徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

何にでもなれる万能感を捨てたくない人へ

なんにでもなれる万能感。これ以上に自信になることはないし、これ以上に言い訳になることもない。

ニュースのトピックでも、ES細胞やiPS細胞あたりから、万能細胞に注目され出した。行き着いた先がSTAPだったのは残念極まりないが、未分化のままなににでもなれる魅力に世界が震えた。現に山中教授に対するあの評価だ。分化していないことはそれほどまでにすごいことなのである。


人間も、ある程度の年までは、可能性の裾野を広げる。幼稚園生、小学生。まだ未分化の頃だ。分化していないからこそ、なににでも興味を持って取り組んで試みて、自分は果たして社会・世界という巨大な生き物の中において、なにに分化して一部を成すかを探すのだ。

たくさん習い事をしてみたりするのには、どこかここかで才能爆発しないかという親の魂胆も若干なりとも含まれているだろうけれど。

幼少期、あらゆる可能性を捨てずに生きて来られたとしても、中学の部活でひとつ大きな選択を迫られる。放課後の時間を捧げる対象を決めるのだ。これは分化の一助となる。自分の興味があることを、何かに所属して、ある程度の時間をかけてこなしていく。才能の塊くんはこの辺りですでに片鱗を見せつける。

逆に、挫折も味わう。都会だと中学受験ですでにふるいにかけられてしまうから実感がわかないかもしれないが、田舎では、猛烈に勝てない相手や、努力しても敵わない相手と出会うのは部活が初めてという人も多いだろう。

そうして徐々に自分の得手不得手がわかってくるし、好き嫌いもわかってくる。節目節目で不断の選択を迫られ、その度選び取る。

部活レベルの趣味的活動でもそうならば、学力のような世の中の物差しとなるものでもそうだ。

僕は常々母に、いつ何時でも選択できる人間でありなさいとの教育を受けて来た。その意味がわかったのは大学生活も後半に入ってだったのだけれど、無意識のうちには選び取れる立場にとの思いの元で勉強していたような気もする。


やりたいことが幾つかの選択肢の中から選べるのは素敵なことだ。ただそれと同時に選ぶときに他のあらゆる可能性を犠牲にしてでも、一点に全てを捧げる覚悟を共に持っていないといけない。

いつまでも未分化の万能感に浸ってはいられない。選ぶときがいつかはやってくる。

一般に賢ければ賢いほど、能力が高ければ高いほど未分化のままで生きて行ける。選択肢がいつまでもいつまでも残り続ける。でもそんなあなたこそがどこか一点突破で世の中を変えることができる力を持っているはずなわけで。


辞める判断は続けることと同じくらい難しいし、選択は惰性よりずっと難しい。周りはあらゆる可能性を試して欲しいと、万能であって欲しいと思うから、選択するのは自分でなきゃいけない。自分から捨てなければならない。

人生一度切りであるからして、得手な何かと出会える確率も、それが存在する確率も恐ろしく低い。ベストマッチと出会えない確率だらけの世界で、ベターを探して選んでいく。

「何にでもなれる」を拗らせて、「何にもなれていない」になってはならない。


未分化のうちにどれだけ様々なことと出会い、選択肢を増やした上でベターを思い切って選ぶか。選択する勇気を養う必要性。

それだけが言いたかったです。