徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

身近な絶望

軽口を叩くのはあまり美しいことではない。なんの根拠もない自信や、強気すぎる言葉は弱く見えるし、感じる。大したことが起こってもいないのに、死ぬぅぅぅっ!みたいに言う人も随分と薄っぺらく感じる。
絶望。望みが絶たれること。転じて、現在はがっかりや衝撃的な落ち込みに対して使われる。今季絶望。絶望要塞。絶望的な強さ。彼が一回戦の相手だと聞いて、僕は絶望した。まぁ使い方としてはこんなとこだろう。どれも望みが絶たれている。
生命レベルでの望みの断絶でなくても、望みが生まれうる事柄に絶望は着いて回る。記憶と忘却が切っても切れないように、望みと絶望も表裏一体だ。
男性がスタンディングスタイルで用を足すとき、2パターンの方法がある。いわゆる社会の窓を開けるか、ズボンを下げるか。スーツ、スラックスに代表者される、比較的きちんとしたスボンの場合、社会の窓は有効な手立てである。何しろベルトが付いているからして、ズボンを下げる手間が生まれる。対してジャージやスウェットの場合はズボンを下げるしかない。奴らには窓がないから。
ギリギリまで尿意を我慢せざるを得ない状況は誰だって経験があるだろう。少しの緩みも許されない緊張。下腹部への集中。不器用な歩行。そうそう体験したくない感覚である。トイレまでの距離が遠いなら集中力が続くが、目の前にトイレが開かれていてしまう場合、途端に弛緩が始まる。あ、間に合う。この苦しみから放たれる。至福の瞬間がジリジリと近づいてくるのがわかる。
尿意から解放されると言う、望み。我慢する必要がなくなるであろう、望み。
便器を前にし、いよいよ迫ったその時。履くはスウェット。ズボンを下げるスタイルで臨むがそのとき!紐が締まっている。ズボンが下りない。紐を引っ張るも、そんな日に限って硬く硬く絡み合っている。
恐ろしい絶望である。生きながらして殺されている。生物的には認められている、漏らす行為が頭をよぎる。生物的に認められようと、社会がそれを許さない。板挟みの間、締め付けられる。

何も大げさでなくても、いくらでも絶望は転がっている。こんなことを書いている何分かの間でも、例によって膀胱が非常にキリキリしている。電車の中だと言うのに。
なんやかんや、絶望の淵に立てど、絶望自体はしてこなかった自分の人生に自信を持って、しばしの乗車を耐えぬこうと思う。人間の意志を、舐めるな。