徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

文章力とはなんなのか

文章力がある、ない。文章力がついた。文章力をつけるためのたった5つの習慣。脱・文章力。

まるで空を掴むような力、文章力。最近は雑談力だ、人間力だ、何かと名詞をパワーメント化しようとする動きが目立つ。いや、それに力をつけても正体がわからんだろってパワーがのさばったりしている。

文章力は比較的メジャーな力な割に、具体的な文章力の説明を求められても困ってしまう力ではなかろうか。読みやすい文章を書けるのが文章力のある人間なのか。どうなんだ。

何が楽しくてか知らないがぐだぐだぐだぐだとブログを書き続ける日々がここ1年ちょっと続いている。さぞ文章力が上がったんだろうねと言われることもある。果たしてそうなのだろうか。だから文章力ってなんなのよ。

 

多分だけど、文章力には2種類ある。

  • 1つの出来事を繊細に書きあらわす力
  • 複雑な出来事を簡潔に書きあらわす力

1を10にする文章力と、10を1にする文章力と考えるとわかりやすい。

実際に文章力トレーニングをした人がどう考えるかは知らないが、ブログを続けたことで身につく力は前者に違いない。対して後者はビジネスライクな力で、小説や評論の要約、情報伝達に強い。

社会生活の中で、前者の力が身を助けることはあまりない。会社にいる人はわかりやすさを求めてくる。必要なのは後者の文章力だ。上司に対するメモの書き出しが、「15時。空腹と疲労のバンズにサンドされながら、私はさながらパテになったような気持ちで仕事をしております。さて、本題ですが…」とかだったら上司のグーパンチによってパテ一歩手前の肉塊になる未来が見える。悔しいが。

自分の心情や情景を表す力は、文化的には豊かな気持ちになれるが、ある種の自己満足の上に成り立っていることがわかる。伝達するためのツールとして文章を考えると、余計な尾ひれは要らないのだ。繊細に表したい。面白おかしく書きたい。これが自己満足以外の場面で発揮される場面を考えても、そう多くは浮かばない。ライターにでもならなき限りは。

前者が自己満足の力だとしたら、簡潔に表す力は、相手の立場になってこそ鍛えられる能力だ。思いやりの力。彼は彼女は、上司は先輩は、一体何を今知りたいだろうか。考えて考えて、無駄なく伝える。自分のエゴを完全に排除して、相手のためだけに伝える。伝達先がポエティック大好きピーポーであれば自由は許されるが、そんなミラクルはそうそう無い。

 

ブログを好き勝手書いていると、さながら自分が書ける人間なんじゃないかと錯覚してしまう。こんな表現はきっと誰もしたことないやろ!ってほくそえむこともままある。しかし、結局は伝えたいことをぼやかしているに過ぎない。端的の極致を目指しているに過ぎないのだ。

これからもブログは書いていくが、一方でしがないサラリーマンをやって行くのも事実で、そのためには文章力の両輪を回していかなければならない。今の僕にとっては、朝起きてカーテンを開けたら土砂降りの冬の雨が降っていた時の憂鬱を3000字書くのは容易いが、取引先からの要望をメモ用紙一枚で伝言するのはひどく難しい。別の脳を働かせねばならない。鍛えねばならない。

でもそんなんで没個性ヤッホーな無味無臭マンになるのはさらさらごめんなので、顔面パテにならない程度に求められてもいない描写をちらつかせてはいたい。

 

文章力とは。という問いは、自己満足と思いやりとの狭間で揺れるシーソーである。

果たして自己満足がそのままお金になったら幸せなのだろうか。誰か、この文章を一文字1円で買いませんか。いかがですか。