徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

欲求サイクル

労働基準法からいって、どのサラリーマンもお仕事中に休憩タイムがあるわけで、一般的ブラック企業以外は何時間かごとにぼちぼちのお休みがいただける。

タバコ吸ったり、コーヒー飲んだり、外出てみたり、思い思いに時間を過ごす。

中でもメジャーな過ごし方がおやつタイムだ。お昼からしばらく離れ、そこそこ小腹が空いている時間なんだろう。OLやらサラリーマンたちがそこかしこでモグモグパクパクやっている。

彼ら彼女らの中でどれだけの人が心からの空腹よりモグモグパクパクしているのだろうか。

一定数、特にお腹空いていないけどとりあえず時間あるし何もしないのは損だから食べてみようピーポーが潜んでいるに違いない。基本的な空腹・食欲といった欲求を越えた先の行動だ。


欲求が欲求の壁を越えているのは今に始まった事ではない。今や味を楽しむために食はあるし、気持ちよさを突き詰めるために性があると言っても過言じゃない。

古代ギリシャ人なんか食を研ぎ澄ましすぎて日常的に過食嘔吐やってたみたいなことも聞いたことある。衝撃的なまでのオーバー欲求。


こないだ、理由のないものなんてないって記事を上げた。

当たり前っちゃ当たり前なんだけれど、理由の裏には人の欲望やら欲求が必ずある。物を売りたい、物を買いたい、褒められたい、凄い物をみたい。ちょっと高尚な欲求のようだけど、その欲求を導く欲求を探し続けると結局気持ちいいとか、楽しいとかが根源にあるように思う。

誰もが自分が気持ちいい思いをするために生きている。何某かの理由をこじつけながら、理由の裏に本音を隠しながら気持ちよさを求めている。

当然なんだ、当然なんだけど、あまりにしれっと欲望欲求が隠されているせいで灯台下暗しになっていた。


エネルギー保存の法則のように、世界の欲求が一定の大きさを保ったまま循環する物なら、何処かで巡り巡って自分の欲求が満たされるはずだ。人が気持ちいいことがとんでもない回り道の果てに自分の気持ちいいになったりする。

小腹空きタイムに売店がこぞって小腹満たしフードを販売するのも、満たしたいと儲けたいの欲望交差点があるからだ。

たかだか夕暮れの売店ごときに欲求欲望ユートピアが生まれているのに、どうしてこうも当然のごとくギクシャクした世の中になってるのか。

ただでさえ全く至らない頭かつ寝不足の悪条件下で考えた。

一つの可能性として、欲求の要求する先を間違えているというのが考えられる。野菜欲しいのに肉屋さんに強く要求してもお互いの利益にはならない。不毛極まりない。例えたらバカみたいな不一致も、社会の衣を被せてしまうと判然としなくなる。案外誰もが起こしているものなのじゃないか。牛丼チェーンにサービス精神を強めに求めてしまったり、ディズニーに日常的な値段を求めてしまったり。例えが稚拙で泣ける。

片や要求のし過ぎもあるだろう。欲求同士のどちらかが極端な場合は双方に不満がうまれる。もうちゃちな例えはしない。


上手いことギブアンドテイクが拮抗すればいい。それこそ売店的ユートピアだ。しかしそれがどんな机上の空論かは歴史が証明してしまっている。何千年もいざこざしているのに、ポッと出の楽園なんてできやしない。

なーんて考えてるうちに休憩は終わってしまうわけで、何も食べずに休憩を終える本日はヘルシーながら売店の以降を汲み取れない結果と相成りました。