徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

エネルギー保存の法則から哲学をする

去年の冬のめっちゃ寒い多摩川でぼーっとしたときに、宇宙の始まりについて考えたことがあった。すると宇宙はなんらかの生物ないしは物体の生殖活動における突然変異から始まったんじゃないかって考えに至った。

そもそも無から有が生まれるのは変だろうと。で、その頃ちょうど生殖倫理がどうこうみたいな本を読んでいてしまったがため、生殖にどうしても絡めたい意識が働いた形で。


無から有があり得ない。そんな法則があった。エネルギー保存の法則だ。酷く拙い、ド文系の知識だから全然違うかもしれない。勝手な解釈として、あらゆるエネルギーは様々なエネルギーに姿を変えながら、その大きさは保ったままでいると。滝から落ちる水は、膨大な位置エネルギーが音のエネルギーや落下する運動エネルギー、落っこちた衝撃のエネルギーに姿を変えつつも元のポテンシャルはそのままであると。理科で習った。ああ、間違いない。

もしかしたら法則が発動するいろんな条件とかがあるのかもしれんよ。でも、見て見ぬ振りをしたとして。むしろレベルが足りなくて見えてないのでしょうがないとして。

記憶にある保存の法則をもとに漠然と考えると、宇宙開始前も、宇宙開始と同程度かもしくはそれをはるかに上回るエネルギーが、そこにあったはずだ。じゃなきゃ宇宙が生まれるはずがない。このそもそも論を突き詰めるとキリないけど、少なくとも爆発寸前には途轍もないエネルギーが溜まっていたはずなのだ。宇宙がその副産物として生まれる程度のエネルギーは確実に。


順手を逆手に取ってみる。

我々も地球に生きているわけで、その規模でみると地球のエネルギーの一端を担っている。

考えようによっては、地球誕生の瞬間から、すでに地球には我々人類が生まれうるだけのエネルギーが秘められていたとも言えないか。木も草も海も、月さえも地球のポテンシャルだ。

人もエネルギーの一つとすれば、この命も地球という莫大なエネルギーのノイズ過ぎない。滝から出る音程度の誤差が命だ。死したら土に帰る。地球にエネルギーが帰って行く。


千の風になってという曲があったが、あれはあながち冗談でも暴論でもないのかもしれない。地球が命であり、地球が自分である。その地球は宇宙のノイズだったり借り物だったりするから、壮大すぎて目をつぶりたくなるけど、エネルギーの生まれ方からすると自然な流れだ。


もっと膨らませてもっと深掘りして、エナジー教でも作るか。振り切って胡散臭い方が新興宗教っぽくていいかもしれない。

いつか幸福の科学に誘われたときの話をしたい。今は元気ないからいいや。エナジー足りないや。