徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

誰かの期待に応えたい人生

今週のお題「一番古い記憶」

最古の記憶について書けと、ブログから振られたので書く。

最古の記憶だと自信を持って言える記憶なんてないのだけれど、まあ古いであろう記憶をたどってみる。作られた記憶でないであろう記憶をたどる。

いくつか思い当たる。2歳あたりが最古の気がする。確実な記憶としては。

ちょっと背伸びをして、自力の記憶と後付の記憶の瀬戸際を考えると、もう少し前までさかのぼれる。1歳ちょっとのころのこと。

来客があってはしゃいでいた。来客は誰だか知らない。覚えていない。いとこだった気もする。1歳児の私は、テンションの極みで何故か服を脱ぎ、そこにあった段ボールを湯船に見立てて入浴を始めた。1歳児の疑似入浴である。可愛いに違いない。場が沸いていた。笑顔がこっちに向けられていた。ノリノリである。もっと見ろ!もっと喜べ!全力で入浴した。

もうなんか、誰かに喜んでもらえればなんでもいい的な性格らしい。自分の恥は極端でなければ捨て、好みは抑え、誰かが喜んでくれるならそれでいいやって思って生き続けている気がする。

地元のホテルで行われたクリスマスディナー会のサンタさんにもらった嬉しくもなんともないプレゼントをもらった時も、全力全身で喜んだ。サンタさんも喜んだ。嬉しかった。

人の善意もないがしろにできなければ、人の悪意もないがしろにできない。きちんと向けられた悪意にはこたえなければいけない気がしてしまう。

攻められたらへこむし、刺されたら傷つく。取り合ったらあほやーって思いながら、どうしても寄り添ってしまう。人の悪意に寄り添ってしまう。

誰にとっても都合のいい人間になりたいらしい。毒のないがしかし引っかかるところもない人間になりたいらしい。聞こえは美しいが、実際は情けない。何しろ自分がどっかに行っている。主体がない。実態がない。

多分付き合いのある奴が読んだところで、嘘じゃんお前そんな空気読めた人間じゃないじゃんって言われると思う。そうかもしれない。自分で自分の思い通りにならなくて人のせいにした部分を誇張しているだけかもしれない。

しかし、個人的には空気読んで場を回したり、空気読んで黙ったりしているのである。

結局誰もが空気を読んで生きてるわけなんだな。もういいや、今日は着地させない。

 

去年の今日

 

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