徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

吉田拓郎を聞きながら思うこと

吉田拓郎をしっかり聞いたのは、大学に入ってからだった。かぐや姫との対バンフェス「つま恋」を、中学2年の時に重度の熱に浮かされながら見てはいたけれど、母がかぐや姫好きだったせいで、かぐや姫しか印象に残っていない。

名前も知っているし、曲名もわかるけど、どんな曲でどんな人なのかを知らずに、大学生になった。

大学3年の冬だったか、拓郎のベストアルバムを買った。実家に拓郎のアルバムがないのを言い訳に、買ってもらった。2枚組、30曲入り。「今日までそして明日から」「結婚しようよ」「旅の宿」くらいしか知らない、とんだ拓郎ビギナーが拓郎を聞き出した。

拓郎を聞くはるか前、ビートルズを聴き出した時、親父は若者の耳にビートルズがどのように映るかをとても気にした。新しく聞こえるのか?どうなんだ?何度尋ねられたかしれない。

ビートルズはメロディーが聴きやすくて、それこそデイトリッパーやペーパーバックライターのリフに斬新さを感じた。対して拓郎は、古臭かった。言葉数の多さにしろ言葉遣いにしろ、良くも悪くも時代を映しているような古臭さを感じた。かぐや姫のように生来ずっと聴いていたら、また違った印象を得られたのだろうが、あー、これがこの時代のフォークだよなぁーなんて知ったような顔でアルバムを聴いていた。


次の帰省のとき、実家のテレビのハードディスクに拓郎とアルフィー坂崎幸之助の対談が入っていたから見た。CDは買ったものの、拓郎の曲をそこまで聴いてはいなかった、ある冬のことだ。

拓郎はスタジオで人生を語らずを歌った。痺れた。

朝日が昇るから起きるんじゃなくて

目覚める時だから旅をする

聞き流していてはわからなかった。この強烈なメッセージを聴き逃したまま、古臭いだなんだ言っていた自分が恥ずかしい。

自律・覚悟といった、切実に身に迫る決意をした後、それを越えてゆけと鼓舞し、越えられていない今はまだ、人生を語らずとしめる。なんという若者のエネルギーか。人生を考え、方針を定め、未熟さも受け入れた上で人生はまだ語らない。格好良すぎる。

音楽が無料化して、ながら消費が主流となった今、作り手の方もここまでの熱量を曲に込めることができなくなっているんじゃないかとさえ思う。耳触りのいい言葉と響きさえあれば。間違っちゃいないが、拓郎のような愚直な熱さがない音楽が溢れかえっている。

レコードの前で、音楽とだけの時間を作ることが音楽消費の主流だった当時の、熱さの片端を拓郎は見せてくれる。貴重な音楽体験だ。

今はまだ、音楽を、音楽を語らず。