徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

見るなら一流を見ろ

中学二年の秋。陸上人生二年目の秋。走り幅跳びを一生懸命飛んでいたのだが、ふとなにかがうまくかみ合ったようで、新人戦前の北海道ランキングで5番に入った。それまでギャンギャン鳴きはするものの全く飛ばなかった男が突然かました跳躍だったから、それは有頂天だ。うまく行ったら新人全道大会で表彰台も狙えるかもしれない。有頂天だ。

詳細は覚えていないが、結果から言うと、大会1週間前あたりから猛烈に風邪をこじらせて、新人戦に出ることはなかった。ランキング5位と言う看板だけ掲げて、それだけで終わった。

猛烈に悔しかった記憶がある。中二段階での悔しさランキングでは5位なんてもんじゃないくらいの悔しさだった。係りつけの内科医に、「これじゃ試合に出られないよ。ドクターストップだよ。」って言われたのが引導だったのだが、そこで中二の有頂天はごねた。出られないのはもう仕方ないとして、せめて同じ空気を吸いたい。自分が立っていたはずの舞台を見たい。どんな奴と戦っていたはずなのか見たい。そんなようなことを言った気がする。

ぐだぐだごねていたら、主治医はお馴染みのものすごく物腰の柔らかい喋り方で「見るなら一流を見なさい。北海道大会をわざわざ見に行くことはないよ。一流になるべく、一流を見なさい。」とたかが中二のガキに説いた。

いろはも知らないよな人間によくガチンコで話をしてくれたものだと思う。強烈に印象に残っている。一流になりたくなった。一流を知りたくなった。

 

一方、一流を知らないと二流以下がわからないというのが母の持論である。下から上はわからないが、上を知ると二流やら粗悪やらがわかるという。なるほどなと思う。数字を隠してしまえば良し悪しがわからない品物に総じて言えることなのだろう。

 

陸上の一流はわかりやすかった。数字がすべてだから。速かったりぶっ飛んでたりぶん投げてたりする者こそ正義。一流。極端な話、数字を隠しても動き方や足のまわりかた進み方で一目瞭然だった。

社会に出てみたらどうだ。誰がすごくて誰が一流なのかわからない。見当がつかない。肩書ってわかりやすい定規はあるけれど、それだけで判断していいものかもわからなければ、能ある鷹はだいたい爪を隠しているから、余計に一流が見えない。

なにしろ、自分が二流三流なわけだ。生まれたてな雛なわけで、母の理論から言ったら良いものがわかるはずもない。盲目的にあらゆる大人にぶち当たって打ちのめされていくしか一流を見つける方法はないんだろうなと思う。この人の考え方がすごいって思える人をさっさと見つけて真似して、実はその人よりもすごい人がいて、真似して…を繰り返しまくって一流を探すのだ。どこぞのドラゴンボールと一緒だ。最強を倒したらもっと最強が出てくるという最強のアップロードをし続ける。

そうして流れ着いた先が一であればいいのです。そう思います。ええ。