徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

諦めの車内

電車で移動しているこの時間を有意義に過ごせたなら一体どんな秀才になれるだろうか。携帯ぽちぽちさわさわしている時間を全て英会話に注いだら、バイリンガルになれているのだろうか。その確証があっても、果たしてやるだろうか。怪しい。甚だ怪しい。暇は誰にも邪魔されないユートピアだ。スピッツがロビンソンで歌った、誰もさわれない2人だけの国って、あれはきっと暇なのだろう。たまたま2人の休暇があった日とか、そんな程度のもんだろう。
本気で何か目的があって、それに邁進している人は、暇を持て余すことがないのだろうか。まぁ持て余すほどはないにしろ、暇を楽しむことはないのだろうか。

近頃の自己啓発書のノリでいったら、きっと暇を楽しむことこそがデキるリーマン像であり、そうなるためにやるべきたった三つの事とかがあるんだろうよ。
どんな良いこといってても全然食指がくすぐられないあのタイトル。
経験から、たった3つや4つのエッセンスだけで物事が変化しないことを知っている。もっと時間をかけて、あらゆることを変えてこその変化だろう。チープ極まりない数個の変化で人生観と生活が変わってたまるか。日々の垢はそれどころじゃなく溜まっているっていうのに。
そして人から授けられたものは触媒にはなるが、素にはなりえない。鬱々とじくじくと煮込まれた思いがあって、そこにたった数個のエッセンスが加えられて醸造することはあっても、たいして寝かされていない思いや考えでは何の科学変化も起きやしない。

だからなんだ、この車内でふと思いついた英語への思いを本屋で解決しようったってゴールへは導かれないのだ。もっと深刻に思い、長きに渡り考えた英会話への思いがなければ。
今たくさんその辺に横たわっている隙間の暇時間は、いつかなにかへの思いが熟したときのために取っておいてある。誰のためでもない時間として取っておいてある。

行けたら行くという人が来ないように、いつかなにかのための時間が使われないこともわかっている。漠然がなしえない確実は沢山あれど、漠然しか醸し出せない余裕とポエティックもあると信じて、あえて何もしないことにする。