徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

押韻の文化を考える

海外の、いわば欧米の歌を聴いているとよくわかるが、語尾で韻を踏む。チャックベリーやらニールセダカやらのポップス黎明期から語尾で韻を踏む文化が浸透している。さらに考えてみれば、古代中国の漢詩(李白とか杜甫とかの時代の)では、七言絶句では二句目と四句目の語尾で韻を踏むルールがあった。踏み方で頭のよさを競ったって、高校の頃国語の教科担任だった史子先生が言ってた。

 

地球は丸い、地球は同じ、地球は狭い、ただ一つ。イッツアスモールワールドが言う通り、情報の伝達速度の速さ、文化の成熟によって世界が見事に小さくなった今、英語がキーランゲージになっており、世界の歌の基礎には英米で発達したロックアンドポップスやフォークが浸透している。

音楽のつくりが輸入品であれば、歌詞の乗せ方もリズムの取り方と輸入品となるわけで。

日本独自であろう演歌の拍子の取り方が一拍目と三拍目にとるのに対し、最近の音楽ではもっぱら二拍目と四拍目にとる。手拍子の仕方を考えてもらえるとわかりやすい。

 

日本の芸能に精通しているわけではないが、日本のリズムはこの一拍目と三拍目にくるリズムであろうことは間違いない。中学の頃、草野心平の河童と蛙という作品を学んで、なるほどなと思った記憶がある。

るんるん るるんぶ るるんぶ るるん

つんつん つるんぶ つるんぶ つるん

河童の皿を 月滑り

じゃぶじゃぶ水を じゃぶつかせ

顔だけ出して 踊ってる

最初の部分の引用なのだけれど。るんるんるるんぶの部分からして、「る」と「つ」で踏んでいる。河童、皿。じゃぶじゃぶ、みず、じゃぶつかせ。顔、出して。手拍子しながら読むと分かるが、圧倒的に一拍目と三拍目に手拍子を打ちたくなる。裏拍なんてもってのほかだ。

んるん るんぶ るんぶ るん

んつん るんぶ るんぶ るん

っぱのらを つきすべり

じゃぶじゃぶずを じゃぶつかせ

おだけして おどってる

太字が韻ですね。

 

武具馬具武具馬具三武具馬具、合わせて武具馬具六武具馬具

で有名な外郎売りだってそう。早口言葉だが、手拍子を叩くなら「ぶ」。拍子は頭にある。「ば」で叩いてもいいんだけれど、どうしてもしっくりこない。

 

やはり、日本人のソウルビートは一拍目と三拍目。頭に来る。

ビートルズのレットイットビー。世界的名曲だが、日本人だけが極端にあの曲を好いている。ヘイジュードやイエスタデイなぞより、圧倒的市民権を得ている。

なぜか。これも韻に秘密がある。

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom, let it be

最初のバースである。

実はこの歌は語尾で韻を踏んでいない。頭で踏んでいる。

find,times,mother,come

speaking,wisdom

これらがリズムで言う頭なのだが、綺麗に日本語で言う「あ」と「い」で韻が揃えられている。つまり、レットイットビーに限って言えば、一拍目と三拍目に手拍子が合うのだ。韻の踏み方だけで言えば、河童と蛙と全く同じである。

言わずもがな、これが日本人生来のリズム感に受け入れられているのだろう。

 

もっといろんなレパートリーの曲を書けたらなぁと思いながら、この記事を書いている。韻を踏むのは好きだが、どうしても語尾を合わせることだけ考えてしまう。ドラムパターン的にも、スネアが裏拍で鳴るせいもあり、語尾に合わせやすいのは否めない。

ただ裏拍の押韻一辺倒だとどうしても出来る曲が偏る。言葉選びも偏る。

せっかく体内の生まれ持ったビートは前拍で合わせにいっているのだから、今後作る曲は頭も合わせて行きたい。新境地を目指したいものだ。

 

韻を考えてみた。