徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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社長は凄いのか、偉いのか。

会社の数だけいる存在、社長。零細企業でも、大企業でも、CEOだなんだと肩書きを変えながらも必ずいる、社長。

特に大企業の社長はテレビとかにもよく出てきているから、実家にいる頃から見る機会があった。しかしもっぱら不祥事があって謝り倒している姿を見ることが多く、この人は本当にすごいのだろうかと考えてしまうこともあった。

働いてみて、社長のイメージが変わった。偉い人だとは思っていたが、社長は凄い人である。

頭がキレるとか、まぁそういう面もあるのだろう。話したりしたらきっと、頭の良さに感服する社長は世の中にごまんといる。

だが僕が凄いと思ったのは、社長にならんとするその心意気だ。

社長には、なろうと思わなきゃなれない。一定のところから、出世はしようと思わなきゃできなくなる。ただの切れ者なだけでは出世はできない。上の人に好かれ、能力を認められた暁の出世だ。野心がなければできたもんじゃない。

具体的にどんな能力が必要なのよ。社長。

 

さて、障害を抱える人は、必ず何かに依存している。目が不自由であればメガネであり、白杖。耳が不自由であれば補聴器であり、読唇術

対して健常者である僕らは、何にも依存していないように見えて、あらゆるものに依存している。目に耳に口に、足に手に。あらゆる四肢と五感に依存してこその健常だ。

逆説的に、障害を抱えている人のほうが自立していると考えることすらできる。

 

じゃあ社長はどうだろう。仕事を進める上ではどうだろう。究極、あらゆるものに依存できる存在こそ、万能なのではと思う。

あなたなら、君なら、教えてあげたい。手を差し伸べてあげたい。本人が切れ者だからそう思われるのか、ただひたすらに徳があるのか。何にせよ、恒常的に依存できる存在であれば、それは強い。

社長の行き着く先は、極端な話シンボルに近いのではと思う。会社の内情なんて外からは知る由もない。誰もに支えられる、支えたいと思われる人が、色んなアドバイスを受けて、間違いのない意思決定をしていく。総意が自然とあらわれる、そんな舵取り。

毛利敬親がそうせい候と呼ばれたごとく、全幅の信頼関係からなる依存と依存。

 

なんだって、ちょっと自分に力をつけるの疲れました。もう、人に仕事をやってほしい。できもしない仕事をパスしてやりたい。

社長は遠い。