徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

鬼怒川から思わされたこと

鬼怒川が牙をむいた。読んで字のごとく、鬼が怒った。何の罰なのか、人類は心当たり有りすぎてわからない。

豪雨と豪雪どっちが困るかなぁって、道民は考えることが多いんじゃないだろうか。流れる物か残るものか。流されるか押しつぶされるか。正直、3/11のあの津波を見て、水の恐ろしさを知って以来、固体は液体にかなわないと悟った。つまり、雪は雨に勝てない。雨がもたらす被害には雪は勝てない。

この度の大水害でも、改めてその序列を確固たるものにした感がある。堤防が決壊した川はとめどなく溢れてあらゆるものをさらった。

雪で困るのは、孤立だ。豪雪のため一本道がふさがれると、陸の孤島が簡単に出来上がる。しかし、これは雨にも言えることで、豪雨には土砂崩れが必ずセットでくっついてくる。何も豪雪だけが断絶ではない。

唯一、埋まる点において、雪は脅威を示す。去年、我らがふるさと北見市にほど近い場所で、車の中で生き埋めになって亡くなった方がいた。猛吹雪の中のドライブ。地吹雪と吹雪でホワイトアウト。進めなくなった車のマフラーが雪が覆い、エンジン掛ければ一酸化炭素中毒、エンジン止めれば凍死という八方ふさがりの中亡くなったらしい。

これを聞いて、雪にビビった。故郷を怖いと思った。なんだその生き地獄は。

ただ、車が水没すれば同じ末路だろう。にっちもさっちもいかなさは水没の方が恐ろしいかもしれない。雪はまだ生きる望みがある気がするが本当は絶たれている的な怖さがあるが、水没には望みが最初から見えない。

 

古代エジプトナイル川は氾濫してなんぼだったらしい。むしろ反乱を「ハピ」と呼んで、待ち望んでいたという。氾濫後の肥沃な大地に、麦を植えて彼らは生きていたと。

文化が成熟するたび、自然と離れるたびに、自然に弱くなっている気がする。人工物と自然は光と闇なのだろう。どちらが光でどちらが闇と言つもりはない。光がなければ闇もなく、闇がなければ光もない。お互いがお互いの鏡であり、天敵なのだ。

一生懸命書いたけど、実際は晴れてよかったなあと、平たい感想が何よりの本音だったりする。洗濯物が無くなった幸せは、何にも代えられず。