徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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好きって言えない

好きには責任が生まれる。好きであるからには知らねばならない。好きであるからには詳しくなければいけない。好きが気軽なものじゃなくなる。好きがプレッシャーをかけてくる。

好きなバンドやアーティストを聞かれたとき、なんて言えばいいかわからなくなる。その昔にどはまりしたバンドはたくさんある。BUMPやオレンジレンジがそうだ。今でも聞けば全曲わかる。あとラッドウィンプスやら、スピッツビートルズだって大体八割九割方の曲が歌える。

でも自分から好きって言えない。

好きなんだ。間違いなく好きではあるんだ。けれどなぜか好きって断言するのに抵抗と引け目を感じる。

どこまで詳しければ、どこまでのめり込んでいれば好きって言えるのか。

上にあげたアーティストは、確かに一時期大好きだった。その当時同じ質問を投げかけられたら、きっと答えに窮することはなかったろう。じゃあ今大好きかって聞かれると、一度好きになった惰力で好きでいる面もあり。なんだ、付き合ってしばらく後のなあなあ感に近いものがある。改まって好きか聞いて欲しくない。好きだから。まぁ、好きだから。

じゃあ今どはまりしているアーティストを答えればいいじゃんって。そうなんだけど、そうなると語れるほど知らない。これがいい!って断言できるほどの確信がない。

 

するとだな、極端に自分語りが面倒になる。人の好きを聞いて、刺激を受ける方が余程楽でエネルギーを使わない。誰かが自分のストライクゾーンが好きって言ったときに、めっちゃ合わせて行く後だしじゃんけんをし続けているのだ。酷くずるい。

気づけば後だし癖は趣味トークに留まることを知らずに氾濫して、面接とか面談とか、積極的に自己開示しなきゃ行けないときもうまく話せなくなる。よくしゃべる口下手の完成である。

 

本当は自分でもわかっている。

自分を精査するのが嫌なのか面倒なのか、どちらにしろ自分について考えていないだけなのだ。棚に上げっぱなしにしている。

そして、開示したときに、自分が定まってしまうのが怖いのだ。誰にでも合わせられる、何にでもなれる自分でいたいと、今でも何処かで思っている。何もかもをかなぐり捨ててまでになりたい自分をさらけ出せない。摩擦は少ないけれど何にも刺さることないボールのように、つつがないけれどただそれだけの人間でしかない。なんとかせななぁと、これから社会人としてうまくやってくにはなんとかせななぁと思う。

 

けど、ものは取りようだ。

とんがりの極致の針が面とほとんど接点を持たないように、丸の極致の球も面とほとんど接点を持たない。方向は違えど同じ場所に落ち着いている。つつがない人間を極めた先にはとんがりが待っている。そう信じている。

うまく使い分けながら、うまく使い分けながら、後出しじゃんけんを極めてもいきたい。

 

 

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