徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

梅雨対策新時代

雨がちだ。梅雨の時期だから当たり前なのだけれど、今年の梅雨は上京してからトップクラスで雨がちである。梅雨している。梅雨されている。千葉ではどうやら冠水被害が出ているらしい。川じゃないところが川になる脅威ったらない。ムー大陸はなるほどこうして消えて行ったかと、アリンコくらいのスケールで感じられる。

何故か憂鬱になる。雨は憂鬱だ。なぜか。濡れるからだ。濡れるのが嫌だからだ。
雨へのアプローチは二通り考えられる。濡れるか、濡れないか。
もっと言うと、濡れることを覚悟し、濡れてもいい格好をする方法が一つ。そもそも濡れることを拒否し、濡れないためにあらゆる策を講じる方法が一つ。
大半の人は、濡れない方を選ぶ。というか、現代人、濡れてはならないものが多すぎる。カバン、服、髪、靴。あらゆるものに対して防水はっ水ウォータープルーフ。これでもかこれでもかと水をはじかせる。
確かに、取引先にびっしょびしょで行くわけにいかない。なんなら、身内にもびしょびしょの姿を見せるわけにはいかない。書類を濡らすわけにいかない。USBを飛ばすわけにはいかない。体面的にも内容的にも、濡れてはならないのだ。
濡れてはならない社会に生きているものだから、仕方ない。郷に入れば郷に従うしかない。
 
だが、本音はどうなのだろうか。濡れたくないのか。人間、本当に雨に濡れたくないのか。
これは違う。濡れたくないのではない、濡れられないという先入観がそうさせているだけなのだ。ピチピチチャプチャプランランラン。誰もが口ずさんだであろうあのメロディーは、むしろ濡れることを推進している。濡れに行っている。人間の原体験として、雨にぬれることは決してマイナスではないのだ。試しに暇極まりない日の夕立にでも、無抵抗で当たってみるといい。この上ないカタルシスを得られる。
冬に厚着をするように、夏に薄着をするように、梅雨には濡れてもいい着をしてもいいじゃないか。濡れないための守りを必死にするより、天の恵みをそのまま享受し、流れるまま流されるままに濡れてもいいじゃないか。
速乾性の洋服とサンダルとかで、誰もが足並みをそろえたなら。あの電車内の酷くこもった空気もなくなるだろう。毎度のように傘を忘れることもなくなるだろう。不必要なほどの冷房は、体温が奪われるからかからなくなるだろう。ほら、徳しかない。
今では定着したクールビズは、時の政府が先導して世に広まっていた。確かそうだ。じゃあこの梅雨時ビズ、そうだな、ウェットビズないしはモイスチャービズは、ここ錦糸町のはずれのマンションの一室から広めていこうじゃないか。そうだ、そうしよう。
 
そ、そうだ、そうしよう。