徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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疲れに対して思うこと

疲れを忌み嫌う人は多い。疲れたくない。疲れにはこの一本。目の疲労に目薬。

動けば疲れる。摂理だ。かと言って、なにもしないわけにもいかないしなにもしない疲れというのも存在する。時間の流れが遅くて疲れる。

寝過ぎても疲れる。首とか凝る。目が重くなる。


疲れ。


なにしても疲れるんであればもはや疲れるを省略してもいいんじゃないか。1000円のものを買おうとしたとき、わざわざ電卓持って来て1000×1.08=1080ってやる人はあまりいない。暗算で済ますだろう。九九程度の計算なら当たり前にこなせてしまうだけの計算力を大半の人は持っているから。

1000×1.08=1080が暗算でいいなら、大半の人が持っている疲れの感覚をいちいち言う必要があろうか。もうね、無いと思う。

遊園地行って楽しかったですくらいの月並み手垢ベタベタ表現は言わなくていい。疲れの向こうになにを思ったかが大事だ。

いま、スマホでこの文章を叩いている。親指の関節が、目が、スマホを支える右の全指が、疲れている。だけどそれはもうスマホで文章を打っている時点で誰もが察しつくことなんだ。あえていうことはない。言わない。


そしてついでに疲れを嫌わない。なにしても発生するものなのだ。当たり前体操の最たるものなのだ。最強のコモンセンスを嫌うなんて世界を嫌うみたいなものだ。生きづらくて仕方ない。

だから疲れを嫌わない。好きじゃないけどね、嫌いにはならない。むしろ労ってやろう。よくがんばったと。そんなになるまで、よく動いたと。体を労わる。そうした考えの元で、疲れたと言わない人に、お疲れ様というのは素敵だ。察する日本文化そのものだ。お互いを尊重して、みんなそれぞれ疲れていることを察しての、お疲れ様です。なんと含蓄のある言葉か。


さぁ日本人、盛大に疲れようじゃないの。みんなで疲れて、似たようなそれを感じれば、なんとなく丸く収まるさ。主観じゃなく、客観ないしは鳥瞰してみれば、自分だけが家路を急ぐわけでもないし、自分だけが疲れを抱えているわけでもないことを知る。自分の疲れがないと世界が動かないことも知るだろう。


右手が本当に疲れたのでそんなところにします。そんな疲れを察していただければ幸いです。