は全然違うってことは誰もが知っていると思う。通った声だと思っていたら実は全然鼻声だったり、滑舌がもうちょっといいと思っていたら全くそうでもなかったり。


高校当時、BUMP OF CHICKENに大きく傾いていた。傾倒はなはだしかった。あのぼそぼそ歌う感じがかっこよかった。ちょっと猫なで声になる曲があるのもまたよかった。斉藤和義兄さんにもあこがれていた。あの鼻にかかった声に憧れた。モジャモジャの髪を振り乱すのが好きだった。

中途半端に歌が好きで、もっと中途半端にギターも弾けたわけで、そりゃ真似もする。頭の中ではBUMP藤原+和義兄さんなんて素敵なミックススムージーを醸成していた。恥ずかしげもなく人前でそんな歌声演奏をぶいぶい聞かせていた。

文化祭に出るに当たってバンドを組んだ。例によってギターボーカルやる気満々のBUMP和義気取り。

試しに演奏を録ってみて唖然とするのですね。頭の中と自分に聞こえていたはずのミックススムージーとは全然違うものが録れてしまっている現実。ボソボソ口を大して開けずに鼻声っていう体調不良ボイスで声高らかに天体観測していた。ついでに腹式呼吸なんて微塵もできておらず、マイクまで声が届かないかつ音程が石北峠ばりの乱高下を繰り返す。恥ずかしいなんてもんじゃない。穴を掘ってでも入りたい。見事初ライブ映像では、歌詞中のコスモスがボスボスになるナイス滑舌も見せつけた。死にたい。


なにがどうかって、どれほど客観的目と主観に差があるかっつー問題ですよ。今でこそ恥ずかしさのアルプスマリアナを越えて歌いまくってるけど、それまでには不断の録音と再生というサイクルがあったわけで。その山を越えるのにどれだけの葛藤があったことか。研究と羞恥の普段のループこそがその差を埋める唯一無二の方法であるわけだ。なるほどがってん。

やはり、独りよがりは良くないのですね。セカンドオピニオンがあってこその見地のように、他人の目があってこその自分なのですね。ボスボスなんてアホみたいな滑舌からどこまでも世界を見つめられる。素敵なことよ。瑣末なことから世界を見つめられるいい例だ。


明日は久方ぶりの休日を貪らせてもらう。夜は友人のライブがある。頑張れ友人。見に行くぞ。

折り返しの連絡を、待ってるぞ。待たれているのだろうか。どうなんだ。