徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

街角哲学

昨日横断歩道を待っている時、隣にお父さんと娘が並んだ。娘は5歳くらいだろう。一生懸命にお話ししている。父はそれに応えている。

あのねー、お父さん。お父さんは太陽に近いからねー、すぐ熱中症になるんだよ!
そうだねー、気をつけなきゃねー。

微笑ましい。実に微笑ましい。娘から見たら父親はそりゃ太陽に近い。そんな父に熱中症になりやすいと気遣いをする娘。なんて微笑ましい。娘欲しい。

あのねー、お父さん。熱中症ってねー、暑さに負けることなんだよ!暑さに負けると熱中症になるんだよ!
お父さんは暑さと闘わないから大丈夫なんだよ。
 
この躱し方はどうだろうか。考えたい。
闘わないから負けない。至極その通りだがしかし、それは負け以下なのではないか。
いや、いいんだよ。娘のなぜなに攻撃は想像の斜め上を行くものがあるだろう。ご察しします。回避もするだろう、躱しもするだろう。しかし今、そんなことはさて置いてだ。闘わないから負けない。この理屈について考えたい。
BUMP OF CHICKENに時空かくれんぼと言う歌がある。この曲、闘わないから負けない論法の濫用により成り立っている。
安心すると不安になるね
絶望すると楽になるね
見つめなければ見られたりしない
貰わなければなくすこともない
抜粋の抜粋だが、言葉の端々を逆手にとってなんとなく納得させられる歌詞である。他にも、ラフメイカーという有名な曲があり、そこには「信じた瞬間裏切った」って名台詞がある。
始まらなければ終わらないし、生まれなければ死なない。極端に言えばこういうことだ。究極のネガティブ。しかし負けてないし死なないし終わらない。
その昔は、この論理にものすごく納得していた。これぞ哲学だ、後の先をとってこそのフィロソフィーだ。思春期の生暖かい感性がビンビンと共鳴していた。

でもやっぱこれは詭弁だ。筋が通らない。確かに、ただ負けないだけなら戦わなければいい。ただ知らないだけなら興味を持たなければいい。でもそれは負けよりも無知よりも愚かなことだ。情けないことだ。不戦のお山の大将は、連戦連敗ハルウララよりも弱い。
勝ちや負けのように分かりやすい構図であれば、闘わなくとも負けの意味がわかる。でも単純なものばかりの世界ではない。やってみなきゃどうなるかわからないことだらけなのだ。だから、とりあえずやってみるしかない。なにもしないから負を知らないでは、何も語れない。負に転ぶかどうかもわからない問題から逃げるのは、あまりに滑稽じゃないか。

あのお父さんは確かに華麗に直射日光と娘の質問攻撃を躱していた。
熱中症なんて分かりやすい不調をきたすそれに関しては、戦わない強さも必要だろう。
まぁあれだ、ケースバイケースだ。
戦わなければならない勝負もあることを忘れなければ、それでいいのだ。