徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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文章における縛り

趣味がら、歌詞をよく書くのだが、この歌詞を書く作業がとても好きだ。メロディーを作ったりギターを弾いたり、極端な話歌うよりも歌詞を書く方が好きだ。

詩ではだめだ。小説でもダメなのだ。歌詞でなきゃいけない。

詩、エッセイ、小説、ブログ(日記)、川柳、俳句、歌詞、評論。どれもこれも、文章プラス何等かの媒体を用いて、自分を表現する手法である。これらを、制約順に並べるとこうなる。気がする。

俳句>川柳>歌詞>評論>詩>小説≧エッセイ>ブログ

ここにおける制約とは何かというと、文体にどれだけの規約があるかだ。俳句が俳句であるためには、五七五七七のリズムと季語が必要で、川柳には季語は入らずとも文字数に決まりがある。歌詞には文字数的な決まりはないが、節とあった言葉を選ばなければならないため、自然と縛られていく。評論こそリズムは必要ないが、評する対象が必ず存在する。内容として縛られる。そのあとはまずまずの泥沼合戦だが、詩に関しては文字数として多すぎることはできないあたり。小説とエッセイはフィクションと日常との二大散文として。ブログはジャンル&スタイルフリーな場として。どんどん自由になっていく。

多分、多分だけど、俳句を詠む人はあの文字数だからこその緊張感があるのだと思う。一文字の負担が圧倒的に大きい。接続詞すら惜しいくらいの文字数で、情景から心情を、心情から情景をあらわすテクニック。天晴れである。まして枕詞なぞ使おうものなら身動きが取れなくなってしまう。

歌詞を書いていて思う。縛りや枠組みは自由を奪う割に、創意工夫をうむ。精査の推敲を呼ぶ。ものすごく限定された条件の中で考える面白さの虜になる。逆に、小説を書ける人はすごい。一本ないしは複数の軸の上で、架空の物語をつらつらつらと書いていく根気と力量。何でもできるからこそ、ありのままの文章力を試されている。恐ろしくて手が出ない。出したくない。出せない。

程よい縛りがあるからこそ、生き生きとできるのかもしれない。今からずっと夏休み!って言われて、生き生きできるだろうか。制限のないお休みは苦痛だろう。光があるから、影がある。メリとハリ。縛られているからこその自由。言い得て妙であり、真理だろう。

というわけで、そろそろ曲書こうと思う。