徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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わたくし、昨日が誕生日でした

誕生日でした。あらゆる方向から誕生日おめでとうと言われ、心より幸せな一日を過ごさせていただきました。

誕生日おめでとう。

これはすごいことばだと思う。生まれた事実、生存している事実をおめでとうと言ってもらえる。死後は命日に成り代わってしまうけれど、生前は誕生日に生の肯定をしてもらえる。「生きていていいよ」の証明にもなれば、「生きていてくれて嬉しいです」の表現も何のためらいもなくできる日になる。

この度いざ誕生日を迎えてみて、誕生日おめでとうから巻き起こる近況報告の突風こそ誕生日の醍醐味なんじゃないかと感じた。

誕生日ぐらいにしか連絡しない人が多い。仕方ない。生きている限り人とのかかわり合いの密度は変化し続けるし、いつも同心円状に人間関係を保ってなどいたら誰とも親しくなれない。

ただ誕生日だけは、人間関係の偏りが均される。今どうしているんだろうなって人に、なんのためらいもなくおめでとうと言える。

日本人は何かと酒を飲みたがる。正月、節分、ひな祭り、花見、こどもの日、海、お盆、落ち葉狩り、オクトーバーフェスト、勤労感謝新嘗祭、年末。ほぼ途切れなく、何かの理由につけてお酒を飲もう、盛り上がろうとする。根っからのパーリーピーポーなのだろう。陰湿な控えめパリピ。

それと一緒だ。誕生日。連絡する理由になる。口実になる。誕生日を覚えている覚えていないで誰かへの思いが測れるとかのちっぽけな話じゃなく、人づてにでもSNS伝いにでも誕生日だよと知らされ、あ、今何やってんだろって気になった段階で誕生日の役目は果たされていると思う。

人間、生まれたからにはお互いの人生に関わりあってなんぼだろう。人と言う字は支え合って云々と金八により使い古された表現よろしく、何人も何人もの人間が折り重なって支え合って生きている。その誰もに等しく誕生日はあって、よほどよほどに卑屈な気分で誕生日を迎えない限りは祝われてまったく悪い気はしない。何しろ支え合いの関与し合いが人生だ。気にされている事実が嬉しい。

 

また来年まで、いや、相手の誕生日まで連絡しない気がする人と連絡が取れてよかったと思う。超個人的な節目を迎え、厄年を迎えつつある中で感じたことでした。

祝ってくださったみなさんありがとうございました。