徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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比喩と感傷のメカニズム

中島みゆきに、二艘の船という歌がある。漢字が違うけれど、まぁ許してもらう。

この歌に痛く感銘を受けている友人がいて、バッチリ影響を受けた結果、しばらく前にみゆきしか聞かない時期があったわけだが。


できれば曲を聴いて、歌詞を見て欲しいが、つまりはこういう歌である。

人は寂しさに振り回されちゃう。この寂しさをなんとか捨てられやしないでしょうか。そうだなぁ、君と私はさながら二艘の船だ。私の船が沈む時に、君の船が少し軋むはずで、君の船の悲鳴が、私の行く手を照らすのだ。一蓮托生。寂しさを捨てられるような愚かさは、結局のところ得られはしないのかもしれないなぁ…

8分近くの大作なのだが、すーっと聴ける曲。愛情とか友情とか、あらゆる情を舟に重ねている。歌詞だけでも、ははぁ…なんかわかるなぁと思う。舟になったこともなければ、舟に乗ったこともないのに。


かと思えば、悲しくてやりきれないという曲もある。フォーククルセイダーズの曲。

悲しくて悲しくてとてもやりきれない
このやるせないもやもやを誰かに告げようか

これほどストレートに悲しさってやつを言及している曲もないだろう。とてもやりきれないのである。悲しさの行き場がないのだ。なにに例えるでも無く、悲しさを悲しさとして表して、悲しさのまま受け入れようとしている。


ストレートにも変化球にも打者が空振りするように、比喩を用いない場合も比喩の場合も、きっとどちらでも心は動く。感動までの激情では無くとも、はぁぁぁ。と納得させられる。

そして、比喩の対象は限りなくいろいろなものに向けられる。

ゆらゆら帝国というバンドに、ひとりぼっちの人工衛星という歌があるのだけれど、これもまた猛烈に寂しい。これ以上ない無機質の物質なのに、更新が途切れたまま宇宙に漂っていることに思いを馳せると寂しくて仕方なくなる。人工衛星にも、舟にも、ともすれば樹木、蝉、カブトムシにも、人はなれてしまう。自分を重ねられてしまう。

しかも物体に思いを馳せるだけじゃない。天気なんて要素や色なんて要素が入ってきた日には、比喩の氾濫が止まらない。


つまるところ、我々は自分の気分に合うものを探し続けているのだろうと、思うわけだ。代弁してくれる何かを探して、同じ気分であろう何かを探して。そんな風に日々生きているんじゃないか。重ね合わせるものを探す中で、たまに悲しくてやりきれないなんて言われると、一周回ってじーんとする。振り子のように、自分を表すエトセトラを求めているんじゃないか。探す先が各々が興味とする場所で、曲の中だったり映画の中だったり、絵の中だったりする。

つまり極端な話、どんなことでも人は共感できるのだろう。

ということで、次の休日にでも玉ねぎの一番外側の皮に思いを馳せたロックバラードでも書いてみようと思う。共感と感動の渦を、玉ねぎから起こしてみせる。硫化アリルに頼らない涙を流させる。

乞わないご期待。