徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

都会と田舎と人間

大都市東京はオリンピックだなんだと託けて再開発の嵐の真っ只中にある。渋谷の工事も終わる気配を見せないし、新宿も魔境の度合いをより深めている。池袋くらいなもんじゃないか。安定したクオリティで完成しているのは。東京・日本橋・銀座あたりでも再開発が進んでいる。ビルにモールに百貨店。めまぐるしい。

どうやらどこもかしこもずーっと完成しない。横浜に至ってはサグラダファミリアと呼ばれているとのことで。不断の開発に身を置いている。何を好き好んでいるのか知らないがよ。


都市とか、都会に関しては、一度成長への歩みを踏み出したら止まれない構造を呈している。その街自体が巨大なビジネスの培地になっていて、成長と発展とともに仕事を生み、生活を生み、お金を生む。開発を始めたのも人間であれば、街に飯を食わせてもらっているのも人間という、なんとも不恰好極まりない構造で回っている。もし開発をやめたら、インフラだなんだに従事する方々が盛大に仕事なくなってしまうから仕方ない。開発しまくるしかない。


人の体の中でも、似たようなことが起こっているんじゃないかと思った。目に見えて食いっぱぐれる者が見えないだけで、実はたくさんの浮浪者を生んでいるのではないかと思った。

運動していた人が一線を退いたとする。それは、それまで開発再開発を繰り返していた筋肉の工事を止めることと同義だ。完成したのか、完成を諦めたのか、どちらにせよ工事中止。一生懸命に主人のトレーニングに付き合って工事をしてくれていた細胞達の職が奪われることとなる。栄養と刺激がなくなった細胞は萎み、消えていく。

知識もそう。あの頃必死に覚えた余弦定理と正弦定理を思い出すことができないのは、そこの開発をやめたからだ。そこの細胞の成長をやめたから。食いっぱぐれた細胞達は特に主張もしないでひっそりと衰えて行くから、特に何も気がつきはしないだけで、確かに衰えていることは間違いない。


都市で開発をやめた場所、それはざっくり言えば田舎になる。田舎は田舎なりに一時は開発の手が伸び、メインストリートなる通りがある場所も多いが、成長が頭打ちになり、人口も減り、再開発の手が伸びないまま忘れられて行く。資本と資源は都会に集まり、大きな発達を見せる。

一国が成長するに当たって、全国的に均質の成長を遂げる方法が無理なのは共産主義が人柱となって教えてくれた。富めるものと貧しいもの、強いものと弱いものがあってこその成長であり、資本主義。都会と田舎の構造はその映し鏡のようなものだ。


もう一度人を重ねてみる。

終生不断の成長なんてなかなか難しい。子供の頃こそあらゆる能力が全身で上がって行くものの、ある時期を過ぎてしまえば取捨選択を迫られる。どこを都会にして、どこを田舎とするか。

都会にたくさんの資源、努力をつぎ込んで、そこの筋での活躍を夢見る。そうして成長していく。

たまに数学とかやって楽しいのは、田舎に感じる素朴さや牧歌的なそれに近いものなのだろうな。

どちらが良くて、どちらがダメとかもない。どちらもあって正しいはずだ。田舎はきっとなくならないし、都会はきっと発展し続ける。

だからオールラウンダーになろうなんてのはなかなか上手く行かない。何処かに尖るべきなんだ、きっと人間も。


ずざざーっと、車窓に流れる都会のビューにインスパイアされながらお話を進めて行った次第でありました。目が疲れたぜ。