徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

伊勢正三 「ほおづえをつく女」の歌詞を考察する

伊勢正三が好きだっていうのは、何度も書いた。母、叔父、叔母、あらゆる人の影響を受け、満を持してかぐや姫を好きになり、南こうせつよりも伊勢正三に惹かれた。何がいいとか、どんな人なのかとかは、正やんについて書いたこの記事をぜひ見て欲しい。独断と偏見にまみれた正やん像が見え隠れするはずだ。

 

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「ほおづえをつく女」という曲の良さを理解できたのは、そこそこ大人になってからだったように思う。中学生のころは聴き流すだけだった。高校も後半にさしかかり、ほおづえをつく女の良さに気がつき出した。

ほおづえをつく女は、正やんと大久保さんのフォークデュオ「風」の4枚目のシングル。3枚目のアルバムからのシングルカットらしい。なにしろリアルタイムを生きていないから、細かいことと詳しいことはわからない。しかし、ヒット曲を時系列に並べたベストアルバムを聴くと、この曲の異質さがよくわかる。全然フォークじゃない。果たしてジャンル分けがどこまでの意味を持つのかは疑問だが、シティポップというジャンルに属される音像らしい。山下達郎とか、大滝詠一とかの流れだと理解している。ちょこっとジャジーなギターからイントロが始まり、正やんが歌い出す。なごり雪や22歳の別れをヒットさせた人間が作ったとは思えない曲調だ。

和洋様々な音楽がポッケの中で楽しめる今、曲調に関して感動することとかは少ない。リアルタイムでかぐや姫、風と追ってきた人であれば衝撃的だったのかもしれないが。だからこそ、ちょっと歌詞についてみてみたい。ほおづえをつく女の歌詞を考察したい。そして、この曲で正やんは何を言いたかったのか。その答えを探る。

曲構成としては、Aメロ→サビの流れを4回繰り返す。4回の繰り返しの中で、ほおづえをついている、ある女の恋愛模様を「ほおづえをつく」行為が持つ意味と共に描き出している。

一番の歌詞を書きだしてみる。

振り向きもせずに 男は去った 女は半年泣き続けた

薄暗い部屋でほおづえをついたまま 幸せな日々を思い出していた

なぜ捨てられたのかもわからないまま

女は半年泣き続けた

女はフラれた。物語は始まる。一つの歌詞群の中で、半年泣き続けたと二回も言うほどに、ショックな別れだったのだろう。女はほおづえをついている。薄暗い部屋、幸せな日々の懐古。頭をよぎるのは、なんで自分がフラれてしまったのかということばかり。

一番におけるほおづえは、落ち込んでいる、物憂げなほおづえである。メジャーなほおづえだろう。ほおづえついているときは、考え事をしているときだと相場が決まっている。

引き続き、2番でも女はほおづえをつく。

新しい季節が女を変えた 出会いを求めて街に出た

髪を切り胸のボタン一つ外して 化粧を直して女は生まれ変わった

お茶を飲みながらほおづえをついたまま

女は男を探し続けた

季節が変わった。何しろ半年泣き続けたのだ。そりゃ夏も冬になるし冬も夏になろう。ここで女は生まれ変わる。失恋から立ち直ったのである。自分を磨き、フラれた男から精神的にも旅立った。そうして女は次の男を探すのである。

そう、ほおづえをつきながら。ここでのほおづえは、待機のほおづえだ。いい男いないかなぁ~。の、ほおづえだ。一番とは、気持ちも変われば意味合いも変わっているのがわかる。なにしろ、ほおづえをついているときは、ぼんやりしながら待つときだと相場は決まっている。

さて3番。女の待機が実を結ぶ。

女はそっとタバコくわえた 男はすかさず火をつけた

かげりある女はとてもきれいに見える 思わず誰でも手を差し伸べてみたくなる

灰皿の中の古い燃えさしがまた

新しい炎で燃えあがった

女は男を捕まえた。年下と見受けられる。大きな失恋を越え、ぼんやりする女のその魔性に、どんな男も構ってやりたくなってしまうと。一度は潰えた燃えさしも、新しい男のおかげで燃えあがった。この表現が憎いわけだが。

お気づきだろうか、3番では女はほおづえをついていないことを。なぜなのだろうか。タバコをくわえているからか。男がいるからか。

最後の4番。女は果たして。

数える間もなく 時は流れた 振り向きもせずに男は去った

慣れすぎた暮らしに女は甘えすぎて 男の心にまでほおづえをついてしまった

夜空の星がとても美しいのは

ほんの少し光っているから

女はまたしてもフラれてしまう。やはり、振り向きもせずに。何が問題なのだろうか。すべての原因は、ほおづえにあった。

ここまで、ほおづえは具体的な行動として描かれてきた。女は実際にほおづえをついていた。4番では違う。男の心。ここにほおづえをついている。心理的ほおづえである。心理的ほおづえが意味するのは怠惰だ。暮らしに甘えすぎた結果が、心理的なほおづえだった。

ほおづえをつかなかった3番。この歌の中で、3番だけが唯一、女は精神的にも見かけ的にも張りつめていた。男がいる。付き合うか付き合わないか、一番ヒリヒリする時期である。ほおづえなどついちゃいられないのだ。それ以外のバースでは、女の心に何らかの緩みや弛みがある。それが女にほおづえをつかせていたのだった。

この歌を通して正やんが言いたかったこと。それは最後の1節に集約されている。

夜空の星がとても美しいのは ほんの少し光っているから

ぎらぎらの星では、美しさは感じられないのだ。ひそやかだから、かげりがあるから、だからこそ夜空の星は美しい。

つまり、親しき仲にも礼儀あり。蜜月と言えど、ラブラブと言えど、どこまで行っても他人である。それを勘違いしてほおづえなんてついちゃうと、いつかは愛想つかされるぞ。これが正やんの主張なのである。ジャジーでファンキーなシティポップに乗せて、正やんはこんなにも論語に載りそうなことを説明してくれていた。

まったくもってその通りだ。一定の距離が人を美しく見せる。近づけば近づくほど、人の醜さや愚かさが見えてくる。もしかしたら、すべてはほおづえの仕業なのかもしれない

なんて考えている自分のポーズがほおづえをついていることに気が付いた今日。僕のタバコの燃えさしが燃え上がるのはいつなのだろうか。