BUMP OF CHICKEN最初期の曲で今もなお絶大な支持を集める曲。ボーカル藤原が17とかそこらの歳で作った曲である。BUMPをそこそこ知っている人であれば誰でも知っている曲であり、ファンの中では有名すぎてむしろ好きというのが憚られるくらいだ。
今日、改めてしみじみと聞いてみた。
再確認できた。これはものすごく励まされる。生とか努力を相当に肯定されている。
藤原楽曲初期に見られる、物語調の歌詞が展開される。ストーリーをさらう。
ガラスの目を持つ猫が主人公。主猫公。
猫は、四六時中得意のブルースを歌っている。叫んでいる。ガラスの目を持つ猫のブルースだから、ガラスのブルース。
喉が枯れば川の水を飲み、ちょっといいご飯を食べられたらそれでシアワセな人生を過ごしている。猫生。
ガラスの目を持つ猫は自分の命に限りがあることを知っている。いつか死ぬことを知っているから、今を歌う。今、叫ぶ。生まれてきたことこそ最大の意味だと歌う。
結局、ガラスの目を持つ猫は星になる。でもみんなの心の中にそのブルースは刻まれている。辛いことがあったら、きっとみんなそのブルースを思い出すでしょう。
ざざーっとこういう流れだ。
この歌の最大の特徴は、今が大事だとか命に限りがあるから精一杯生きろとかって説教臭いことを、ガラスの目を持つ猫に歌わせている点にある。
ガラスの目を持つ猫という、いまいちよくわからない存在に命の尊さと有限を語らせる。
猫とか犬とか、小動物の命の儚さは一度なりともペットを飼った人間ならわかるし、そうでなくても想像に難くない。日向でゴロゴロして、飼い主にヒョコヒョコついていく彼らにどんな哲学があるのか、考えてしまう。
ガラスのブルースの猫は、そういう一般の動物とも少し違う。ガラスの目を持っているのだ。作中に、ガラスの目を持っているからどうこうという部分は出てこない。ガラスのブルースを歌う所以でしかない。子猫のブルースでもよかったのではないだろうかと勘ぐりもする。なぜガラスのブルースなのだろうか。
ただの猫と、ガラスの目を持つ猫。
僕らは自分とあまりにかけ離れた実在をどうせ自分とは違うからと遠ざける傾向にある。イチローは努力の虫だったからあれほどまでの結果を出せたと言われて、素直に努力をする人はそう多くはない。イチローが自分とかけ離れすぎて、追う対象になりえないのだ。
例えば普通の猫が必死に生きていると言われて、どれだけの人がひしひしと生きようと思うだろうか。
いや猫だし。そんなこと言ったって猫に苦労はないし。
斜に構えたくもなる。
そこでガラスの目を持つ猫である。ガラスの目を持つ猫が必死に生きている。この構図は、普通の猫の必死さよりも何故か親しく感じる。ガラスの目を持つ猫は実在ではないからだ。誰もが想像できそうでできない、微妙なラインにガラスの目を持つ猫は存在している。ガラスの目を持っていることで、僕らの斜に構えたさを抑制している。
だからガラスのブルースは頑張る気にさせてくれるのだ。心なしか背中を押してくれるのだ。
今日もガラスのブルースを聴いて、よもやま事なぞ大したことないわ!と無理矢理ポジティブをかます。
僕の前に暗闇が立ち込めても、その日まで精一杯歌を唄うのだ。