徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

継続は力なりの真理

継続は力なり。

何年も続けたピアノがいつまで経っても弾けたりする。技術的な問題もそうだし、一個一個音符を拾って行く忍耐強さや、ミクロからマクロを見つける能力が養われているんじゃないかって、親父がよく親バカを言う。

確かに、ピアノはやっていてよかったなぁって感じる。いま曲を作れているのも、当時アホほど曲にぶち当たってできた素地のおかげによる部分も大いにある。


継続してきて、辞めたとしても、理論的な所では成熟を見込めるが、技術的な部分や肉体的部分は衰える。

もう当時ほど指は動かなければ、当時ほど速く走れない。

継続しなければ得られなかったものがたくさんあれど、継続を辞めて失ったものも同じくらいだけある。


継続は力なりという言葉は、理論や精神的な所にフォーカスされているものなのだろうか。継続を辞めたその先も、残り続ける力まで見据えた言葉なのだろうか。それとも、継続している間は力になっていくけど、継続辞めたらもう力にもなんともならないよーって、結構辛辣なメッセージが含まれた言葉なのだろうか。

どちらも真であるように思う。


けど、今日、機と思った。

継続している事実が、そもそも力なんじゃないか。継続が生み出す諸々ではなく、継続自体がすでに力。


中断や撤退は思いの外簡単にできる。やーめたって言ってしまえば、それっきりだ。ちょっとその辺の通りでトラックの前にこんにちはすれば現とサヨナラできるし、仕事も家も投げ捨てて奈良の下の方の森とかに迷いこめば、社会的にサヨナラできる。

英語が続けられないとか、ダイエットが続けられないとか言っている以前に、実は皆様がた、ものすごく継続している。生命もそうだし、社会とのつながりもそう。何代も何代もかけていまの生活に落ち着いて、それを無意識的にか意識的にか続けている。悠久の基盤を壊すのは簡単で、むしろ続けている事実が凄いことで。


継続は力なり。

つまるところ、継続しているあなたは凄く力がある人間なのです。そう言いたいんだと、勝手に解釈した。今日。歩道橋の上で。

なんか幸せじゃないか。続けているだけで、そこからなにを得られているのかわからなくても、続けている事実が力であると。

本日も文字を書き、電車に乗り、働くわけで。継続パワーが溜まって仕方ない日々を過ごしています。