徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

キリスト教系の幼稚園を出て、思うこと。

無宗教国家日本。

形として仏教を信仰している人が多いが、仏を思っているかといえばそんなことはなく、法事の時だけ仏教徒の皮を被る人がとても多い。

我が実家も例に漏れず浄土宗を標榜はしているものの、なぜか家に神棚がある。神仏集合という鎌倉時代最新のトレンドを組み込んでいる。で、僕と僕の父が40年の時を隔てて通った幼稚園が、北見藤幼稚園である。キリスト教系の幼稚園だ。神仏ゴッド大集合である。オーマイゴッド。

 

藤幼稚園は、かなり真面目にキリスト教をしていた幼稚園だったように思う。一般にキリスト教系の幼稚園がどこまでキリスト教を教えるのかは知らないが。

聖書も読んだし、お弁当の時間には必ずお祈りをした。クリスマスにはミサがあり、賛美歌を歌った。生活発表会では聖劇を演じた。イエスキリスト誕生前夜からの出来事をなぞった。

卒園後もYLSというちょっとした英語とちょっとしたキリスト教のお勉強をしましょうという習い事コースが用意されており、ものの見事に小学校時代の6年間通いとおした。

藤幼稚園に通った2年と、YLSに通った6年のおかげで、キリスト教のもろもろには人よりほんの少し詳しくなった。旧約から新約まで、流れが把握できているかというと怪しいが、要所要所のエピソードは知っているつもりだ。

 

ここ最近はイスラム原理主義を掲げる過激派の活動で、宗教自体が恐ろしいものというイメージがつきつつある。また、新興宗教のは乱発で胡散臭さも増している。

宗教を学ぶということは果たしてどういうことなのか。

この先、長いこと付き合っていくであろう友人が1人、家業の寺を継ぐために、今、修行に出ている。そいつに聞いてみればいいのかもしれないが、なにぶん俗世と断ち切られているが故、聞きようがない。

ほんの少しだけ学んだ宗教。果たしてどのような作用を僕の中に生んだのだろうか。何を残しただろうか。

 

他の宗教のことはよくわからないが、キリスト教はご丁寧にも世界の創造から物語が始まる。なにもない空間。言葉と神だけがあった空間で、神が「光あれ」と言う。光が差す。明と暗ができる。ここから順番に天地を創造して行き、6日目に人間が生まれ、7日目に休息する。聖書の書き出しである。

キリスト教は、僕に起源に対する不思議を与えてくれたように思う。宇宙の果て、過去の果てに興味を示すようになったきっかけを与えてくれたのは、間違いなくキリスト教だ。

成熟した科学技術が支配する現代で、最初に言葉と神だけがあって、「光あれ」と言ったら世界が生まれました。というのは俄かに信じがたいことである。幼稚園の頃は無垢に信じていたように思うが、小学校高学年にもなると、それって果たして本当なのかどうなのかと疑う目が出てきた。

嘘とは到底言いきれないが、本当とも言い切れない。世界の起源。じゃあ、本当の宇宙の始まりってどんなのなんだろうか。これで僕が天文学者だか哲学者だかになっていれば美談だが、何のことはないサラリーマンである。しかし、当時抱いたこの疑問は僕自身を大きく成長させてくれたように思う。

すべての物事には始まりと終わりがある。原因と結果がある。キリスト教は無意識にその事実を教えてくれていた。答えの提示ではなく、問題提起をしてくれていた。始まりを考える行為はなかなかに体力がいる。生きとし生けるものの誰一人、どれ一つとして答えを知らない問題なのだ。想像でしか話ができない。

一人っ子で、誰も邪魔されることなく物事を考えられたこともあって、考える行為が好きになった。考えを何とかして表現しようと思った。訳もなく世界の起源に迫るような小説を書こうと思って断念した。小学三年生の事。未だに何とかして考えたことをこうやって表そうとしている。

考えることが人間の仕事であるとした記事を書いたが、暴論持論を振るうと、人としての大切な機能を養ってくれたのが宗教であったと言える。

 

宗教観や世界観を植え付けるだけが宗教じゃない。むしろ経典に書いてあることの解釈合戦が宗教だ。「考える」の初歩としてはこの上ない導入だったように思う。

何教でも、社会にきちんと認められている宗教(何ともあいまいな言い方だけれども)であれば、考えるきっかけとしての機能は有しているはずだ。

もしも、あらゆる幸運に恵まれた末に、自分の子供という存在と巡り合えたとしたら、是非何らかの宗教に属した幼稚園に入ってもらいたい。彼が彼女が、どんな世界を考えるのか。聞いてみたい。