徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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自由再考

誰でもフォローできるツイッターに、なんでも見られるデイリーモーションに、いつでも開いているコンビニ。あらゆる物事が自由にできる世界である。ゆとり教育なんて吹いて消し飛ぶほどの、圧倒的ゆとりたっぷりな環境で、まさに生きている。

便利です。そりゃもうひっくり返ったって何したって便利。テレビすら全部録画して好きな時に見られちゃったりね、便利。

 

テレビのない部屋に暮らし始めて数ヶ月。自分がどれだけ選択できる自由に踊らされているかがわかった。

仕方なしにラジオをつけているのだが、ラジオからの情報はそれはざっくばらんだ。好きでも嫌いでもない音楽がじゃんじゃん流れるわ、聞いたこともない人がギャアギャア騒いでいるわ。ラジオドラマや討論番組もやっている。

おそらく、全部録画録音したら必ず無視していたであろう番組が流れ続けている。

情報を選別するのは悪いことではないだろう。むしろテクノロジーが進んで行っている証拠の最たるものだ。エスカレーターが階段を登る手間を省くように、電子レンジがあらゆる調理の代行を買って出るように、先進技術が情報の取捨選択のお手伝いをしてくれているわけだ。

問題はきっと、あまりに華麗に情報を選択させてくれているために、「選択した情報を手に入れている」という感覚を忘れがちになる点にある。多少は肌感覚として選択している気はしていても、その遥か上を行く偏り具合で、世界を見ている。我々は。

文明社会に生きる上で、生身の情報や、何のフィルターも通さない情報に触れあい続けるなんて、キャスターやプロデューサーにならないと無理だ。だから甘んじて受け入れるしかない。正直仕方ない。色々な角度で書かれた記事や情報を咀嚼して、自分なりの見識を深めていく方法は最も有効だろうけど、そこまでの熱を持って考え続けるのはなかなか骨が折れる。

だからせめて、なんでも知っているとか何にでもなれるのような、自由にごまかされたり、自由を取り違えた考えは持たないようにしようと思う。

 

結局、今、ラジオすら止めて、コンポからスピッツが流れている。耳触りのいい、お気に入りは心地よいものだ。ゼネラルな自由を得るには、あまりにハードルが高い。