徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

一夜明けて思う。人の死とは後悔だ。

昨日からなんで人が死んだら悲しいんだろうと、考えている。ずっと。宇宙が出来てから、ないしは地球が出来てから、生命が生まれてから、繰り返され続けてきた死だ。人類や生物はいい加減死に慣れてもいいんじゃないだろうか。けれどどうやったって、人の死は悲しい。
会えなくなるからさみしい。喋れなくなるから。顔が見られない。忘れていくから。さみしい理由は十分すぎるほどある。色々な悲しさが襲ってくる。波状攻撃だ。
ぼやぼやーっと思いを巡らせて、浮かんでは消える悲しさは全部後悔のせいだと感じている。
むしろ人生は後悔そのものってくらい後悔にまみれていることに気がついた。
あの時ああしていれば。あの時こうしていれば。たらればは尽きない。人生や未来が一本道だからこそ、在りもしない他の道が恋しくなる。
そんなこと言ったって死んだ人は戻ってこないし、後悔したってどうにもならないんだからやめなさい。
この論理はすごく的外れだと思う。だって人生は後悔なのだ。どんなに辛かろうと、切なかろうと、後悔から逃げられないのだ。どうせ後悔するのだ。盛大に後悔したい。後悔に埋もれたい。その先で後悔から解き放たれることなんてなくても、後悔していたい。
例えば僕がばあちゃんに後悔を捧げるように、誰かはきっと僕に後悔をしている。なんならばあちゃんだって後悔しながら逝ったに違いない。後悔のプレゼント交換をしているのだ。僕らは。
悔いのない人生なんて嘘だ。悔いがあるから悲しくて、さみしい。人生はそうやってできてるんだ。だからこそ、後悔する。後悔から逃げられないなりに、受け止めてやる。
後悔をあげたりもらったりしながら、ごまかしごまかしやってくんだ。